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伊藤緑
2019年9月11日 15:20
一 出産というものに初めて違和感を覚えたのは、私が中学生の頃でした。あなたが産まれたときです。 風が吹けば田んぼに緑の波が立ち、昼間は蝉の声が、夜はクビキリギスの声がする、そんな夏のことです。当時二十代後半だった叔母が、元気な赤ちゃんを、あなたを産み、私の家にやってきたんです。 あなたを抱く叔母と、その隣に立つ旦那さん、叔母より一回り年上の私の父、そして母。大人たちはみんな破顔していました
2019年9月11日 13:53
目が合えば、スーツを着た女の人は足早に去っていった。雨足が強くなっていく。公園の芝は水を吸い、街灯の白い光で淡くきらめいていた。ベンチに腰掛けたまま上げていた顔を下ろしたら、胸がひざにくっついて。重たい頭。こみ上げてくる胃液。また吐いた。吐いて、雨に濡れた手の甲で口元を拭えば、肌がぬるり。口からアルコールが蒸発していくような気がした。 ちらつく。こずえの下に溶けていった黒い背中が。彼女の手に
2020年6月9日 18:38
枯れたあじさいたちの前で、女が一人、しゃがんでいた。丸い背中。カーキ色のシャツや藍色のスカートは、しわだらけで。顔をのぞけば、女の青い手が目についた。やせた十本の指が、花弁を包み込んでいる。 ねっとりとした風が、広場を這って。シャツの襟元でたゆたう黒髪が、陽光で真白に濡れている。女の正面で、朽ちかけたあじさいたちが、さらさら鳴って。紫、水色、白、ピンク。澄んだ色など、一つもなくて。あるのはた
2019年10月13日 12:24
くもり空の下で裸足になって、波打ち際に立ち、一歩踏み出そうとしたときでした。紙が何枚も飛んできたんです。舞って、舞って、潮に落ちて。色が、形が、変わっていきます。 灰色の水がしゃぶっていたのは、原稿用紙でした。赤い格子が、暗い水面を淡く彩って。捕らわれていた黒い文字が、じんわりとにじんで。溶けていきます。腰を曲げ、足首に絡まった一枚を拾い上げたら、水に噛みつかれて。破れて、ちぎれて。白波に呑
2020年5月21日 12:29
初めて男の子の髪をきれいだと思ったのは、物心がついたころでした。女子よりもさらさらした髪の子が一人、同学年にいたんです。登校班も同じで、あたしはその子の後ろを歩きながら、いつもうっとりしていました。それこそ、下級生に話しかけられても気が付かないくらい。あたしはその真っ黒い毛先に、目玉を突かれていたんです。串刺しにされていたんです。 触れてみたい。 だけどその子は男であたしは女。触りたいか
2020年2月6日 12:11
一 恭介《きょうすけ》のほっぺたをぶったとき、かじかんだ手がしびれました。青白いほっぺたは、ほんのりと赤みを帯びて。 神社へと続く石段に座っていたわたしたちの頭上から、杉木立の、葉ずれの音が降ってきます。白い息に隠れるように、幼い瞳がわたしを見上げてきて。木漏れ日が、骨張った手や、色の悪い唇の上でちらついて。セーラー服の上に羽織っていた灰色のコートの裾を、わたしはぎゅっと握り締めました。「
2022年6月20日 23:33
男らしく、女らしく。そういった言葉が枯れて、色が暗くなっていく隣で、引っこ抜かれていくそばで、こんな言葉が花を咲かせています。日を浴びて、与えられた水を弾いて、きらきら瞬いているんです。 人間らしく、自分らしく、あなたらしく。 でも、その色も葉の形も、脇で朽ちている花唇のそれと同じだって、私は思うんです。 男らしく、女らしくの花言葉でパッと思いつくのは、抑圧、制限、規範、重圧、規定で
2022年3月20日 20:16
正しさという傘の種類が、もしビニール傘だけだったら。そう唇だけで笑わずにはいられません。握っている白い柄だけが共通で、そこから先は様々なんですから。色も形も、素材も模様も大きさも。機構だって。あと一緒なのはそう、どの傘も空想だってことでしょうか。 (了)
2021年11月20日 16:31
描かれた世界観によって、目の前はすっかり覆い尽くされています。それどころか、その世界観に合致しない存在は、そこにいると世界観を破ってしまう存在は、レッテルを貼られ、場所によっては狩られています。 見ない聞かない考えない。あったとしてもつもりだけ。願望や希望、明るさで塗りたくりながら眺めることを見るとは言わない。聞きたいことだけに、やまびこだけに耳を傾けることを聞くとは言わない。心地よい意見や
2022年3月19日 22:08
詰まりかけのシンクが、流れていかない薄い水が言うんです。何かを見ようとしている目、その目の焦点は合わないものだと。曖昧な視線だけがその何かを見ようとしていると。まっすぐな目玉に何も感じないのは、その目が恣意と概念と乱交しているから。それを見せびらかしながらも平気でいるから。虚ろに輝く、色のべったりと塗られた瞳だけが何かを映そうとしている。だから震えるくらい、そうした目に指を入れたくなるんだって。
2022年3月13日 19:15
言葉は本当に過保護です空と会うことも緑と遊ぶことも川と喋ることも決して許してはくださらないんですから
2022年3月10日 22:36
心に根を張って一切を吸い取っていく明るい言葉より夜気の響きのなかでしか生きられない暗くて小さな言葉のほうが僕は好きです
2021年7月29日 11:08
自分を規定せずにはいられないんですねと、その人は悲しそうに微笑していました。 他者による規定には怒り、悲しみ、傷つき、抵抗するのに、自らによる規定には一切逆らわない。それどころか、積極的に自分で自分を決めようとする。線を引き、色をつけようとする。自分というものに言葉や概念を、価値観を感覚をあてがって、新たな、自分だけの区分を創り出しては設定し、そこにその身を配置する。つまりはそういうことなん
2021年12月21日 01:15
地獄だねってつぶやけば地獄だねって微笑まれてふって笑いやり取りは終わるそれでじゅうぶんなのだから微笑しながら生の地獄を認め合うこと存在とのやり取り存在としてのやり取り