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1983-84年ユーラシア大陸(+アフリカ大陸北東端!)「ほぼ」一周の旅, note リンク集

前説

最初に念の為に書いておくと, この前文の下にある 本 note 目次つまり旅 note リンク に付いている, それぞれのタイトルには, 「(写真 .. 枚)」と書いてあったりなかったりするものがあるのだが, 後者であっても, すなわちそうした記載がなくとも, 殆どの note にそれぞれの土地で撮った写真は掲載してある。ではでは。

さて,  以下の前文は, 本 note を投稿する今日 2022年5月11日 から振り返ってのこと。本 note は随時更新していくので, 少なくともタイトル上の画像に関しては頻繁に変えていくことになる(本括弧内は 2023年 2月4日 編集:現在のタイトル上の画像は, 筆者が 1983年 4月26日 に 横浜港からのフェリーで 日本を発った時に撮った写真。これまで目次を追加する度に更新してきたが, ちょうど39年前の 1984年 2月4日 の帰郷に関する note リンク を目次に加えた本日, 更新は了)。

1983年4月26日 に 横浜港から当時のソ連ナホトカ港行き 2泊3日フェリーの旅で日本を発ってスタートさせた, 筆者22-23歳の時のバックパック一つ担いでの海外「放浪」もどきの旅に関する自分の note リンク集を作ろうと, 昨日 2022年5月10日 の夜, 思い立った。昨日の夜は, シベリア鉄道など使って東から西へと 2週間ほど旅した当時のソ連のその首都モスクワを発ってヨーロッパに向かってから, ちょうど 39周年となる夜だった。

そういうわけで, 今日 5月11日 は, ヨーロッパに入った記念日。

というわけで ♫ 以下の曲を自分にリクエスト, と言っても自分が弾くんじゃなくて(笑)カルロス・サンタナが弾いてるんだけど(本 note のこの前文は以下の YouTube リンクの下に続きます)。

Europa (Earth's Cry Heaven's Smile) 〜 from Santana's seventh studio album "Amigos", released on March 26, 1976 ♫

さて,

今のロシアもそうだけど, 当時のソ連は尚のこと, モスクワも含めてヨーロッパの香りがしない国(連邦国家)だった。しかしイルクーツク辺りまでならともかく, イルクーツクから西へ西へ, モスクワ方面までのおおよそ西半分を踏まえるなら, 当然ながらシンプルにアジアとも見做せない, そんなロシア, ってか, 当時のソ連, 

すなわち ソヴィエト社会主義共和国連邦, その構成国の一つにして中でも最大の国家だったロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の首都モスクワを, 1983年5月10日 夜10時ジャストにモスクワ駅発のフィンランド・ヘルシンキ行き夜行列車に乗って発ち, 次の目的地(国)であるフィンランド共和国の首都ヘルシンキの駅に着いたのが, 翌 5月11日, 今から 39年前の今日の現地時間 昼過ぎ, 当時の旅日記によれば 12時45分頃。

1. 序章

ここでは note リンク 4点(後ろの2点は旅と一体どれだけ関係があったのか, しかしふと何か関係あったかもと思いつき, 当初 2点のつもりだったところに急遽加えたもの, 少なくとも 2点目と 3点目及び4点目 は関係あるのだが)。

1) 旅をしようと思い始めたのは 1979年4月に大学に入学してからほんの数ヶ月程度経った頃だったと思う。以下の note はそんな大学時代, 3-4年時の札幌での思い出。 

札幌, 深夜の大通公園1981-82, 大人の「はないちもんめ」 〜 花いちもんめ(はっぴいえんど)

2) 1983年4月26日 ユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行への出発(旅立ち) 〜 旅立つ前と後に読んだ本、旅立つ前に聴いていた曲 ♫

3) ピアソラ と サラサーテ と 鈴木清順 「ツィゴイネルワイゼン」

4) グレイス・ジョーンズだけじゃない 〜 I've Seen That Face Before (Libertango) ♫

2-1. 横浜 1983年4月26日 ユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行への出発(横浜から船でソ連, 今のロシアのナホトカへ) 〜 "Every Picture Tells a Story" (Rod Stewart): 歌詞和訳

2-2. 横浜 1983年4月26日, 39年後の同日2022年4月26日と同じ火曜 〜 ユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅へ出発, 横浜港からの船で向かった先は当時のソ連, 今のロシア!

3-1. USSR ソ連 「探訪」 〜 1983年4月28日・ナホトカ, 29日・ハバロフスク

3-2. USSR シベリア鉄道の旅 〜 ソ連 「探訪」: 1983年4月30日, 5月1日・2日

3-3. USSR シベリア鉄道「途中下車」イルクーツク 〜 ロシア人少年少女に声かけられフリスビー、彼らの中学校に招待された1983年5月3日, 4日(もちろん当時はソ連!)

3-4. USSR 今頃はシベリア鉄道「列車の旅」の最中だったから 〜 列車が絡む歌の数々 ♫

3-5. USSR シベリア鉄道の旅 〜 列車内で酔いどれロシア人と一緒に歌ったロシア民謡 ♫

3-6-1). USSR シベリア鉄道の旅して着いたソ連, モスクワ 〜 1983年5月8, 9, 10日

3-6-2). USSR 1983年5月9日 〜 ソ連の対ナチスドイツ戦勝記念日当日, 首都モスクワにいたのだった

3-7. USSR ビートルズ "Back in the U.S.S.R." を聴いてソ連の歴史を齧った後 〜 パロられたチャック・ベリー "Back in the U.S.A.", ビーチ・ボーイズ "California Girls" も聴いてしまう ♫

4. Europe ヨーロッパ に入った 1983年5月11日 〜 BGM は サンタナ, 邦題 「哀愁のヨーロッパ」

5. Finland 宙に舞い静止するアホウドリ 〜 ピンク・フロイド Echoes 和訳, フィンランド・ヘルシンキ編

6. Sweden 遥か昔の今頃, イングリッド・バーグマンと ABBA の国, スウェーデンにいた

「遥か昔」1983年5月12日 の現地時間(当たり前か)夕刻6時過ぎに フィンランド の首都 ヘルシンキ をフェリーで発ち, 1泊2日の船旅で スウェーデン の首都 ストックホルム に向かった。ストックホルム には 1983年5月13日 朝9時ごろ着。

7. Norway ノルウェー, 「憲法記念日」(独立記念日)見聞 〜 1983年5月17日, 写真27枚 ♫

ノルウェー の 前の訪問国 スウェーデン の首都 ストックホルム には 2泊3日滞在。1983年5月15日 にストックホルム中央駅にてパン・チキン・サラダなどで夕食を済ませた後, 夜行列車で ノルウェー の首都 オスロ へ。オスロ には 1983年5月16日 朝, 着。翌日 5月17日 は, ノルウェー の「憲法記念日」。華やかなパレードを見物することができた。

8. Denmark 赤いワインをぶちまいた, 遠い夕映え背に受ける ♫ 〜 コペンハーゲン, デンマーク: 1983年5月20日

前の訪問国 ノルウェー の首都 オスロ には, 1983年5月16日 から 5月18日まで 2泊3日滞在。オスロを 5月18日 の夜行列車で発ち, 翌 5月19日 朝にデンマークの首都 コペンハーゲン に着いた。

9. Denmark 草の根 企画の カーニヴァル 〜 デンマーク・コペンハーゲン: 1983年5月22日(写真15枚)

幸運にも ソ連・モスクワ では ソ連の対ナチスドイツ戦勝記念日 当日に滞在(赤の広場は群衆で埋まっていた), ノルウェー・オスロ では 同国の憲法記念日 当日に滞在して記念のパレードやストリート・ミュージシャンなどで大賑わいの オスロ の街を見物, そしてここ デンマーク・コペンハーゲン でも, 1983年5月22日 に, 大きな大きな カーニヴァル に遭遇。

10. West Germany 1983年初夏に滞在した, 西ドイツ・ハンブルク 〜 1960-62年, ビートルズが 「今」 を生きていた街

なんて大袈裟なタイトル(笑)。どっちにしても, ベルリンにまだ壁があった時代のドイツ, その西側のいわゆる「西ドイツ」(正式名称は日本語では「ドイツ連邦共和国」, しかし ドイツ は現在も「ドイツ連邦共和国」, ドイツの再統一は 旧「東ドイツ」[民主的な国ではなかったけれど正式名称は「ドイツ民主共和国」] の各州が「ドイツ連邦共和国」に加入するという形で行なわれ, 要は「西ドイツ」が「東ドイツ」を吸収合併した結果が 今の ドイツ なので, 国名も「西ドイツ」当時のままに「ドイツ連邦共和国」, しっかし括弧長いな; 笑), その 西ドイツ の ハンブルク に, 1983年5月23日 から 同 25日 まで 2泊3日滞在した。そこは更に昔々, 若き日の, まだ世界的な人気を誇る前の, イギリス の ロック・バンド, ビートルズ が「青春」の日々を送っていた街なのさ, という話。

11. West Germany ベートーヴェンの故郷, そして西ドイツの首都だった Bonn 〜 Born to be Wild 聴く? ♫

前項に 旅 note リンクを載せた 西ドイツ・ハンブルク を 1983年5月25日 の夜行列車で発ち、翌 26日 の早朝 着いたのが ボン。ボン には 5月28日 まで 2泊3日滞在した。

12. West Germany Bonn で ベートーヴェンの生家に行った 2日後, Trier で マルクスの生家へ 〜 1983年5月29日

1983年5月28日 に当時の「西ドイツ」の首都 ボン を発ち, トリーア に向かった。トリーア は, カール・マルクス が生まれた街。ここにも 2泊3日滞在した(その後は 5月30日 に トリーア を発って列車で ケルン へ, そして ケルン からの夜行列車で ベルリン へ; ベルリン では 西ベルリン に宿をとり, 当時の「東ドイツ」の首都であった 東ベルリン の街も歩いた)。

13. West Germany ベルリンに壁があった時代, 西ベルリン編 〜 1983年5月31日(写真17枚)

マルクス の生家を訪ねた トリーア を 1983年5月30日 に発ち, コブレンツ を経由して ケルン に出て, ケルン の街をぶらついた後(ケルン には後日 再び寄る), 夜行列車で ベルリン に向かった。ベルリン の街にまだ「ベルリンの壁」があった時代, 翌 5月31日 朝, 西ベルリン に着。西ベルリン に宿をとり, 翌 6月1日 には 東ベルリン にも行ったが, まずは 西ベルリン。

14. East Germany ベルリンに壁があった時代, 東ベルリン編 〜 1983年6月1日(写真7枚): BGM は 憂歌団, Simon & Garfunkel, David Bowie, Roger Waters & more, Scorpions, Pink Floyd ♫

1983年6月1日, 西ドイツ(「ドイツ連邦共和国」)・西ベルリン にて宿の近くから地下鉄を利用し, チェックポイント・チャーリー(ベルリンが東西に分断されていた当時, その東西を隔てる境界線上に設置されていた「国境」検問所)の手前まで行って, 駅からその検問所までは歩き, そして文字通り「チェック」を受け, 東ドイツ(「ドイツ民主共和国」)・東ベルリン に歩いて入った。東ベルリン 側では 強制両替 25DM(懐かしのドイツ・マルク), そして ヴィザ取得の費用は 5DM だった。検問に関しては, 当時の旅日記によれば「時間はやたらとかかったが, たいした調べはない」。

15. West Germany ケルン大聖堂 1983年6月2日, 写真しょぼい2枚しかないので 〜 ベルリンまでのリンクと「宗教」絡み付録でも付けることにする

そうか, 前々項と前項の ベルリン は 1983年5月31日 朝に着いて, 6月1日 の夜行列車で発っているから, 西ベルリン・東ベルリン のそれぞれの街を歩いたものの, 1泊2日しか滞在しなかったことになる。ユーレイルパスの有効期間2ヶ月とヨーロッパ諸国巡りの後の中東諸国の旅が頭にちらついて, やや急ぎ足になっていたかもしれない。

ともかく, ベルリン を 1983年6月1日 の夜行列車で発ち, ケルン に向かった(前々項で触れたように, ケルン の街は 5月30日 にも一度ぶらついている, したがって一応は 2回目)。翌 6月2日 の朝, ケルンに着。

大聖堂を見物したりしたが, 結局 ケルン では泊まらずに 同日夜に 再び 夜行列車を利用して, フランス・パリ に向かった(パリ はギリシャ・アテネ に次いで ヨーロッパ で一番長居した都市。なお, ドイツ, 当時の 西ドイツ にはその後また戻って他の都市・街をさらに旅している)。 

16. France 1983年6月4日, フランス・パリの映画館で観た FURYO 〜 Merry Christmas, Mr. Lawrence 要するに「戦メリ」

1983年6月2日, 当時の 西ドイツ・ケルン を夜行列車で発ち, フランス・パリ へ。旅日記によれば, 翌 6月3日, 「朝 6:30 頃 パリ 着」。そして パリ 滞在 2日目, 6月4日 に, パリ市内の映画館にて, 当時ちょうど封切られていた 大島渚監督作品(デヴィッド・ボウイ, トム・コンティ, 坂本龍一, ビートたけし, ジャック・トンプソン, ジョニー大倉, 内田裕也など出演!)「戦場のメリークリスマス」, 現地でのタイトルは 'FURYO', 英題は 'Merry Christmas, Mr. Lawrence', を観たのだった。

17. France 1983年6月6日パリの「娼婦街」サン・ドニを歩いてみた 〜 BGM は Doobie Bros, Deep Purple, 憂歌団, S&G, and Tom Waits ♫

1983年6月3日 朝から始まった パリ 滞在, その 4日目。文字通り, パリの有名な 「娼婦街」サン・ドニ をただただ歩いてみたというおハナシ。

18. France 「ベルサイユのばら」が懐かしい, ヴェルサイユ宮殿に行ってみた 〜 1983年6月7日

タイトル写真は, 1983年6月7日 に フランス・ヴェルサイユ にある ヴェルサイユ宮殿 を訪れた時の写真。当時, 22歳と約9ヶ月! .. 感嘆符は要らないか(笑)。

19. France パリ, 1983年6月9日(写真8枚) 〜 モロッコ人移民と会った記念, Hindi Zahra 聴こう ♫

20. France パリ, セーヌ河畔, 1983年6月10日 〜 BGM は The Dangling Conversation (S&G) ♫

21. France パリにて, カンボジア人移民(難民)と話した, 1983年6月11日 〜 Teach Your Children (CSNY) ♫

22. France パリ 〜 10日目, 1983年6月12日, BGM は Mussorgsky, ELP, 加藤和彦, Date Of Birth, Avalon Jazz Band & Ella Fitzgerald ♫

23. France フランスの旅を振り返る, 1983年, 1988年, そして 1997年は Date Of Birth の歌で: 刺激的なフランス旅行 1983, 愉快なフランス旅行 1988 〜 「退屈なフランス旅行」1997 ♫

24. Switzerland スイス, ジュネーヴ滞在 〜 1983年6月13日, ジュネーヴ第4条約を想起しつつ BGM は King Crimson, Pink Floyd & more ♫

25. Switzerland マッターホルンが真正面に, スイス・ツェルマット 〜 1983年6月14日, BGMは "Ballad of the Beacon" by Wishbone Ash ♫

26. West Germany ドイツ に戻った, ドイツ最古の大学がある街 ハイデルベルク 〜 西ドイツ時代, 1983年6月16日(写真8枚)

以下リンク先 note の前文。

1983年4月26日の横浜港でスタートしたユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅, その50日目, 1983年6月14日にマッターホルンの華麗, 荘厳, 雄大な景色を堪能して1拍したスイス・ツェルマットを翌6月15日に発ち, 最初はオーストリア・ウィーンに行くつもりが, スイス・バーゼルに出たところでどういうわけか気が変わり, ドイツ(当時は「ベルリンの壁」時代なので西ドイツ!)のハイデルベルクへ向かったのだった。

というわけで, ドイツ に戻った(ドイツ 旅 note の既出については, 10 がハンブルク, 11 が ボン, 12 が トリーア, 13 が 西ベルリン, 14 が 東ベルリン, 15 が ケルン)。

27. West Germany フランクフルト・マインツ・コブレンツ 〜 ライン下りして 「ローレライ」, 1983年6月18日 〜 Take Me to the River (アル・グリーン, トーキング・ヘッズ, アニー・レノックス)♫

1983年6月15日 から 2泊3日滞在した ハイデルベルク を 6月17日 に発ち, フランクフルト に行って, そこでまず 1泊。翌 6月18日 朝, フランクフルト から マインツ に出て, マインツ 〜 コブレンツ 間を ライン下り, 城や ローレライ を見物した。

28. West Germany ミュンヘン・フュッセン 〜 ノイシュヴァンシュタイン城(ドイツ, 当時は西ドイツ) 〜 1983年6月20日(写真8枚)

前項のライン下りをした後, フランクフルト に戻って, もう 1泊。つまり, フランクフルト には 1983年6月17-18日, 2泊3日滞在した。翌 6月19日 フランクフルト を出て, シュツットガルト で途中下車してから, ミュンヘン へ。

以下, 下掲リンク先 note 第2章(章見出し「1983年6月19日に滞在したのは ミュンヘン」)より, その冒頭部分を引用。

そう, ミュンヘンだけど, 写真は 1枚も撮ってない。ハンブルクもそうだったけど, そういや, フランクフルトも, 滞在しながら写真は撮ってない。6月17日にハイデルベルクを発って, 17日, 18日とフランクフルトに2泊しているけれど, 前章でリンク貼った "ライン下り「ローレライ」note" にある通りで, フランクフルトから「出てまた戻る」してマインツ 〜 コブレンツのライン下りをした際は写真を4枚(だけ, 笑)撮っているものの, フランクフルトでは何も撮らなかった。

今のスマホ時代ならこれは有り得ないね。当時の自分はソ連, ヨーロッパ, 中東, アジアを長旅するつもりで, 金の次に節約を心掛けざるを得なかったのがフィルム。まぁこれだって今思えば, いくらいわゆる「貧乏旅行者」だったにしてもフィルム代はめっちゃくちゃ高かったわけではないのだから(よく憶えてないが多分!), もう少し撮っておいても良かったかなと。

しかし旅日記の方は, これは欠かさず, 毎日毎日書いている。金かかるわけじゃないしなぁ(笑)。

6月20日, 前日より 1泊2日滞在した ミュンヘン を発って, フュッセン へ。そしてその日は, ノイシュヴァンシュタイン城 近くのペンションに 1泊。

29. West Germany ダッハウ強制収容所(ナチス・ドイツによる最初の強制収容所)跡を訪ねた, 1983年6月21日

30. Austria 音楽の都ウィーンにて, ギターを教える日本人とドイツ語教師のオーストリア人のカップルのお世話に 〜 1983年6月22日&..

1983年6月21日 に 西ドイツ・ミュンヘン で乗った夜行列車で オーストリア の首都 ウィーン に向かい, 6月22日 の朝, 着。1泊した後, 翌 6月23日 の夜行列車で 当時の「ユーゴスラヴィア」の首都 ベオグラード に行ったが, オーストリア・ウィーン には後日また戻る。

31. Yugoslavia ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都だった, ベオグラード 〜 1983年6月, 3泊4日

1983年6月24日 から 27日 まで, 今は無き国「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」の首都だった ベオグラード に 3泊4日滞在。

32. Austria 「音楽の都」 オーストリア・ウィーン, 2度目の滞在 〜 1983年6月28-30日(写真8枚)

1983年6月27日 に当時の「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」の首都 ベオグラード を夜行列車で発ち, 翌 6月28日 朝, 再びの オーストリア, その首都 ウィーン に着。前回のウィーンは 1泊2日, 今回は 2泊3日, 合計すると 3泊5日!

33. Italy ヴェネツィア, イタリア 〜 1983年7月1日(写真7枚)

イタリア 旅 note 1本目。 

34. Italy 街そのものが美術館だった フィレンツェ, イタリア 〜 1983年7月3日(写真6枚)

イタリア 旅 note 2本目。

35. Italy 活気あふれる ローマ part I 〜 1983年7月(写真13枚)

ローマには 1983年7月4-8日, 4泊5日滞在(7月6日には ヴァチカン市国 も見物, ヴァチカン についてはこの次の回の note, ローマ part II にて)。

36. Italy ヴァチカンと共に, ローマ part II 〜 1983年7月(写真11枚)

ローマ 旅 note 2本目。

37. Italy 番外編: フィレンツェ, ヴァチカンで想起する ガリレオ・ガリレイ, ヨハネ・パウロ2世 〜 シネイド・オコナー, 結局「宗教」かよ

これは イタリア 旅 note の番外編。

38. Italy ポンペイの遺跡を歩いた, 1983年7月8日(写真11枚) 〜 "Echoes" Pink Floyd LIVE at ポンペイ, 1971年10月(歌詞和訳)

下掲リンク先 note の冒頭の文を以下に転載。

1983年4月26日に横浜港を発って日本を出てから74日目, 同年7月8日, その日まで 4泊5日滞在していたローマを発ってナポリへ移動, ナポリに宿をとってその日は列車で「現代の」ポンペイ市方面へ。目指したのは「古代都市」ポンペイの遺跡。

39. Italy もっと長居できればよかった, ナポリ, イタリア 〜 1983年7月8-9日(写真 5枚)

イタリア での最後の滞在地(宿泊地), ナポリ。

40. Italy / Greece イタリア から ギリシャ に渡った, 1983年7月10日(同年4月26日の日本出国以降を振り返り) 〜 地中海を渡るフェリーで聴いていた ダイアー・ストレイツ と ピンク・フロイド

下掲リンク先 note 1本目の中から以下に引用すると,

こうして 1983年7月9日, 同年4月26日に横浜港をフェリーで発ってユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行を始めた, 彼方(あちら)側から見たら「極東」の島国「日本」出身, 22歳のバックパッカーは, イタリアの匂いと香りがぷんぷんするナポリの街を夜行列車で発ち, アドリア海に面したイタリアの港湾都市ブリンディジに向かったのだった(上の上の旅日記 殴り書きメモの終わりの方にあるように「ナポリ, 時間ゆるせば もっといたいところだ。もっと早く来るべきだった」, しかしユーレイル・パス2ヶ月有効を気にしつつ, 中東・アジア諸国の旅への想いなどあって, ここでは急いでしまった!)。

ブリンディジには 翌7月10日朝着, 同日夜, フェリーでブリンディジを発ち, ギリシャ のペロポネソス半島北西部にある港湾都市パトラ に向かった(ギリシャ・パトラに着いたのは翌7月11日の昼過ぎ)。

note もう 1本。

41. Italy / Greece イタリア から ギリシャ に渡った, 1983年7月10日:番外編 〜 「凋落」日本が「飛ぶ鳥落とす勢い」に見えた頃の世界における立ち位置を, ダイアー・ストレイツ "Love Over Gold" (1982), ピンク・フロイド "The Final Cut" (1983) で振り返る

1983年7月, イタリア から ギリシャ に渡るフェリーの船上で聴いていた ダイアー・ストレイツ と ピンク・フロイド の曲から, 少なくとも経済面では「行け行けどんどん」に見えていた日本という国の, 世界における当時の立ち位置を振り返ってみる。

というわけで, 旅 note 番外編の一つ。

42. Greece ギリシャ, アテネ part α' 〜 1983年7月11-14日(写真16枚)

ギリシャ には 首都 アテネ と エーゲ海の島 サントリーニ とで合わせて 1ヶ月滞在した。下掲リンク先 note から引用すると, 

ギリシャ「入国」は 1983年7月11日パトラ に着いて, その足で(って実際は列車だけど!)アテネ に向かった。アテネ 到着は同日夜。アテネ にはだいぶ長く居た。細かいことを書いておくと(いま数えたんだけど, 笑)最初は 16泊17日, そして途中, 7月28日から8月1日まで 地中海の島 サントリーニ に 4泊5日滞在し(行き来は夜行, 当たり前だけどそれぞれ 1泊2日のフェリーの旅, アテネをいったん出たのは 7月27日), アテネ に戻ったのは 8月2日。その後, さらに 7泊8日滞在してから, 8月9日アテネ を列車で発って, 中東の第一訪問国/滞在国トルコのイスタンブールへ(イスタンに着いたのは 8月11日)。

43. Greece ギリシャ, アテネ part β' 〜 1983年7月15-16日(写真14枚)

ギリシャ 旅 note 2本目。

44. Greece ギリシャ, アテネ part γ' 〜 エロースが鎮座する国で「愛のコリーダ」観たり, アクロポリス・リカヴィトス等ぶらついたりの, 1983年7月下旬

ギリシャ 旅 note 3本目。1983年6月4日 に フランス・パリ の映画館で「戦メリ」を観ているから(あれは封切り間もない時期), 「愛のコリーダ」はあの旅の最中に観た 大島渚監督作品 2作目, ということになる。こちらは 1976年公開の日仏合作映画だが, 当時 日本では映倫がフィルムをズタズタにしてしまっていて無修正版は観られなかった, というもの。筆者が 1983年7月22日 に アテネ で観たのは, 当然ながらノーカット版。

映画のことをそれほど詳しく書いたわけではないし, 映画以外のことも書いているけれど, ともかく アテネ 旅 note 3本目。

45. Greece 地中海の舞踏 〜 ギリシャ・サントリーニ島, 1983年7月28日から 8月1日(写真8枚)

1983年7月27日 夜7時半, アテネ首都圏に含まれる港湾都市ピレウスの港を発ち, 1泊2日のフェリーの船旅で エーゲ海の島 サントリーニ へ。島には 7月28日 午前11時頃に着いた。

46. Italy / Greece 番外編 note リンク集 note Summer '83 (イタリア, ギリシャ) 〜 Summer '68 (ピンク・フロイド)

番外編 note, 旅 note 断続連載の「筆やすめ」。いや, 何も書いてないわけではないけれど。

47. Greece ギリシャ, アテネ part δ' 〜 1983年8月2-3日(写真6枚), なぜか三木清 「人生論ノート」

幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。

(三木清 著「人生論ノート」より) 

48. これは 旅 note ではないけれど, まぁ 人生 も 旅 みたいなもの 〜 豊かとか貧しいとか幸せとか不幸とかについて

予定していなかったけれど, この note へのリンクをここに置いておきたい。というのは, 前項リンク先 note の中で 三木清 著「人生論ノート」からの引用をしているのだが, そこに以下の note リンクを付していたので。自分にとってはわりと深く関係することなのだ, このことは。

49. Greece 番外編 オリンピック, 永久ギリシャ開催ってどう?(ギリシャがやるって言ったらの話)

この間の ギリシャ 旅 note を連載していた時期が, 例の物議を醸した「東京オリンピック」(一応 書いておくと, 当初 2020年夏 予定だったものが, コロナ感染拡大を受け 2021年夏 に延期, どちらにしても盛り上がらない五輪だったけどなぁ)の時期に重なったこともあって, 当時こんなタイトルの note を書いたのだった。

50. Greece ギリシャ, アテネ part ε' 〜 大規模反核デモに遭遇したアテネ, 1983年8月初旬(写真8枚)

ヒロシマ 8月6日 から ナガサキ 8月9日 の時期に合わせて行なわれた, 「民主主義の故郷」ギリシャ・アテネ における 1983年8月 の 反核運動・大規模集会とデモ。

51. Greece / Turkey 飛んでイスタンブール, じゃなくて 列車で アテネ から イスタンブール, 1983年8月9-11日 〜 1983年8月10日, Maneaters に襲われた夜

1983年8月9日 夜11時, それまで 1ヶ月滞在した国 ギリシャ の首都 アテネ を発って, 中東(「西洋」から見たら「中東」になるあの地域)の第一訪問国/滞在国 トルコ 最大の都市 イスタンブール へと向かう 2泊3日の列車 旅(イスタンに着いたのは 8月11日 朝)。

52. Turkey トルコ・イスタンブール, ガラタ橋で眺めた夕日 〜 1983年8月15日, 日本を出国して112日目

1983年8月9日 夜に ギリシャの首都 アテネ を発った 2泊3日の列車 旅 で, 同 8月11日 朝 着いた, トルコ 最大の都市 イスタンブール。

以下は, 下掲リンク先 note の第1章から転載。

1983年4月26日に日本を出国し, トルコ入国は同年8月11日だった(ギリシャ・アテネを8月9日夜11時発の列車で発ち, 11日朝にトルコ・イスタンブールに着)。イスタンブールやカッパドキア(ユルギップ)に滞在した後, トルコとシリアの間のトルコ側国境の街アンタクヤに滞在, アンタクヤから陸路シリアに入ったのが 9月5日。その後, シリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエル, 当時今のようなイスラエルによる軍事封鎖でなく直接的な軍事占領下にあったガザ地区(パレスチナ)から陸路エジプトに入り, カイロに滞在した後, カイロからその旅で初めて飛行機を使って2度目のトルコ・イスタンブールに飛んだ(1960年生まれの筆者の世代前後の人はたいてい「飛んでイスタンブール」という1970年代後半期の日本の流行り歌を憶えてると思う, あの歌詞の中身は本物のイスタンとは別物だけど, 笑)のが, 同年10月26日。再びのイスタンブール滞在を楽しみ, その後, 陸路で東へ移動, トルコの首都アンカラ, トルコとイランとの国境の街ドグバヤジッドに滞在し, ドグバヤジッドから陸路イランに入国したのが同年11月15日。

いまカウントしてみた。最初のトルコ滞在は25泊26日。2度目のトルコは20泊21日。トータルで45泊47日。1ヶ月半ってことか。けっこう長いな。ギリシャ(アテネとサントリーニ島)での30日よりだいぶ長い。その後のインド40日よりも長い。おお, 旅のルートによる事情もあったものの, トルコ滞在が一番長かった。で, 実際, トルコは旅していてかなり面白いところではあった。何と言ってもイスタンブール!

イスタンブールは 1回目は 8月11日から31日までの 20泊21日, 2回目は 10月26日から 11月8日までの 13泊14日, トータルで 33泊35日。おお, 5週間。やはり都市としてもイスタンブール滞在が一番長かった。確かにイスタン, よかったもんなぁ。

ではでは, トルコ 旅 note の 1本目。

53. Turkey トルコ・イスタンブール 1983年8月16-17日, Sultan アフメト・モスク, ボスポラス Straits 〜 Sultans of Swing, Dire Straits ♫

トルコ 旅 note 2本目。

54. Turkey / Iran イラン革命(1979年) 〜 1983年8月, トルコ・イスタンブールで同宿したイラン人兄弟から聞いた話を, 当時の旅日記で振り返る

トルコ の東側の隣国は イラン。当時の イラン の状況にも触れた, トルコ 旅 note 3本目。

55. Turkey イスタンブールは「旅心」の琴線に触れる街 〜 トルコ, イスタンブール 1度目の滞在・旅 note 第3編(1983年8月18日から8月31日)

タイトルに「第3編」と記していたものの, 前項の note も実質 イスタンブール 旅 note ではあるので, 下掲リンク先 note は イスタンブール 旅 note「第4編」とするのが適切だったように思う。

56. Turkey カッパドキア(トルコ) 〜 1983年9月1, 2日

トルコ 旅 note 5本目(前項が実質「4本目」)。

57. Turkey シリア入国前に滞在した トルコ側国境の街 アンタキヤの飯屋で見た吉永小百合(の額縁入り写真!) 〜 1983年9月3, 4日

トルコ 旅 note 6本目。この後は トルコ を発ち, シリア, ヨルダン, パレスチナ/イスラエル, エジプト を旅した後, カイロ からこの旅での初めての飛行機で イスタンブール に戻り, 2度目の トルコ の旅を始めることになるが, 次はまずは シリア の旅。

58. Syria シリアが括弧付きながら「平和」だった時代 〜 最初の訪問地 アレッポ, 1983年9月5-10日

シリア 旅 note 1本目。

59-1. ここで 番外編 (1) 911 を振り返る 〜 1960年, 1965年, 1973年, 1983年, 2001年, 2019年, 2020年, そして 2021年

シリア 2箇所目の滞在地 パルミラ で, 1983年9月11日 に, 我が 23歳の誕生日 を迎えたことから, この番外編を 〜 その(1)

59-2. ここで 番外編 (2) 911 アメリカ同時多発テロを振り返る

シリア 2箇所目の滞在地 パルミラ で, 1983年9月11日 に, 我が 23歳の誕生日 を迎えたことから, この番外編を 〜 その(2)

「911 アメリカ同時多発テロ」はもちろん 2001年のあれだし, 犯人はシリア人ではなく, パルミラ も直接関係しないんだけど!(以下のリンク先 note 1本目のタイトル写真は, 筆者が 1983年9月11日 に パルミラ で撮ったもの).. パレスチナ/イスラエル も直接は関係しないんだけど!(以下のリンク先 note 2本目のタイトル写真は, 筆者が 1983年10月3日 に 東エルサレム で撮ったもの).. ヨルダン も パレスチナ も直接関係しないんだけど!(以下のリンク先 note 3本目のタイトル写真は, 筆者が 1983年9月21日 に ヨルダン の首都 アンマン にある パレスチナ難民キャンプ を訪ねた際に撮ったもの)

1) 911 アメリカ同時多発テロを振り返る (2001年当時の日記から)

2) 911 アメリカ同時多発テロを振り返る (2001年当時の日記から) ー その 2

3) 911 アメリカ同時多発テロを振り返る (2001年当時の日記から) ー その 3

59-3. ここで 番外編 (3) シリア、パルミラの古代都市の遺跡で 23歳の誕生日を迎えた、1983年の 911 ... ってことはナニ? 今日 2020年9月11日、還暦かよ。

シリア 2箇所目の滞在地 パルミラ で, 1983年9月11日 に, 我が 23歳の誕生日 を迎えたことから, この番外編を 〜 その(3)

60. Syria パルミラ (シリア, 古代ローマ帝国の都市遺跡) 〜 1983年9月11日 (ISによる破壊の32年前)

シリア 旅 note 2本目。

61. Syria ダマスカス 〜 括弧付きながら「平和」だった, 1983年9月12-19日

シリア 旅 note 3本目。

62. Jordan ヨルダン, アンマン で パレスチナ難民キャンプ を訪ねて 〜 1983年9月19-23日

ヨルダン 旅 note 1本目。

63. Jordan アカバ(ヨルダン), 1983年9月23・24日 〜 西に見えるイスラエル領エイラートに向かって

ヨルダン 旅 note 2本目。アカバ から隣国イスラエルにある隣り街エイラートに向かって歩いていたら(もちろん国境を越える意図も他意も何もなく単にもう少し近づいて眺めようと思っただけのことだが, しかしまぁそりゃそうだね, 当然のように)ヨルダン国軍の武装兵士がやって来て, そのまま彼らの上官がいる野営地みたいなところに連行されたのだった。まぁ何と, 貴重な体験ではあった。

64. Jordan ペトラ遺跡(ヨルダン) - 1983年9月25,26日

ヨルダン 旅 note 3本目。シリア の パルミラ と並び, 中東で訪れるべき, 一度見たら決して忘れない, 確実に印象に残る(この後に更に限りなく美辞麗句を並べていいくらいの), 現代の ヨルダン にある古代都市の遺跡を訪ねた, その時の話。

65. Jordan 再びの アンマン(ヨルダン), 1983年9月26・27日 〜 トルコ・シリア・ヨルダン振返り note

ヨルダン 旅 note 4本目(兼「トルコ・シリア・ヨルダン振返り」note)。パレスチナ/イスラエル に向かう前に(為に)再訪した, ヨルダン の首都 アンマン。

66. Palestine/Israel パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る

パレスチナ/イスラエル 旅 note 1本目。イスラエル によって不当に占領された ヨルダン川西岸地区 に入り, パレスチナ/イスラエル の旅を開始。タイトル上の写真は, 筆者が 1983年9月29日 に イスラエル による軍事占領下の 東エルサレム にて撮影したもの。

67. Palestine/Israel ベツレヘム(パレスチナ) 〜 1983年9月30日

パレスチナ/イスラエル 旅 note 2本目。

68. Palestine/Israel ジェリコ, マサダ・死海; 1983年10月1, 2日 〜 そして 2021年のいま, 白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル

パレスチナ/イスラエル 旅 note 3本目。

69. Palestine/Israel エルサレム旧市街と「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日

パレスチナ/イスラエル 旅 note 4本目。

70. Palestine/Israel ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月4日

パレスチナ/イスラエル 旅 note 5本目。

71. Palestine/Israel ナザレ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月5日

パレスチナ/イスラエル 旅 note 6本目。

72. Palestine/Israel ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)に戻って 〜 1983年10月5日

パレスチナ/イスラエル 旅 note 7本目。

73. Palestine/Israel テルアヴィヴ/48イスラエル 〜 ディアスポラ博物館を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い(1983年10月6日から翌7日)

パレスチナ/イスラエル 旅 note 8本目。

74. Palestine/Israel テルアヴィヴ/48イスラエル, 1983年10月7-9日 〜 ガザから来ていたパレスチナ人一家, そして テルアヴィヴのユダヤ人, パレスチナ人

パレスチナ/イスラエル 旅 note 9本目。

75. Palestine/Israel エルサレムに戻って, 1983年10月9-10日 〜 見たり聞いたり考えたり思い出したりキブツに行ったり.. ヘドバとダビデの「ナオミの夢」 ♫

パレスチナ/イスラエル 旅 note 10本目。

76. Palestine/Israel ヘブロン, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月11日, 4月26日に日本を発ってから169日目

パレスチナ/イスラエル 旅 note 11本目。

77. Palestine/Israel 大学を訪ねたビルゼイト, ナブルス; 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月12, 13日

パレスチナ/イスラエル 旅 note 12本目。

78. Palestine/Israel エルサレム旧市街にて 〜 1983年10月14日, 4月26日に日本を発ってから172日目

パレスチナ/イスラエル 旅 note 13本目。

79. Palestine/Israel ナブルスの大学を再訪(被占領地パレスチナ) 〜 1983年10月15日

パレスチナ/イスラエル 旅 note 14本目。

80. Palestine/Israel ガザ地区, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月16-18日

パレスチナ/イスラエル 旅 note 15本目。

81. Egypt ピラミッド と 大都会の喧騒 と 〜 エジプト, ギザ と カイロ, 1983年10月18-26日(写真34枚)

エジプト 旅 note, 「大都会」カイロ と 悠久の歴史を持つ ギザ の ピラミッド。別世界。

82. Turkey イスタンブール再訪(1983年10月26日-11月8日)

再び 訪れた トルコ, その旅 note 1本目。

83. Turkey 2度目のトルコ, 初めての首都アンカラ 〜 1983年11月9-11日

2度目の トルコ, その旅 note 2本目。

84. Turkey 旧約聖書の御伽噺「ノアの方舟」が着いたとされるアララト山を拝んだ, ドグバヤジッド(トルコ), イランとの国境の街にて 〜 1983年11月12-15日

2度目の トルコ, その旅 note 3本目。

85. Iran イラン, 革命から4年後の テヘラン 〜 1983年11月15-17日, Teach Your Children ♫

イラン 旅 note 1本目。

86. Iran イラン, 革命から4年後の エスファハン と ザヘダン 〜 1983年11月17-21日

イラン 旅 note 2本目。

87. Pakistan パキスタン 〜 タフタン, クエッタ; 1983年11月21-26日

パキスタン 旅 note 1本目。

88. Pakistan パキスタン 〜 ラホール, 1983年11月26-29日

パキスタン 旅 note 2本目。

89. India インド入国, まずは シク教「黄金寺院」の街 アムリトサル へ 〜 1983年11月29日-12月3日

インド 旅 note 1本目。 

90. India ダラムサラ(インド北部) 〜 チベット難民が住む標高2,000m超の山中で暮らした, 1983年12月の10日間

インド 旅 note 2本目。

91. India インドでは市井の人に「哲人」顔の人がいたりする 〜 デリー 1983年12月12日から25日

インド 旅 note 3本目。

92. India タージ・マハル は確かに美しかった, インド・アグラ 〜 1983年12月23日

インド 旅 note 4本目。

93. India インド, ヴァーラーナシー, ガンジス川を眺めながら過ごしていた, 1983-84年 の 年末年始 1週間

インド 旅 note 5本目。

94. India ガンガー(ガンジス川, インド・ヴァーラーナシー)で 拝んだ 初日の出 〜 1984年1月1日

インド 旅 note 6本目。

95. India 釈迦牟尼が 紀元前530年頃に悟りを開いた場所, インド・ブッダガヤの大菩提寺(紀元前260年創建)を訪ねた, 1984年1月3日

インド 旅 note  7本目。

96. India コルカタで見た 「火の車」 は現実だったのか幻だったのか 〜 カルカッタ, 1984年1月4-7日

インド 旅 note  8本目。

97. Thailand バンコク 〜 1984年1月7-21日, 日本を発ってから 約9ヶ月経過 

タイ での 2週間。だんだん「祖国」日本 に近づいてきた。

関連 note, なぜ ゲバラ の写真?(笑)

98. 韓国 1984年1月の11日間 〜 1983年4月に 日本 を発ってから 足掛け 10ヶ月目, 全斗煥軍事独裁政権時代に旅した 初めての韓国, 板門店も

1983 - 84年 バックパックの旅, その最後の訪問国だった 韓国。

99. 帰国(1984年2月1日) 1983年4月26日に日本を発って ソ連・欧州・中東(西アジア)・アジア各国を旅して 282日目

日本に 帰って来た。

100. 広島(1984年2月1-4日) 初めて訪れた 広島平和記念公園

広島・旅 note, 及び 関連 ヒロシマ(・ナガサキ)note, 計 5点。

広島 note
ヒロシマ, わが罪と罰 〜 「良心の立入禁止区域」と, 広島への原爆投下時の気象観測機パイロットだったクロード・イーザリー

生ましめんかな 〜 1945年8月6-8日, 広島

長崎原爆投下の犠牲者の写真を「ヌード」だとして削除する Facebook の検閲プログラムの愚劣さ

〈ヒロシマ, ナガサキ〉 というとき ー 〈ああ ヒロシマ, ナガサキ〉 と やさしくこたえてくれるだろうか

101. 帰郷(1984年2月4日) 〜 1983年4月26日に日本を発って ソ連・欧州・中東(西アジア)・アジア諸国を旅して 285日目

2023年 2月4日, ちょうど 39年前の今日 1984年 2月4日 の帰郷に関する note を加える。これにて 本 note リンク集は 完成。

番外編 その 1 海外「放浪」蔵出し写真集 〜 "Every Picture Tells a Story" (Rod Stewart) [歌詞和訳]

番外編 その 2 Teach Your Children (CSNY): 歌詞和訳 〜 世界の子供たちの写真と映画と


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