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お茶代

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僕が文学サークル「お茶代」の課題として作成した記事および、「お茶代」に関する批評のまとめです。
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記事一覧

もしも僕が「あのお方」だったら

もしも僕が「あのお方」だったら

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 最初、「もしも僕が南洲翁だったら」という題にする予定だった。傲岸不遜にも程がある。世が世なら右翼の方に軽く嗜められることもあるのかもしれない。ただ僕は、「お茶代」の「もしもわたしが◯◯だったら」という課題を目にした時、思わず翁のことを想起せずにはいられなかった。

 なぜあの時あの状況で、立ち上がらなくてはならなかったのか。西南戦争へ至る翁の思考を完璧に説明できる人

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「天国」とは、「地獄」とは——宗教戦争の敗者・日本

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 おのれのうちに潜むロマン主義的傾向と向きあい続け、いい加減疲れたので息抜きにこれを書いてみる。

 漱石のように早死する恐れは自覚されて然るべきなのだろう。おのが使命感と関心を一致させた上で全力を尽くし、その結果くたばるのならば本望ではあるけれど。たまには岡潔のいう「情緒」とやらに思いを馳せ、神経を休ませてやるのもいい。「遊び」はホイジンガによれば、「厳粛さ」と

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J-Popまもるくんの萌芽——「守るべきもの・守られるべきもの」序説

J-Popまもるくんの萌芽——「守るべきもの・守られるべきもの」序説

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 「俺がお前を守るから」。これまでのJ-Popにおいて、少しずつ形を変えながら繰り返し歌われてきた、男女の親密性についての価値観が伺われる表現だ。その親密性の正体について考えるならばおのずと、「何から守るのか」という問いが生まれてくるに違いない。本論考は「敵」が残した歌詞という足跡からその容貌・正体へ近づいていく、探偵の試みである。

分析の方法論 人々の集合的な

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文学サークル「お茶代」について メモ

文学サークル「お茶代」について メモ

 脱輪さんが行われている文学サークル「お茶代」の運動は、政治に対する独特の距離感から察するに、「全共闘以後」の文化運動の系譜に位置づけられるべきもののように思われる。

 ご本人はフェミニズム等にも一定の理解を示しておられるが、その「究極の保守反動をバネにした生活のアナキズム」(脱輪さん)は、仲正昌樹氏を参照して外山恒一氏が指摘した「ポストモダンの右旋回」ではないか。

火野佑亮トリセツ 自分の障害を面白がる

火野佑亮トリセツ 自分の障害を面白がる

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視られることが大事

 一月、東京へ行ってきた。色々な方々と様々な話をして、時にアドバイスをもらったりもした。その結果浮かび上がってきたのは、自分は他者と比べ、何かが決定的に欠けているという事実だった。

 人は他者の眼差しを介することでしか己を発見できない。これは世の常だ。自分が知りえぬ自分、つまり無意識としての自分がいるという前提をひとまず置いておき、自己同一

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クリスマス・正月の想い出

クリスマス・正月の想い出

 子供の頃、我が家では毎年クリスマスにツリーを出していた。しかし食事は少し豪華なものにするという程度で、チキンやケーキを食したりすることはなかった。家族にプレゼントを買ってもらえるのは誕生日とクリスマスだけだったので、楽しみにしていたことは覚えている。

 大晦日の晩、リビングのテレビからはいつも「紅白歌合戦」が流れていた。後に「ガキ使」を知ってからはそれを疎ましく思い、一人別の部屋のテレビで観て

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ウィットとユーモア

ウィットとユーモア

 僕が笑いに関心を持つきっかけは、西部邁最後の弟子を名乗り、雑誌「表現者クライテリオン」に多数投稿されている平坂純一さんだった。
 平坂さんは笑いをウィットとユーモアに大別して論じられ、獅子文六論のほか、YouTubeチャンネル「平坂アーカイブス」でも度々触れられている。ウィットが「知性による高みから個別的な時代や場を切り取るような乾いた諧謔」*1であるならば、ユーモアは「自らが時間と空間を超越し

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詩的なものと僕

詩的なものと僕

 大阪のとある病院の一室で生を享けた僕は、物心つく頃には既に奈良へ移り住んでいた。その後も家族の仕事の都合上、週に一回、当時住んでいたはずのかの地を訪れていた。けれども小学校の三年以降、塾に通い始めるのと時を同じくして大阪へ行くことはなくなり、思い返すことも次第に少なくなっていった。
 その「第二の故郷」——故くした郷という字面に従うならば唯一の、と言うべきなのかもしれない——を再び訪れたのは昨年

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夜を味わう

夜を味わう

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 我々日本人は、近代の眩しさに盲いたが故に、夜を夜とも見なさないようになった。昨年十一月に平等院を訪れたが、その庭園にはいたる所にライトアップ用の照明器具が張り巡らされており、見るに堪えなかった。 技術は闇とともに、そのうちに仄かに香る、「あわい」さえも放逐したのだ。我々はあの先人の遺物、文化の死骸、博物館の展示物を再解釈・再創造することをすっかり諦め

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seisan(自作小説)

seisan(自作小説)

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seisan ひと月前にうけた誘いを快諾、先日参加してきた同窓会にて、かつて憧れていた女性に再会した。
 それは決して望んだものではなかった。かつての思い出を、どうして今さら掘りおこさねばならないのか。美しき思い出は決して、綺麗なものばかりではない。そこには往々にして、愛さざるを得ない、恥ずべき汚濁が含まれている。

 戦争のような日々の末に中学受験を終

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「文化的小児病」から癒されるために

「文化的小児病」から癒されるために

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本文 いわゆるポリティカル・コレクトネスについては、真正面から触れたくない。恨みが恨みを呼ぶ喧々囂々の議論に巻きこまれ、心身を労するのは御免被りたい。
 ポリコレを論じる人々の大多数は、その賛否を問わず、己の「正しさ」を疑っていないように見受けられる。異なる立場の者同士による、合意形成へ至るための「遊び」。これこそが議論であるにも関わらず、である。

 

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脱輪氏の「叫びとささやき」について

脱輪氏の「叫びとささやき」について

※この記事は文学サークル「お茶代」の課題として作成しました。全文無料でお読みいただけます。

閉ざされた〈島宇宙〉 脱輪氏による140字以内の発言がまとめられた「叫びとささやき」では、「消費」と「批評」が、繰り返し触れられる重要なテーマである。ここではまず、現代における消費のあり方を分析し、次いで氏なりの、これに対する処方箋について考える。

 アーバンギャルド15周年を記念した同人誌「大卒業交響

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プレゼントについて

プレゼントについて

※この記事は文学サークル「お茶代」の課題として作成しました。全文無料でお読みいただけます。

導入 果たして、誰かにプレゼントをあげたことがあっただろうか。小学校時代以来、他者への積極性を失った僕にとって、プレゼントの贈り合いははるか対岸のできごとであった。僕は友人たちの誕生日を知らなかったし、友人たちもまた、僕の誕生日を把握していなかった。

 宮台真司氏の語法にしたがえば、当時の僕は「内発性

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わたしが映画として見たキリンジ『アルカディア』(脳内で)

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本文 女はオブジェのように、寒空の下、立ち尽くしていた。右手には「海へ」と書かれた紙、左手はサルトル。どのくらいの時間が経っただろう、そこに一台の車が止まり、二人組の男たちが降りてきた。珍しいことに日本人だ。
「乗りますか?」と運転席に座っていた男が尋ねてきた。
「ええ。海までいいですか?」
「僕らもそっ

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