なぜ学び、留学し、働き、生きるのか。それは、まだ見ぬ美味しい食事に出会うため。
写真: イタリアで食べたお寿司
なぜ私は外国語を学ぶのか
楽しいから。
趣味だから。
もしくは、目の前にいる非英語圏のひとに英語でゴリ押ししたくないから。
「英語でゴリ押し」というのは、ここに書いたように、たとえばスペイン語が母語のひとに私がスペイン語ができないという理由で英語で話す、ということだ。
それでも100点満点の答えになるのだが、より私が感じていることとしては、「勉強したことばを使って、その国を旅行して、美味しいものに出会いたいから」だ。
なぜ私は留学するのか?
面白そうだから。
それでも十分な答えになるし、「面白そうやん」で人生を決めているということはここに書いた。
ただ、なぜ留学することが面白そうなのか?
それは、留学したらたくさん美味しいものに出会える可能性が高くなるからだ。
なぜ働くのか?
それは、働くとお金が貰えて、そのお金でまだ知らない美味しいものに出会えるからだ。
当然、食べるということにはお金がかかる。
それなら、学生のうちから割と時給が良いバイトをして稼いでしまおう。
そういう論理だ。
そして、自分で稼いだお金で自分にご褒美を渡すというのは、自分にとって最高の贅沢だ。
なぜ生きるのか?
それは、もちろん美味しいものを食べるためだ。
生きている限り、私達は絶対になにかを食べないといけない。
それは単なる栄養補給のためでも、生命を維持するためでもなく、美味しいものを食べるということ自体が生きる目的になりうる。
戦争や貧困を経験していない私(達)だからこそ、食事を愛せる
私達は、いまのところ、幸いなことに、アウシュヴィッツ強制収容所やラーゲリのような、食べることにすら不自由して、しかも生きるためにひどく不味いごはんを食べるということを経験していない。
私の知り合いで、お金がなさすぎるけれどアルコールが飲みたくて、エタノールを飲んだひとがいるが、それはひどく不味かったらしい。
私の親戚は、1960年当時の北海道でふんだんにあったトウモロコシを食べて生きていたという。一生分食べたからもういいわと言っていたが、旅行で軽井沢に行ったときに食べたトウモロコシは、当時のものより格段に美味しかったらしい。
そういったひもじい思いをするひとも、昔、たとえば100年前と比べればはるかに減ったのではないだろうか。
食事を愛せるのは、食事で良い思いをしたことがあるから
もちろん、この時代にも貧しい思いをして、食事を削っているひとはたくさんいる。日本にも、この海の向こうにも。
食事を愛することができるということは、至上の贅沢なのだと思う。
食事に嫌な思いをしたことがなくて、お金を出せば好きなものが食べられる時代とそれだけの財布を持っているということの証左なのだから。
そして、一度でも美味しいものを食べると、それは記憶の倉庫の奥深くでたしかにきらきら輝いている。
忘れられない食事
私が忘れられない食事というのは、数多くある。
お友達の家で振る舞われたトマトソースのスパゲッティ(Penne al sugo di pomodoro)
長旅で疲れた日にお友達が作ってくれた野菜スープ(Zuppa di Legumi e Cereali con verdure)
こんなやつだった。
それ以外にも、美味しかったものはたくさんある。
たとえば、イタリアのSushiが私の大好物だ、という話はここに書いた。
そして、この戦争が終わったら行きたいキーウのお寿司屋さん。
絶対に美味しいことが確約されていることが、画像から伝わってくる。
まあまあ値段はするのだが(6個で1000円くらい?)
そして私が留学していたラクイラにあるお勧めのお寿司屋さん。
ここは3000円弱払うと食べ放題になる。
レビューで悪く書いているひとは、主に最近の質の低下とそれに伴う食中毒のリスクについて語っているが、少なくとも私が行っていた2020-21年のこの店には良い思い出しかない。
美味しいものを食べるということが、私の生きる理由
世界には、まだまだ知らない料理がたくさんある。
それを生きているうちにたくさん楽しむのが、私の生きがいだ。
メキシコ料理の思い出
たとえば、メキシコ料理。
「辛いのでは…?」と思って食わず嫌いしていたところを、お友達が誘ってくれたので行くことになった。
そのお店は辛くない料理ばかりだった。
慣れ親しんでいる地中海料理とかなり似ているように感じたし、リゾットが最高に美味しかった。
メキシコ料理は、日本人の口に合うような地中海料理に。すこしのエキゾチックさを加えた感じだ。
とっても美味しかった。
インド料理の思い出
お友達とインド料理を食べに行くことになった。
店に入ってメニューを見た瞬間、後悔した。
カレーばかりだったのだ。
私はカレーが苦手だ。
辛いものは苦手だけれど、1人前すべてが辛くないもの(たとえば、最高でも10口くらいしか食べないキムチなど)は好きなのだが、カレーを頼むとその日の食事の1食ぶんはすべて辛くなってしまう。
だから、キムチは好きでも、キムチ鍋を食べようとは(いまのところ)思っていない。
それで、帰りますというわけにはいかないし、せっかくなので楽しんでみようと思って、お店の人にいちばん辛くないカレーを頼んだ。
結論から言おう。美味しかったのだ。
カレーはすこし辛いのに、ナンが甘いから、ちょうど良い刺激になる。
それでいて、ずっと食べていてもすごく辛くなったり飽きたりすることはなく、美味しかった。
しかもお腹いっぱいになってたった1200円(ラッシーを頼まなかったら980円)だったので、学生に優しい。
レストランのドアは、まさに新しい世界につながる扉
レストランの前を通ると、レストランが私達を美味しい肉として食べようとしているのではないかというほど誘惑してくる。
居酒屋の前を通ると、美味しい食事と安い酒で君を雲の上まで連れてってやるという低い男の声がする。
こっちに来れば、君は幸せになれるとしきりに魂に語ってくる。
いやいや、こんな甘い話はないだろうと脳が制御する。
でも、気が付けば私はレストランの扉を開けている。
そして、そのレストランで会計をする瞬間も、なぜかとても幸せで満ち足りた気分になるのだ。
とくにそこにお酒が入っていてほろ酔いだと、あしたも頑張って生きていこう、多少の困難なら大丈夫だと思える。
この瞬間外から刃物を持ったひとが入ってきて私を殺そうとしても、悔いはないと思えるくらいの甘い魔法にかけられる。
防犯のために気を付けていること
そして、家に帰って、その店にGoogleでレビューを書いたり、Instagramのストーリーにあげたりしていても、その瞬間もまた美味しい食事を反芻している気分になる。
ちなみに、私は防犯のため、Instagramのストーリーはすぐあげることはないし、お店の名前を出すこともあまりない。しかも、お店の名前を出すようなストーリーや投稿をするのは鍵垢のみと決めていて、その鍵垢は同学の学生以外は通していない。
なんなら、最寄り駅を知られたくないので(その割には大阪府堺市在住と公表しているので、簡単に私の最寄り駅は見つかるのだが)、それもあって割と食事のためだけに1時間電車に乗るということもよくある。
最寄り駅よりもっと怖いのは、私の通っている大学を特定されることだ。ある条件で検索すると割と簡単に特定できてしまうのだが、大学をネット上のひとに開示して話すことはほぼない。
しかも、私はこの大学は無名だと思っているのに、案外みんな(少なくとも名前だけでも)知っているので余計に怖い。
だから、ひとり暮らしなのか実家暮らしなのかというのもあまり教えたくない。家族構成も教えたくない。
美味しい食事は、貧しいひとのところにもある
貧しいひとのための食事が不味いとは限らない。
たとえば、イタリアで貧しいひとのための食事の定番というと、pasta in biancoというものがある。
あまりに簡単すぎるのかレシピが出てこないので私が書くが、10分でできる。
パスタ・イン・ビアンコのつくりかた
パスタをゆでる。
ゆでたパスタにオリーブオイルと塩をかける。
場合によってそこに粉チーズをかける。
これだけだ。
ただ、とっても美味しい。
なぜこのシンプルなパスタが美味しいのか
なぜこれが美味しくなるかというと、イタリアの水道水(硬水)でゆでていて、最高のオリーブオイルと最高の塩と最高の粉チーズをかけているからだ。
原材料に手を抜かないからこそ、こういったことができる。
「最高の」とつけたが、別に高いものとは限らない。
イタリアのスーパーマーケットで普通に売っているものでいい。
このシンプルさこそ、簡単に作れる理由だ。
調味料や基礎的な食品に手を抜かないことが、美味しさの秘訣
そしてひとつひとつのものが美味しいからこそ、全体も美味しくなる。
貧しいひとのための食事であっても、工夫次第でいくらでも美味しくすることができる。
いちばん大事なのは、パンやオリーブオイルといった、基礎的なものにこだわることだ。
実際、ロイヤルブレッドを一度食べるとそれより安いパンは買えなくなる。
我が家は豊かではないが、必ず油はオリーブオイルとごま油を使うと決めている。サラダ味などは使わない。
そういった弊害もついてくるが、私はとにかく美味しいものを食べたい。だから、今日も学び、働き、留学に向けて準備し、生きている。
留学資金などに使います。ご支援よろしくお願いします。 また、私が欲しい本を集めたほしいものリストも公開しています。 https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/9WBR0K7KWYX8?ref_=wl_share/