記事一覧
J.S.バッハの最後の弟子、ヨハン・ゴットフリート・ミューテル(176)
これはJ.S.バッハの《ミサ曲 ロ短調》BWV 232 の最後の "Dona nobis pacem" の箇所の自筆譜です。
しかしとてもバッハとは思えぬほど音符の書き方が拙く、おまけに線がプルプルと震えています。
晩年のバッハは視力の衰えに悩まされていたと伝えられていますが、この譜面からはさらに何らかの神経障害を患っていたことが疑われます(いずれも糖尿病が原因ではないかという説もあります)。
C.P.E.バッハとジルバーマンのクラヴィコード(175)
スペインからロシアに至るまで、ヨーロッパ中を軽薄極まりないギャラント音楽が席巻していた18世紀中頃において、多少なりともシリアスな音楽が作られていたのは、主に北ドイツのプロテスタント地域、就中ベルリンのカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ Carl Philipp Emanuel Bach(1714-1788)の周辺です。
彼らについては昔から「多感主義 Empfindsamkeit」という文