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  • 鍵盤楽器音楽の歴史

記事一覧

自称ピアノの発明者、クリストフ・ゴットリープ・シュレーター(184)

J.S.バッハは1747年にローレンツ・クリストフ・ミツラーの「音楽学術協会」の会員になり(会員番号がBACH数である14番になるまでわざわざ待っていたのです)、有名な肖像画…

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11時間前
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録音で聴くチェンバロの音の違い

チェンバロはタッチで音に強弱をつけることは殆どできません。そのため乱暴に言えば誰が弾いても、猫が歩いても、同じ楽器なら同じ音が出ます。そのため演奏者の腕前と同じ…

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4日前
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「ヴァイオリン伴奏付き」鍵盤ソナタについて(183)

これら K. 6 - 9 の4つのソナタは2冊に分けてパリで出版され、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの最初の出版作品となりました。ちなみにモーツァルトは1756年1月2…

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12日前
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英国スクエア・ピアノ事始(182)

さらに「ジルバーマンの弟子」というのも加えられて、ピアノの歴史でよく紹介されているこの「十二使徒」のエピソードですが、実の所これは根拠不明の与太話に過ぎません(…

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2週間前
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J.C.バッハとモーツァルト(181)

1725年に書き始められた2冊目の『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』の中でも、一際稚拙な筆致で書かれたヘ長調の無題の小品(BWV Anh. 131)、これはJ.S.バッハの末…

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3週間前
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ソレールのファンダンゴ(180)

「ファンダンゴ Fandango」はイベリア半島伝統のペアで踊られる三拍子の舞曲で、現在の民族舞踊としてのスタイルは地方により様々ですが、一般に八音節詩の歌を伴い、ギタ…

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3週間前
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スカルラッティとソレール神父(179)

スペイン王家は毎年秋にはマドリードの北西50kmほどに位置するエル・エスコリアル修道院に滞在するのが習わしでした。当然ドメニコ・スカルラッティもフェルディナンド6世…

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1か月前
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スカルラッティとセイシャス(178)

ドメニコ・スカルラッティが1719年8月にヴァチカンの職を辞した後、いつどうしてポルトガルに渡ったのかは20年くらい前までは謎でした。1719年9月3日のとある日記に「スカ…

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1か月前
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ライムンドゥス・ルルスの生涯

これの解説みたいなものです。 ライムンドゥス・ルルス(ラモン・リュイ)は1232年頃マヨルカ島の富裕な家に生まれました。マヨルカ島は長くイスラム教徒の支配下にあって…

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1か月前
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ライムンドゥス・ルルス『アルス・ブレヴィス』日本語訳

本稿はライムンドゥス・ルルスことラモン・リュイ Ramon Llull (1232-1315) の『アルス・マグナ Ars magna(大技法)』として知られる『究極普遍技法 Ars Generalis Ultima…

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1か月前
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これまで書いたチェンバロ関連記事のまとめ

自分でも何を書いたのか分からなくなってきたので。 チェンバロ曲ではなく、ヴァージナルやスピネットを含めたチェンバロという楽器自体について書いた記事のまとめです。…

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2か月前
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記憶術について2:ピエトロ・ダ・ラヴェンナ『不死鳥』日本語訳

承前。 『ヘレンニウス』の記憶術の説明は、記憶術に関する最古の資料であるわけですが、その後の記憶術に関する著作の多くも『ヘレンニウス』の注釈に過ぎないといっても…

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2か月前
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記憶術について:偽キケロ『ヘレンニウスに宛てたる修辞法』部分訳

キケロによれば、古代ギリシャの詩人ケオスのシモニデス(c. 556-468 BC)が記憶術を発明したのだといいます。 人間の頭は言葉などよりも空間を記憶することが得意にでき…

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3か月前
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18世紀イギリスのチェンバロ:シュディとカークマン(177)

17世紀の終わり頃からイギリスでは家庭用の鍵盤楽器としてベントサイド・スピネットの製造が盛んでしたが、もちろん「ハープシコード」が用いられていなかったわけではあり…

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3か月前
15

J.S.バッハの最後の弟子、ヨハン・ゴットフリート・ミューテル(176)

これはJ.S.バッハの《ミサ曲 ロ短調》BWV 232 の最後の "Dona nobis pacem" の箇所の自筆譜です。 しかしとてもバッハとは思えぬほど音符の書き方が拙く、おまけに線がプ…

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3か月前
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C.P.E.バッハとジルバーマンのクラヴィコード(175)

スペインからロシアに至るまで、ヨーロッパ中を軽薄極まりないギャラント音楽が席巻していた18世紀中頃において、多少なりともシリアスな音楽が作られていたのは、主に北ド…

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4か月前
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自称ピアノの発明者、クリストフ・ゴットリープ・シュレーター(184)

自称ピアノの発明者、クリストフ・ゴットリープ・シュレーター(184)

J.S.バッハは1747年にローレンツ・クリストフ・ミツラーの「音楽学術協会」の会員になり(会員番号がBACH数である14番になるまでわざわざ待っていたのです)、有名な肖像画やゴルトベルク変奏曲の主題による謎カノンなどを提出したわけですが、その年の同協会の機関誌的な定期刊行物である『音楽文庫』には、ノルトハウゼンのオルガニスト、クリストフ・ゴットリープ・シュレーター Christoph Gottl

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録音で聴くチェンバロの音の違い

録音で聴くチェンバロの音の違い

チェンバロはタッチで音に強弱をつけることは殆どできません。そのため乱暴に言えば誰が弾いても、猫が歩いても、同じ楽器なら同じ音が出ます。そのため演奏者の腕前と同じぐらい楽器が重要であるといっても過言ではありません。

そしてチェンバロはスタイルによって音質が大いに異なります。ヴァイオリンであればストラディヴァリとシュタイナーの音の違いを聴き分けるのは相当詳しくなければ無理でしょうが、ルッカースとゼン

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「ヴァイオリン伴奏付き」鍵盤ソナタについて(183)

「ヴァイオリン伴奏付き」鍵盤ソナタについて(183)

これら K. 6 - 9 の4つのソナタは2冊に分けてパリで出版され、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの最初の出版作品となりました。ちなみにモーツァルトは1756年1月27日生まれで、この手紙の時点でもう8歳でしたが。

そして現在は「ヴァイオリン・ソナタ」とされることの多いこの曲集の本来の題名は『クラヴサンのためのソナタ集、ヴァイオリン伴奏付きで演奏可能 Sonates pour le

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英国スクエア・ピアノ事始(182)

英国スクエア・ピアノ事始(182)

さらに「ジルバーマンの弟子」というのも加えられて、ピアノの歴史でよく紹介されているこの「十二使徒」のエピソードですが、実の所これは根拠不明の与太話に過ぎません(初出は上記引用書)。もっとも、七年戦争(1756 − 1763)の戦禍のために多くのドイツ人が故郷を離れたことや、イギリスにおける初期のピアノ製造がドイツ人主体であったことは事実です。

伝説の常としてこの十二使徒とされる面子も一定しないの

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J.C.バッハとモーツァルト(181)

J.C.バッハとモーツァルト(181)

1725年に書き始められた2冊目の『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』の中でも、一際稚拙な筆致で書かれたヘ長調の無題の小品(BWV Anh. 131)、これはJ.S.バッハの末息子であるヨハン・クリスティアン・バッハ Johann Christian Bach(1735-1782)の幼少時の作品(W. A 22)と見られています。

1750年7月28日に父のJ.S.バッハが亡くなった時、ヨハ

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ソレールのファンダンゴ(180)

ソレールのファンダンゴ(180)

「ファンダンゴ Fandango」はイベリア半島伝統のペアで踊られる三拍子の舞曲で、現在の民族舞踊としてのスタイルは地方により様々ですが、一般に八音節詩の歌を伴い、ギターとカスタネットで奏されます。

もっぱらこちらのほうが有名であるフラメンコのファンダンゴは、古典的なファンダンゴとは殆ど別物です。

ファンダンゴの起源は語源も含めて明らかでありません。北アフリカやアラブ圏由来とする説もありますが

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スカルラッティとソレール神父(179)

スカルラッティとソレール神父(179)

スペイン王家は毎年秋にはマドリードの北西50kmほどに位置するエル・エスコリアル修道院に滞在するのが習わしでした。当然ドメニコ・スカルラッティもフェルディナンド6世と王妃バルバラに同伴していたはずです。

そのエル・エスコリアルの修道士にしてオルガニストであったのが、アントニオ・ソレール神父ことアントニオ・フランシスコ・ハビエル・ホセ・ソレール・イ・ラモス Antonio Francisco Ja

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スカルラッティとセイシャス(178)

スカルラッティとセイシャス(178)

ドメニコ・スカルラッティが1719年8月にヴァチカンの職を辞した後、いつどうしてポルトガルに渡ったのかは20年くらい前までは謎でした。1719年9月3日のとある日記に「スカルラッティ氏はイングランドに向けて旅立った」という記述があったため、ロンドンで賭博にはまって借金を作ったせいでポルトガルに逃げたのだという説もあったぐらいです。

現在では資料の発見によってスカルラッティはポルトガル王ジョアン5

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ライムンドゥス・ルルスの生涯

ライムンドゥス・ルルスの生涯

これの解説みたいなものです。

ライムンドゥス・ルルス(ラモン・リュイ)は1232年頃マヨルカ島の富裕な家に生まれました。マヨルカ島は長くイスラム教徒の支配下にあって、1229年に「征服王」ハイメ1世によってキリスト教圏に奪還されたばかりでした。ルルスはまだ異教の文化の色濃く残る中で育ったものと思われます。若きルルスは、後のマヨルカ王ハイメ2世の側近として宮廷に仕えて順調に出世を重ね、1257年に

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ライムンドゥス・ルルス『アルス・ブレヴィス』日本語訳

ライムンドゥス・ルルス『アルス・ブレヴィス』日本語訳

本稿はライムンドゥス・ルルスことラモン・リュイ Ramon Llull (1232-1315) の『アルス・マグナ Ars magna(大技法)』として知られる『究極普遍技法 Ars Generalis Ultima』の著者自身によるダイジェスト版である『アルス・ブレヴィス Ars brevis(小技法)』の全訳です。

この「ルルスの術」は、記憶術が人工記憶なら、こちらは人工思考とでも言うべきも

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これまで書いたチェンバロ関連記事のまとめ

これまで書いたチェンバロ関連記事のまとめ

自分でも何を書いたのか分からなくなってきたので。

チェンバロ曲ではなく、ヴァージナルやスピネットを含めたチェンバロという楽器自体について書いた記事のまとめです。

初期のチェンバロ

14世紀のウィーンのヘルマン・ポールによるチェンバロの発明から、最古の図像資料であるミンデンの祭壇彫刻、アルノーの図面、現存最古のチェンバロである1480年頃のウルムのクラヴィツィテリウムまで。

16世紀イタリア

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記憶術について2:ピエトロ・ダ・ラヴェンナ『不死鳥』日本語訳

記憶術について2:ピエトロ・ダ・ラヴェンナ『不死鳥』日本語訳

承前。

『ヘレンニウス』の記憶術の説明は、記憶術に関する最古の資料であるわけですが、その後の記憶術に関する著作の多くも『ヘレンニウス』の注釈に過ぎないといっても過言ではありません。

その中でも印刷術の普及を背景にベストセラーとなって後世にも多大な影響を与えたのが、1491年に出版されたピエトロ・ダ・ラヴェンナの『不死鳥 Foenix』です。

ピエトロ・ダ・ラヴェンナ (Pietro da R

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記憶術について:偽キケロ『ヘレンニウスに宛てたる修辞法』部分訳

記憶術について:偽キケロ『ヘレンニウスに宛てたる修辞法』部分訳

キケロによれば、古代ギリシャの詩人ケオスのシモニデス(c. 556-468 BC)が記憶術を発明したのだといいます。

人間の頭は言葉などよりも空間を記憶することが得意にできています。馴染の場所を想起してみれば、どこに何があるかなどを一々意識して覚えていなくても、思い浮かべた風景の中から無意識に記憶されている細部を探りだすこともできるでしょう。実際これはかなり驚くべき能力と言えますが、かつて人間が

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18世紀イギリスのチェンバロ:シュディとカークマン(177)

18世紀イギリスのチェンバロ:シュディとカークマン(177)

17世紀の終わり頃からイギリスでは家庭用の鍵盤楽器としてベントサイド・スピネットの製造が盛んでしたが、もちろん「ハープシコード」が用いられていなかったわけではありません。しかし17世紀までのイギリス製のチェンバロの現存例は乏しく、その実態はよくわかっていません。イギリス製のチェンバロが多く見られるようになるのは、スピネットにやや遅れ、18世紀半ば頃からの事です。

18世紀イギリスのチェンバロ(ハ

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J.S.バッハの最後の弟子、ヨハン・ゴットフリート・ミューテル(176)

J.S.バッハの最後の弟子、ヨハン・ゴットフリート・ミューテル(176)

これはJ.S.バッハの《ミサ曲 ロ短調》BWV 232 の最後の "Dona nobis pacem" の箇所の自筆譜です。

しかしとてもバッハとは思えぬほど音符の書き方が拙く、おまけに線がプルプルと震えています。

晩年のバッハは視力の衰えに悩まされていたと伝えられていますが、この譜面からはさらに何らかの神経障害を患っていたことが疑われます(いずれも糖尿病が原因ではないかという説もあります)。

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C.P.E.バッハとジルバーマンのクラヴィコード(175)

C.P.E.バッハとジルバーマンのクラヴィコード(175)

スペインからロシアに至るまで、ヨーロッパ中を軽薄極まりないギャラント音楽が席巻していた18世紀中頃において、多少なりともシリアスな音楽が作られていたのは、主に北ドイツのプロテスタント地域、就中ベルリンのカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ Carl Philipp Emanuel Bach(1714-1788)の周辺です。

彼らについては昔から「多感主義 Empfindsamkeit」という文

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