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死を身近に

memento mori ~死を忘れるな~


memento mori

という言葉があります。

ラテン語で、
和訳すると、

「いつか死ぬことを忘れるな」

という意味です。


現代の日本で、
衣食住に困ることはほぼなく、
命を狙ってくる捕食者もいません。

こうした環境は、
文明が発展してきた恩恵で、
当然感謝すべきものなのですが、

一方で、
「いつか必ず死ぬ」
ということの臨場感を失わせてしまいました。

死から遠ざかったことによって、
惰性で生きることになり、

「生きている」

というより、

「ただ呼吸している」

というほうが適切という状態を増やしてしまいました。


死を意識することで、
より、(人)生が充実します。

今回は死について考えてみます。


生物共通の生きる目的


結論、

情報の伝達

です。

生物共通の生きる目的とは何でしょうか?

そんなものは、それぞれの個体次第で、
人によっても生きる目的は違う。

と思うかもしれません。

具体的に分けるともちろん個人差があるのですが、
抽象的(本質的)に考えてみて、

それぞれの個体の目的の、共通する部分を探してみると、

情報を(後世に)伝達すること。

になります。


私たち生物は、

食欲、性欲、睡眠欲。

という三大欲求を持っており、
なによりも、まずこれらを満たそうとします。

食欲なら、

食べなければ、エネルギーが足りなくなり、
生命活動を維持できません。

近い未来に死ぬことになり、
死んでしまえば、
そこから先に、「自分という情報」を伝達できません。


睡眠欲について、

サバンナ時代、
夜は捕食者に有利な時間でした。

この時間に動くことは、
相手の土俵で戦うことになり、
死ぬ確率を上げてしまう行為でした。

そのため、
じっとしていることが生存戦略になり、
さらに、
眠ることでエネルギーを温存することができました。

エネルギーを温存することで、
獲得しなければいけない食料を少なくすることができ、
より生存のためのコストを下げることができました。


性欲について、

生物は「遺伝子という情報」を伝達するための装置とも言えます。

なので、
仮に自分の肉体が終わるとしても、
自分の家族や仲間を守るために、
死を選択する場合があります。

それは、美談というより、
そうしたほうがより多くの情報を伝達できるためです。


生物は、
まずは自分が生き残って、
「自分という情報」を伝達することを目指しますが、

それが無理そう、もしくは効率が悪いと感じたら、
「自分や仲間の遺伝子情報」を伝達するように行動します。

この場合、自分が死んでも、情報が残ればいいのです。


三大欲求によって考えることによってわかることは、


生物は情報を伝達したい。
時には命を捨ててでも。


ということです。


では、情報を伝達したい私たちは、
どのように生きるべきなのでしょうか?

死を身近な友人に


ここまでで、

死を意識することによって人生が充実する。

私たちが生きる目的は情報の伝達。

と考えられると結論付けました。


これを踏まえて、

死とどのように付き合って生きていくか?
考えていきます。

結論、

死を身近な友人にして、
良き相談相手にする。

ことです。

例えば、
あなたが明日死ぬと決まったとして、

今やっていることをそのままやるでしょうか?

「そのままやる」

なら全く問題はありません。
そのままで大丈夫です。

しかし、

「今やっていることなんて、
死ぬ前にすることではない。

すぐにやめて違うことをする。」

このような答えになる場合、
少し考える時間をとってみることをお勧めします。

というのも、
「死の前にしていたい行動」と、
「今している行動」が離れている場合。

「あなたが本来望んでいること」でないことをしている可能性が高いです。

「本来望んでいること」というのは、言い換えると、

「より自分らしく生きること(自分が自分であることを表現する=情報伝達)」

です。
最大限、あなたであることは、あなたにしかできないことです

望んでいないことをしている場合、
未来の不安のためにしている行動なのでしょう。

しかし、
未来がないと分かると、
その制約が外れ、
本来の自分がしたいことに気が付くのです。

「明日死ぬ」だとリアリティがなさすぎると感じる場合、

「半年後」「三年後」などと期間を設定してみて、
自分が一番リアルに死を想像できるところを探してみてください。


そして、その時点から逆算して、

「今どのように過ごしたか」
「何をしたいか」
「どんな自分でいたいか」

考えてみることで、人生を充実させるのに役立ちます。

そして、
あなたが「最大限充実している状態」というのが、
あなたが「自分自身を最も表現している」姿です。

つまり、「最も情報を伝達している」状態なのです。


死を想定し、
相談相手にするのです。

「○○後に死ぬとして、今どんな選択をとるべきだろうか?」

このようにして、質問をしていくと、

自分についての理解、

「好きなこと」「嫌いなこと」
「関心があること」「どうでもいいこと」
「やりたいこと」「やりたくないこと」
「調子を良くすること」「調子を悪くすること」

が深まります。


死を意識せずに、無限に人生が続くと思っていると、
自分について知らずに生きることになります。

自分について知らずに生きると、

他者の勧めで、
欲しくないものを買ってしまったり、
やりたくないことをやってしまったり、

本当に欲しいもの、やりたいことを
手に入れるためのお金や時間を無駄にしてしまうことになります。

他者の意図(例えば「物を売りたい」「言うことを聞かせたい」など)
で振り回されると、
あなたはあなたを満足に表現できないでしょう。

もちろん、
一旦手に入れてみて、

「これはいらなかったな」

という学びを得ることもあるかと思います。


ですが、その学びを得るためには、
自分について理解しようとする意識が重要です。

そして、その意識は死を考えることによって身に付きます。


自分についての理解が深まり、
選択の基準の精度があがっていくと、

他者の意図に振り回されて、
欲しくないものを追ってしまうことが減ります。


自分について理解すればするほど、
欲しいものは限定されていき、減ってくからです。

すこしのYES、
それ以外はすべてNOという状態に近づきます。


すると、お金や時間に余裕ができ、
更に好きなこと、やりたいことで、
自分の周囲や時間を埋め尽くすことができます。

そのようにして、
あなたはあなたにしかできない情報伝達を、
最大限することができるのです。

そういったことを繰り返して、
やがて死を迎えるときには、

走馬灯は、さぞ鮮やかなものになるのでしょう。


carpe diem ~今を生きろ~


死を相談相手にし、
人生を豊かにするための選択をする。

これがここまでで言いたかったことです。

さて、
選択の精度が上がったら、
後は今を生きるのみです。

今を生きることの重要性を解いた言葉で

carpe diem

その日を摘め。

という言葉があり「memento mori」とあわせて使われます。

その日を摘むというのは、

今この瞬間を無駄にすることなく生きろ。

という意味です。


自分の理解を深めたなら、
あとはそれに準じた行動をとり、
今この瞬間を楽しむだけです。


死にたくないのは今を生きていないからです。

今を最大限楽しんでいれば、死は怖くなくなります。
というか、死について考えるヒマは無くなります。


死について考えると、
死について考えなくなる。


という結論に至ってしまいました。

この一見無駄のようなプロセスに意味があったことは、
ここまで読んでくださったあなたには言うまでもないことかと思います。


無意識的に生活していると、
死について考えることはほとんどないでしょう。

それでも生存できるというのは、
文明が豊かな証拠です。

大昔の人が避けたかったであろう、
死についてわざわざ考える必要があると、

わざわざ書こうと思うほど、
わたしたちは安全な環境を生きることができています。

本当にありがたいことです。


ですが、死について考えることが、
より良く生きるために役立つことは、今まで述べた通りです。


そのことに気付かせてくれた、
今年亡くなった友人に対して、感謝と敬意を表します。

ありがとうございました。

肉体は滅んでも、残した意志は永遠です。
情報はしっかりと伝わっていますのでご安心を。



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