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本能寺の変1582 目次小 信長の台頭 7斎藤義龍の死 289~292 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史・信長公記。『光秀記』

目次小 信長の台頭 7斎藤義龍の死 289~292 

*289~292は、バックナンバーです。

289 永禄四年(1561)

   美濃の斎藤義龍が亡くなった(三十五歳)。
   義龍の子、龍興がその後を継いだ(十四歳)。
   信長は、西美濃へ攻め入った。          『信長公記』

290 森部の合戦。              『信長公記』

   織田軍の大勝利である。             『信長公記』 

291 十四条合戦の事。            『信長公記』

   信長は、墨俣砦を入った。            『信長公記』
   斎藤勢が十四条に押し出した。          『信長公記』
   織田勢は、墨俣から出撃した。          『信長公記』

292 軽海の合戦。              『信長公記』

   両軍、引き分け。                『信長公記』
   信長は、帰城した。               『信長公記』

目次 1~317

目次中 信長の台頭

 1信勝謀殺      240~244
 2尾張統一      
245~253
 3桶狭間       
254~273①
  〃         
254~273②
  〃         
254~273③
  〃         
254~273④
 4光秀と長宗我部元親 274~276
 5武田信玄と天沢和尚 277~282
 6三好の絶頂     283~288
 7斎藤義龍の死    289~292

目次小 信長の台頭

 1信勝謀殺      240~244
 2尾張統一      
245~253
 3桶狭間       
254~273①
  〃         
254~273②
  〃         
254~273③
  〃         
254~273④
 4光秀と長宗我部元親 
274~276
 5武田信玄と天沢和尚 
277~282
 6三好の絶頂     
283~288
 7斎藤義龍の死    289~292

信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。


          ⇒ 次回へつづく

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