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【連載小説】『晴子』

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記事一覧

【連載小説】『晴子』1

【連載小説】『晴子』1

 晴子。これが私の名前だ。
 でも、私はこれまで、自分の名前に納得がいったことがない。厳密に言うなら、自分にこの名前が付いていることが、昔から腑に落ちないのだ。別に、晴子という名前自体に問題があるわけではない。晴れやかな子なのか、周りを晴れやかに照らす子なのかは分からないが、それでも、それを命名した者の祈り自体は理解できる。
 実際、これまでも私と同じ名前の人間とは何人か出会ってきた。彼女たちはと

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【連載小説】『晴子』2

【連載小説】『晴子』2

「その傷、どうしたんだい?」
 ベッドの上であの人は、私の右手の傷を見つけて、そう聞いた。
「大したことないの。料理の時、ちょっと手が滑ったの。」
 嘘にしては、あまりにもどうでもよすぎる。本当のことを言っても、大して結果は変わらなかっただろう。
「気を付けなきゃダメだよ。」
 あの人は、私の右手をとって、傷のあたりを少し強く吸った。その感触が少しくすぐったかった。
「ダメだ。」
 口を離してあの

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【連載小説】『晴子』3

【連載小説】『晴子』3

 あの人は、私の本当の名前を知らない。私が晴子だということを知らない。彼は私を麻美と呼ぶ。麻美という名前は、彼が名付けてくれたのだ。
 あの人と出会ったのは、先日例の変な男に絡まれたあのバーだった。季節は冬で、その日は風の強い日だった。日が出る時間も短く、昼で晴れていてもなぜか明るく感じない季節だった。
 仕事終わりに飲みに来ていた私は、いつものようにカウンターでカクテルを煽っていた。その日は何故

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【連載小説】『晴子』4

【連載小説】『晴子』4

 仕事を終えて、今日はまっすぐ帰ることにした。あの人に会う予定もなかったし、気に入っていたあの店も、例の件があって以来、行きづらくなっていた。梅雨は明けて、昼には入道雲も見えるようになっていた。蒸し暑く汗も噴き出して、肌がべたつく。
 家に着くと、ストッキングを脱ぎ捨てた。こんなもの、ずっと履いていられるわけがない。私は、後ろに束ねていた髪を雑にほどいて、衣服を剝ぎ取っていく。シャワーを浴びた。気

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【連載小説】『晴子』5

【連載小説】『晴子』5

 大学も敷地内禁煙なんかやめてしまえばいい。
 正門前で煙草をふかしながら、俺は正門から出ていく学生をにらみつけていた。といっても、俺も奴らと同じ大学に通っているわけだが。
 大学時代を人生の夏休みと言う馬鹿が世の中には多数いるが、大学生活なんて夏休みよりも退屈だ。授業は何一つとして面白いものはないし、課題だって上手くやれば簡単にちょろまかせる。レポートもテストも、暇な知り合いに頼むか、同じ授業を

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【連載小説】『晴子』6

【連載小説】『晴子』6

 金曜日。夜でもまだ人出が多い。心なしか、いつもより酔っ払いの数も多い気がする。暑さも相まって、そういううるさい連中の甲高い戯言を聞くと、苛立ちもひとしおだ。街も人もすっかり夏の装いになっていて、暖色の灯りがたっぷりと溢れている。大通りを曲がり、小さい路地に入ると、人通りは一気に減って、暴力的とも言える暑さは少しだけ緩む。
 店に入ると、その音を聞きつけてか、カウンター席の端に座っていたあの人がす

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【連載小説】『晴子』7

【連載小説】『晴子』7

 気が付いたら、リビングのソファーの上でクッションを抱いて眠っていた。
 西日のまぶしさに目覚めた私は、ソファーのひじ掛けの所に背をもたれさせて、半分身体を起こした。テレビを見る気にもなれず、窓の外を見るともなく眺めた。夏の夕方は、まだまだ明るい。
 飲食店の仕事は、休みの日が世間の休日と一致しないことも多い。今日も仕事は休みだが平日で、だから休みの日にただでさえ数少ない友人と会う約束を取り付ける

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【連載小説】『晴子』8

【連載小説】『晴子』8

 夕飯が済ませると、スピーカーの音楽を切って、食器を洗った。大体家のことはスムーズに済ませてしまう。特にやることがないなら、いずれやらなければいけないことを先に先にとやってしまいたいのだ。こういうところが、菖蒲ちゃんから「かっこいい」と言われるのかもしれない。いずれにしても、自分の「かっこいい」を自分が把握しいている必要はないのかもしれない。人生において、自分が「かっこいい」ことを、自分で示さなけ

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【連載小説】『晴子』9

【連載小説】『晴子』9

 片方のイヤホンからFacesを流しながら、俺は森彩也子の話を聞き流している。——ああ。はい。ええ。そうですね。そうなんですか?大体この手の返事をルーティンしておけば(そしてたまにオウム返しを挟めば)、何となく満足して帰っていく人間が大半だ。あとは、相手が満足に至るまでどれだけの時間を要するかが問題になる。だから今俺は、いつになったらイヤホンを両耳に差して、ちゃんとFacesを聴けるのだろうかとい

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【連載小説】『晴子』10

【連載小説】『晴子』10

 Electric Light Orchestraが流れている。人が通り過ぎて、その都度微妙に空気が鈍く動くのを肌が感じ取る。音楽は多分、私の横にあるCDショップからだ。最近ではCDショップも経営が厳しいと聞くが、それでも何とか持ちこたえている店もあるのは、根強い音楽ファンと最近確立されたアイドルのビジネスモデルの賜物なのだろうか。私は経済には疎いから、どれだけ考えても正解にたどり着くことはなさそ

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【連載小説】『晴子』11

【連載小説】『晴子』11

 その日は日曜日で、休日でも起床時間はほとんど変わらない私だが、なぜか昼過ぎあたりで眠気に襲われた。いつも仕事をしている時は、こんな時間に眠くなったりしないのに。仕事中の緊張感が(あるとしても、もうすっかり慣れっこになっているだろうが)、本来であれば来るべき眠気を遠ざけていたのかもしれない。
 日曜日が休日になるのは久々のことだった。休日の店はかき入れ時という事もあり、大概仕事に出ている。仕事がな

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【連載小説】『晴子』12

【連載小説】『晴子』12

 大学の誰もいない教室で、気が付いたら机に突っ伏して眠っていた。イヤホンからはLOVE PSYCEDELICOが聴こえてくる。寝る前に聴いた覚えのある曲だから、アルバムを一周していたのだろう。
 眠りに落ちる前は、誰もいなかったはずの教室は、もう半分くらい席が埋まっている。次の時間、授業で使うのかもしれない。俺は隣の席に置いてあった鞄を手に取り、他の場所に移動した。
 次に俺が考えたことは、そもそ

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【連載小説】『晴子』13

【連載小説】『晴子』13

 更衣室でため息をつく菖蒲ちゃんに声をかけたことがそもそもの失敗だった。
「えー、月島さんの恋人がこんな感じなんて、ちょっと意外です。」
 菖蒲ちゃんの彼氏(現在名古屋に赴任中)が、月末に予定の空きを確保できないということ。いつもは月の最後の週末は食事に出かけることを約束していた二人だが、今月はそれが実現できそうにないということ。
「これ、悪く言うつもりはないんですけど、月島さんって、ちょっと男性

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【連載小説】『晴子』14

【連載小説】『晴子』14

 寒くなったわけではないが、日中でも汗をかくことがすっかりなくなった。風が乾いていくのを日に日に感じる私の肌に今、窓から差し込んだ和らいだ日差しが落ちている。暖色の照明が落ち着いている喫茶店で、あの人を待っている。
 秋の休日だが、それは私にとってそうなのであって、街やあの人にとっては平日だ。外を見ると、通りの行く人の顔は仕事中の顔で、街全体が緊張感に満ちている。まだ昼頃だから、当たり前と言えば当

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