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人付き合いが下手な私の人間関係の価値観

やはり私は交友関係を築くのが下手らしい。

今日はひたすらその事実を痛感した。


私は塾講師のバイトをしているのだが、
先日他校者の人と話す場があり、
各々テーブルに座って話していた。

成人しているものはお酒を片手に
多くの人が楽しげに見える。

私は未成年なためシラフの状態で
アルコールの入っている人と
会話をしていた。

だが、明らかに気分が乗らない。

私が初対面の人と話すのが苦手、
話し相手の多くがシラフでないことも
原因の一つと考えられる。

それを差し引いても
会話にあまり参加していないのが
顕著であった。


私は話を振られたらそつなく答え、
ある程度会話をした後
相槌を繰り返す機械のようになっていた。

心ここに在らずといったところだろうか。

会話に参加していないときは
帰った後何をすればいいだろうか、
明日はあれを勉強しようといった
その場と全く関係のないことを考えていた。

そのとき私は話せないというよりは
話そうとしないコミュ障だと
自らのことを分析した。



話そうとしないが、
会話を聞いていないわけではない。

そのため入れそうな話題の時は入り、
それ以外は聞く事に徹していた。

もし私の興味にある話が繰り広げられたら
といった淡い期待を持っていたが、
そうは問屋がおろすことはない。

あまり興味がない話題ばかりだった。

彼らは嬉々として
お酒やタバコ、飲みの席の話をしていたが
私はそれらに対してとても否定的なため
会話に参加することはなかった。


私の価値観として、
お酒は嗜む程度や付き合い程度なら許容だが、
吐くまで飲む、潰れるまでというのは
本当に理解できない。

身内がそれで失敗していることが
影響しているのは間違いないだろう。

過剰なアルコールはもはや毒であり、
嘔吐や潰れるといった現象は
体が拒否反応を示している証拠だ。

なぜそれを嬉々として語るのか。

何故そこまでリスクを冒してまで
飲もうとするのか。

私にはそうした事が
犯罪行為を自慢している輩と
同等に見えて仕方ない。

しかしこれはあくまで私の価値観なので
決して周りには強要しないだろうし、
求められない限りは話さないだろう。

そして私はタバコは絶対に吸わず、
お酒はそういった場のみに限り、
理性を保つ範囲で飲むと心に誓っている。

もし必要以上に勧められてとしても、
この信念を曲げることはない。

仮にその場がひどく冷めようとも、
相手にNOを突きつけるだろう。

それは誰が相手だろうと同じだ。

なるべく場の空気は壊さないようにするが。


ともかくそういった固い信念、
話しかけない性分の相乗効果によって
その場における私の状況が完成された。

やはり私には広い交友関係を築くのは
向いていないのであろう。

狭く深い関係の方が向いている。

人によっては
話しかけることにチャレンジしてみては?
と思うかもしれない。

しかし当の私がそれを望んでいない。

自己分析のデータにも出ているが、
私はあまり人に興味がない。

その為話そうとしないのだ。

だが興味のあることや、
交友関係内であれば積極的に話しかける。

結局は話したい場面や話題だけ話す
非常に利己的な人間なのだ。


だがこれも個性と受け止めて欲しい。

人の価値観は千差万別であり、
私のこういった価値観もその一つだ。

そして人はどこか醜い部分を
持ち合わせているのは確かだ。

私のはそれである。

もし誰かに迷惑をかけるようなら
直すべきだと思うが、
私の場合誰にも迷惑をかけていない。

誰も損をしていないのだ。

見方によっては私が損をしていると言えるが。



冒頭に交友関係を築くのが下手と述べたが、
それは撤回すべきだろう。

築こうとしないが正しいそうだ。

それにしても
何故こうなってしまったのか。

私の記憶では中学あたりまでは
ここまで酷くはなかった。

私の推測では、
純粋な交友関係を望んでいるので
今のようになっている
と考える。

高校あたりから、
人間関係における利害関係
垣間見えるようになってしまった。

それは大学に入ってからより顕著になる。

友人のように見えるがどこか浅い関係。

人付き合いをするにあたっても
損得が見えてしまう。

その為純粋に一緒にいるだけで楽しい、
なんでも話せる良い関係というのが
非常に作りにくくなったと考える。

作れないとまではいかないが、
入り口からして利害関係が見えてしまう。

その為今ある交友関係で満足する。

こういった循環によって
今に至っているのであろう。


私が交友関係において
こういった思考、体制である以上
初対面が多い場に行くことは
目的がない限り控えるべきだ。

それは私にとってもその場の相手にとっても
有益なことである。


snsの発展によって
人々はどこか知り合いに縛られる
といった印象をたまに見受けられる。

常に周りの目を気にするような、
常に行動が縛られているような印象だ。

何をするにしても誰かと一緒なのは
もはや病気の域であり、
知り合い依存とでもいうべきだろう。

その対極にいる私からすれば
もっと一人の時間を大切にすべきと思う。

そんなに周りを気にしたとしても
周りはそこまで自分を気にしていない。

どこで何をしようともあなたの自由だ。

とはいえ私のようなのはやりすぎであり、
その中間あたりが無難だろう。


抱えすぎた知り合いは時に重荷であり、
自らを縛る鎖となりうる。

時にはその鎖を解くことも
生きていく上では重要なことだ。

もしくは私のように多く持たないことで
鎖自体を無くそうとするのも良いだろう。

万人が知り合いの数と比例して
幸せになるとは限らないのだから。


こんなことを言っているが、
見方を変えれば人付き合いが下手という
言い訳にも変換できる
為、
あくまで参考程度に留めていただきたい。



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