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新海誠監督 『すずめの戸締り』 : 「行って帰った」 物語の成果

映画評:新海誠監督『すずめの戸締り』

言わずと知れた、アニメ映画のヒットメイカー新海誠監督、3年ぶりの新作劇場用長編である。

本作『すずめの戸締り』は、新海誠の名を世に知らしめた大ヒット作『君の名は。』(2016年)、『天気の子』(2019年)に続く大作だが、私は前作の『天気の子』について、その公開直後に同作のレビューとして「新海誠批判」を書いている。

見てのとおり、このレビューは、当初から「行きて帰らぬ物語」と題されていたものであり、『天気の子』が「地に足のつかない、独り善がりな作品」だと批判したものだった。

新海は、私のこの批判を知ってか知らずか、「2020年、正月」頃から書き始めたという『すずめの戸締り』の企画書の段階で、すでにこの作品を「行って帰る」物語にしようと考えていたと、インタビューなどで答えており、事実、それは企画書にも、そう明記されている。

『本作では物語の基本的な役割を忠実に果たしたいと思う。「行って帰る」話を作るのだ。
 日常から出発し、そこから最も遠い場所(死)まで行き、また日常に帰ってくる。そのことによって日常の確かさを確認する。遊園地でジェットコースターに乗って、地上に足を下ろすとホッとするあの感覚。エンターテイメントで死に接近することで、自分は生きていて良かったと思える。それが物語の素朴で根本的な役割だし、僕たちのシンプルだけど難しい仕事だ。』

(入場者プレゼント「新海誠本」所収「企画書前文」より)

つまり、新海は、『天気の子』公開の翌年には、すでに『天気の子』の「難点」について認識していたということであり、言い換えれば、いくら多くの人が『天気の子』を絶賛しようとも、少なくとも新海自身には、それで満足できるような作品ではなかった、ということだ。

ところで、この企画書の中の言葉で、特に私の目を惹いたのは、

『遊園地でジェットコースターに乗って』

という、比喩表現である。
なぜなら、この「ジェットコースター」という言葉は、前記のレビューに引用した、高畑勲による新海誠批判での「(観客)巻き込み型映画」という言葉を、さらに平たく説明するためにつかった言葉そのものだったからだ。

高畑勲は、新海誠や、新海が強くシンパシーを感じている宮崎駿の作品の問題点として、その「巻き込み型映画=ジェットコースター映画」性を、次のように指摘していた。

『 感情移入という言葉は、日本では哲学・美学用語を超えて、日常的に使われる。この事実は、それほどみんなが「感情移入」したがることをよく表している。読書はもちろんのこと、舞台芸術やある時期までの映画も、感情移入は客観的な対象(文章・舞台・画面の中の人物や事件)に向かってこちらから自己(の想像力)を投入する(いわば「思いやる」)ことによって成し遂げられた。情景でさえそうだ。舞台は登場人物が「まあ美しい夕焼け!」と言えば、シェークスピアのグローブ座であれ能舞台であれ、観客はその言葉だけで「美しい夕焼け」を想像するのである。近代劇であっても、ほんものらしくない舞台照明の赤らんだ光に助けられつつ、やはり美しい夕焼けを想像するしかない。読書や観劇は一定の努力が必要な、しかし努力することが喜びであるような自発的な行為だった。
 映画はその中では、物事を具体的に描写してくれるだけではなく、ショットの積み重ねで様々な視点を提供してもらえるため、もともと観客にとってもっとも努力が少なくて済む大衆娯楽だった。それが白黒からカラーとなり、いまや大進化を遂げて、「巻き込み型」が主流を占めるようになって、観客は座席に受け身で座ったまま、ぐんぐん向こうから押しつけてくるものを享受するだけで感情移入ができるのだ。大音響や扇情的な音楽がその臨場感をさらに増幅する。観客は自ら客観的に判断したり想像力を発揮したりする余地も与えられず、きわめて主観的に感情を揺さぶられ、かなり荒唐無稽な内容であっても、個々の人物、個々の場面に「思い入れ」や「思い込み」をしてしまう。
(中略)
(※ ディズニーとは)逆に、日本のアニメがなぜ、絵は大して動きもしないのに観客を巻き込むことに成功したのかは、まず第一にその演出手法による。ディズニーがやらなかった主観的な縦ショットをどんどん積み重ね、観客の目を登場人物のすぐそばに置く、トラックアップなどのカメラワークで眩惑する。動きがなくても止め絵が多かろうが、性格描写がいい加減だろうがかまわない。特に主人公は、観客代表みたいなものにしてあるから、その性格はあいまいな中立的なものでいいのだ。だからキャラクターも類型的でかまわない。
 日本のアニメは、安価に作るために作画枚数を減らすところから出発した。それでも面白く見せるには演出の工夫が必要だった。しかもその基盤には洗練の度を極めたマンガのコマ割りという先輩があった。そしてたちまち熟練の度を加え、アニメーション作画も巧みになって、ついに「現実には起こりえないことを、いま現実に起こっていることとして感じさせる」観客巻き込み型映画の一ジャンルを見事に形成するまでになったのである。』
 (『アニメーション、折りにふれて』文庫版・P198~201、初出は2008年)

私は、前記レビューで、この引用文を敷衍して、次のように表現した。

『例えば「ジェットコースター」を考えてみるといい。ジェットコースターには「意味的内容」はなく、客が頭を使う要素は皆無だ。乗客は、ただ座席に座って目を開いているだけでいい。あとはコースターが勝手に、「急降下」があったり「カーブ」があったり「旋回」があったりという、刺激を単調化させないための「捻りと変調」を加えた「スペクタクルの世界」へと、乗客を運びさってくれる。
たしかに、ジェットコースターは、面白い。いや、正確に言えば「快感を与えてくれる」娯楽であり、それにはそれ相応の価値がある。
そして、その「面白さ」は、『天気の子』という作品の面白さと、とてもよく似ているのであるが、その正体とは、知性や理性とは、ほとんど関係のない「脳科学的な、本能的反応(脳内快楽ホルモンの分泌)」でしかないのである。

例えば、幼児の惹かれる「YouTubeの動画」というのは、どういうものだろうか。
そうした作品とは、「中身(らしい中身)」は無く、きわめて「単純」ではあるが、テンポの良い繰り返しがあったり、時に驚くような変調が仕掛けられたりしたものであることが多いようだ。つまり、ジェットコースター的なものに近い刺激を与えてくれる。
そこには大人が鑑賞して「感心するようなテーマ」などは無いし「繊細微妙な描写」があるわけでもなく、いずれにしろ「深く、その表現するところの意味を、主体的に考えなければ味わえないような作品」ではない、というのは確かで、端的に言えば、大人には「たわいない作品」だと言えるだろう。』

つまり、新海自身、『天気の子』という作品の弱点「帰ってこないジェットコースター」性に見たのであろう。
だから、「ちゃんと中身があって、かつ、ちゃんと帰ってくる物語であれば、エンターテイメントでも悪くないはずだ」と、『すずめの戸締り』を作るにあたって、そう考えたのではないだろうか。

そして、そう考えたのなら、新海が『すずめの戸締り』で実現しなければならなかったこととは、

(1)「中身」としての、明確な「テーマ」性
(2)「行って帰る」物語としての、明確な形式

ということになるだろう。
そして、この2点に対応するのが、

(1)「東日本大震災」における「喪失」やその「傷」の乗り越え
(2)「行ってきます」「行ってらっしゃい」「おかえりなさい」といった、「日常」における形式性の「安心感」の確認

といったことになるのではないか。

こうした観点からすると、新海誠監督の今作『すずめの戸締り』における「新たな挑戦」は、その方向性としては、まったく「正しい」と言って良いだろう。あとは、それが「どの程度実現されているか」である。

いうまでもなく、作品とは、簡単に語りうる「意図の立派さ」に尽きるものではなく、重要なのは「意図の実現」であり、「結果としての作品」だからだ。

 ○ ○ ○

では、「結果」として『すずめの戸締り』の出来は、どうであっただろう。その「完成度」は?

私の評価は「80点」といったところだろうか。

たしかにエンタメ作品としては楽しめるし、相変わらず「見せ方のうまさ」はさすがで、新海誠の「絵の美しさ」を「風景(背景美術)」に限定して理解するのは、明らかに間違いだ。
優れたスタッフの助けがあったとしても、本作『すずめの戸締り』は「レイアウト(画面構成)」段階において、すで非常に優れた作品となっている。

したがって、「絵的」には、いつもどおりで素晴らしいし、『天気の子』に代表されるこれまでの作品(例外は『君の名は。』)に見られた「ひきこもり的な独善」は影をひそめて、キャラクターたちは、過剰なまでに「前向き」であり、その点では、好感を持てこそすれ、不快感を覚えるようなことはなかった。一一つまり、総じて「楽しく観ることができた」のである。

無論、だから「完璧」だというわけではない。前向きに努力していることは高く評価したいが、作品としての達成が、必ずしも「高い」とまでは言えなくて、「よく出来ました」という感じだ。

要は、内容的には『天気の子』よりもずっと「大人になった(成長進歩した)」とは言えるけれども、「作品の完成度」としては『君の名は。』には及ばない、というのが私の評価である。

新海は、自身の「前向き」性において、『天気の子』は無論、『君の名は。』よりも「進歩している」と、そう考えたいところなのではあろうが、残念ながら、作家の人間的成長が、そのまま「作品の完成度」に直結するわけではない。
作家が成長すれば、そのぶん作品も良くなり、後の作品になればなるほど「完成度」が高まる、というほど、創作というのは単純なものではない。この事実は、多くの人の認めるところだと思う。

つまり、新海監督自身は、『君の名は。』や『天気の子』と『すずめの戸締り』を比較して、前2作では避けてきた「東日本大震災」との直面を、『すずめの戸締り』では果敢にチャレンジし、一定の成果を挙げ得たと、そう考えたいところだろう。
だが、『すずめの戸締り』において、そこまでの「達成」がなされているとは、私は思わない。

新海監督自身も認めているとおり、あの「大災害の悲劇」と向き合うことは、容易なことではない。
だからこそ、新海自身も前の2作では、それに正面から取り組むことを避けたわけだし、新海も指摘する、庵野秀明監督作品『シン・ゴジラ』もまた、「東日本大震災」を「暗示する」に止めたのだ。

(『シン・ゴジラ』より)

だが、それから3年が経ち、それで、あの「大災害の悲劇」が多少なりとも「描きやすくなった」かと言えば、そんな簡単な話ではないだろう。

たしかに、新海監督としては「東日本大震災の記憶」を共有できない世代が育ってきたことで、「あの悲劇と向き合って、語るべきを語るのは、今のタイミングをおいてはない」と考えたというのは、たしかに一理はあるだろう。「大震災の記憶」を、なし崩し的に「風化させてはならない」というのは、多くの人と共用しうる考え方である。

しかし、現に、あの「大災害の悲劇」に遭遇して、例えば、家族を失った人たちの記憶が「風化」しているのかといえば、これは微妙な問題だ。
私は、体験当事者ではないから、たしかなことは言えないが、ただ言えることは「心の傷の深さは、人それぞれ」であって、うまく記憶を昇華できた人もいれば、当時のままに生々しく引きずっているという人も、必ずいるはずだからだ。「あの時の記憶」は、今も「凍結」されたままだという人は、必ずいるだろうし、いると考えるべきだろう。一一だから、今でも、あの「大災害の悲劇」を作品の中で描くという行為は、きわめて「危険な賭け」とならざるを得ないのだ。

実際に、どんな声(反響)が上がるかはわからないが、ほとんどの「震災体験者」が「よくぞ描いてくれた。映画を観て、前向きになれた」と言ったとしても、たった一人であれ「癒えきっていない傷のカサブタを、また剥がされた」と感じたのであれば、あえてその危険をおかした作家は、その「事実の重み」を避ける(無視する)ことを許されはしない。

なぜなら、その取り扱いに細心の注意と配慮が必要な、おおよそ手に余ると言ってもいいであろう「大震災の悲劇」をわざわざ取り扱い、身の程知らずにも、その「乗り越え」を促すことなどしなくても、作家は作品を作ることが可能なのだし、ましてやそれを「商業ベースのエンタテイメント作品」として作ったのならば、それで傷つけた人に、どう向き合うつもりなのかは、厳格に問われてしかるべきことだからである。
無論これは、「興行収益の一部を、被災者支援に寄付させてもらいました」で済まされるような、「金目」の話ではないのだ。

とは言え、正直なところ、私は、新海誠に、そこまでは期待していない。
彼を「所詮は(世間知らずの)ひきこもり作家だ」と批判した私なのだから、たかだか数年で、彼が「完全に変わった(成長した)」などとは思わない。

新海が、自身の「子供の成長を見て」考えるところがあったという趣旨のことを言っているとしても、それは「嘘」ではないししろ、「子供を持てば、大人になれる」というほど、人間は単純にはできていないと、私は考えるからである。そんな単純な話なら、世に虐待児童など、存在するはずもないのだ。

 ○ ○ ○

では、『すずめの戸締り』は、そのあたり(「東日本大震災」の記憶の、乗り越え)について、どの程度の「達成」をなし得ていたかというと、私の評価は「50点」程度だ。

新海が新海なりに、真面目に取り組んだということは認めるのだけれども、やはり結果として描き得たのは「型通り」の「乗り越え」像でしかなく、要は、ありふれた「紋切り型」の域を出ていない。

いくら作中人物が、「時間の経過」と「人々との関わり」と「旅」といったことどもの中で成長して、その「記憶」を乗り越えたとしても、そんなものは「紋切り型のお話」の域を出ていない。現実の方は、そう「容易いもの」ではない、ということである。

例えば、私が、この作品で特に引っかかったのは、主人公であるすずめ(岩戸鈴芽)が、何度か口にする「私、死ぬことなんて、怖くありませんから」といったセリフだ。

これは、「東日本大震災」で 唯一の家族であった母を失い、その母の姿を求めて、震災直後の被災地をさまよった幼いすずめが、もう少しで死にかけた(死に接近した)という経験に由来する「心の傷」に発する言葉だと考えていいだろう。
最愛の母を失い、しかもその亡骸に会うことすらできなかったすずめは、死を実感できないし、その意味で、生を十全に生きているという実感を持てないまま、成長してきたのであろう。だから「死が怖くない」のである。

だが、この描き方も「紋切り型」でしかない。
なぜなら、震災で家族を失い、その亡骸に会うことのできなかった人が、必ずしも、すずめのように「死を恐れない」人間になったわけではなく、むしろ大半の人は「それでも、やはり死は怖い」はずだからである。
本作におけるすずめのような無茶など、普通はできず、彼女にそれができるのは、彼女が所詮は「(不死身の)アニメキャラクター」だからに過ぎない。

つまり、すずめが「死が怖くない」人に成長したという「特殊な設定」は、すずめが、震災で母を失った「心の傷」を「乗り越えることを前提とした設定」であり、言うなれば「作劇上の都合」でしかないのだ。
「病んでいた人が、回復しました」というのも、たしかに「行って帰る」ということであり、企画書の、

『日常から出発し、そこから最も遠い場所(死)まで行き、また日常に帰ってくる。』

ということになるのかもしれないが、人間の「リアル」は、それほど単純でもなければ、「ご都合主義的」に「好都合」には出来ていない。

というのも、「震災の傷」は「人それぞれ」であり、おのずと、その「乗り越え」も「人それぞれ」でしかなく、「死を恐れなくなった」すずめのような、たぶん「レアケース」でしかないものにおいて、ひとしなみに語ることなど、できない相談だろうからである。

つまり、「乗り越えのわかりやすい(レアな)前提」をご都合主義的に設定しておいて、それを、「作品」の中における「特殊な経験」と「超人的な行動」において、マッチポンプ式に乗り越えて見せたとしても、それは「大震災の記憶」を「乗り越えた」とか、それに「うち勝った」などとは言えないはずだ。
そんなふうに考えたとしたら、それは「あまりにも能天気な傲慢」でしかないのではないだろうか。

そんなわけで、本作『すずめの戸締り』は、果敢に「東日本大震災の記憶」に挑んだ作品として、その「意欲」は評価できる。だが、その意図が、十全に達成されたとは思わない。
しかし、彼なりに「頑張った」というのは認めるので、「テーマの達成」という側面においては、本作は「50点」だと評価したのである。

私は「大人になろうとしている新海誠」を、肯定的に評価したいと思っている。だが、その「達成」は、まだまだだと言わざるを得ない。それは、新海の、こうした「テーマに対するアプローチ」が、まだまだ「観念的=頭でっかち」でしかなく、「人間のリアル」に向き合っているとは思えないからだ。

ただ、若くして「成功者」となった新海が、「人間のリアル」に向き合うことは、容易ではないのかもしれない。
端的に言えば、今の彼の前では、多くの人は「人間のリアル」を見せないだろうからだ。つまり、彼を「先生」扱いにして、過剰に持ち上げることで、彼の周囲に「幻想の世界」を構築しているからである。

例えば、私が「気持ち悪い」と思ったのは、本作のパンフレットに載っている出演者のコメントが、ほぼ例外なく、「作品」についてではなく、まずは「新海監督を褒める」ところから始まっている点だ。

パンフを買った人は、ぜひ確認して欲しいのだが、インタビュー形式の主演二人の「応答」は別にして、残りの出演者7人のうち、5人のコメントでは(文章にして)1行目に「新海監督」という言葉が来ている。

もちろん、これは半分は偶然であろうが、半分は意識的なものだ。つまり「まず監督について語る(褒める)」というのを、俳優たちは習慣化させているのだろう、ということだ。

また、これは新海監督に限らない話で、映画出演者がコメントを求められて際の「パターン」であることに、注意深い人なら気づくはずだ。それほど「監督」というのは「偉い」し、気に入られて損はない、ということなのである。

そして、こうしたこと(ゴマすり)は「社会人」なら、当たり前の話であって、特に責めるつもりはないけれど、こういう「王様」的な立場に立たされたら、「勘違いするか、人間不信になるか」だろうなと、私などは思ってしまう。周囲にいる誰も、「等身大の本音」を語ってはくれなくなるからである。

「監督」は、かように孤独であり、「人間のリアル」に接しにくい。
だから、「人間」というものを考える際にも「抽象的」になりやすい、としても、何の不思議もないのだ。

昔、私が批判した、作家で評論家の笠井潔は、新左翼セクトのイデオローグ(党派理論家)であった若い頃、仲間内でのやり取りで、

『理屈なら、何とでもつけられる。』

(『柄谷行人 ポスト・モダニズム批判 拠点から虚点へ』より)

という本音を、軽口として豪語し、仲間から顰蹙を買ったそうなのだが、新海が『すずめの戸締り』で為した「負の記憶の乗り越え」というのも、所詮は、そのレベルでしかない。
つまり、その「乗り越え」は、『理屈』レベルでしかなく、「なるほど、ひととおりの理屈はついているが、現実は、そんなものではない」というレベルでしかないのだ。

無論、笠井潔の場合は、自覚的かつ小器用に、そうした、自身信じてもいない「理屈」をでっち上げたのであり、それとは違い、新海誠の場合は、真剣に真面目に考えて、この「解決」を捻出したのであろう。
しかし、事実としてはそれも、非当事者の「理屈=観念」でしかなかった、ということなのだ。

また、さらに言えば、「東日本大震災による心の傷」といった「生なテーマ」を扱ったにしては、あまりにも紋切り型で図式主義的な、新海の「手つき」は、いかにも「セカイ系」と言われた人らしいものだ、とも言えるだろう。

『セカイ系とは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」』

(Wikipedia「セカイ系」より、「東浩紀らの定義によるセカイ系」)

つまり、「東日本大震災の隠喩である、民俗神話的な力」や「死」といった「抽象的な大テーマ」と、「すずめと草太の日本縦断の旅」というのが、十分な「中間項」なしに、大胆に結び付けられているように、私には感じられた。

こう言うと、新海監督は「いや中間項として、意識的に配されたのが、旅の途上で出会う人たちとの触れ合いと、捨てられた場所への戸締り(鎮魂)の儀式だ」と言うかもしれない。

なるほど、そういう「意図」があったことは認めていいとは思うが、しかしそれが「東日本大震災の隠喩である、民俗神話的な力」や「死」といった「抽象的な大テーマ」と、「すずめと草太の日本縦断の旅」という両極を、説得的につなぐ「中間項」になり得ているかというと、私は、そこまでのものではなく、単に「旅先での良い話」や「ファンタジー的寓話」の域を出ていないのではないかと思う。なぜなら、出会う人が「みんな、良い人」過ぎるし、「鎮魂の儀式」は所詮「鍵一本での封印」でしかないからだ。

新海監督は、「映画.com」のインタビューの中で、自分の作品には、特に本作『すずめの戸締り』には「悪人が出てこない。自然や死といったものと闘う物語だから、悪役を出す必要がないからだ」という趣旨のことを語っていたが、これは裏を返せば「人間どおし(社会)のリアルな葛藤としての物語を、これまで描いてこなかった」あるいは「セカイ系」の人らしく「スピリチュアルな寓話の世界に逃げていた」ということに他ならない。だからこそ「良い人」ばかりなのだ。

そして、ここで新海監督のこの自論に対し疑義を呈するなら、私の『天気の子』論で指摘したとおり、少なくとも『天気の子』には「無理解な大人」という「仮想敵」が、ハッキリと登場していたのだが、監督自身は、そのことをすっかり忘れてしまったのであろうか?

ざっくりした印象で評価するのではなく、本作の作りを仔細に検討するならば、「東日本大震災の記憶(心の傷)」の問題は、本作において「乗り越え」られたなどとは、決して言えないはずだ。
にもかかわらず、新海誠が本気でそれを成しえたと思い、このまま、あっさりと「次に進める」のであれば、もはや、その「ファスト解決」に対しては、語るべき言葉は無い。
頑強な盲信状態にある宗教信者の確信的迷妄の前に、私たちは言葉を失わざるをえないからだ。

だが、新海がもしも、自身の「東日本大震災の記憶」への向き合い方の「不十分さ」に気づいて、今後もこのテーマに拘泥するのであれば、私が助言として言いたいのは、「所詮、自分は震災被害の当事者ではない」という「非当事者」性を、しっかり引き受けることから始めるべきだ、ということになろう。

無論、新海は新海なりに「東日本大震災」から影響を受けただろうし、その意味では「心の傷」を受けた一人だと言えるかもしれない。だからこそ、それに拘泥もしたのだろう。
だが、そうした意味で言うのなら、その「当事者」とは、少なくとも「日本人全員」にまで押し広げられ、薄められてしまうしかないのだ。

「誰が、震災被害の当事者なのか」という問題は、現実の「補償金問題」ひとつ取っても、一筋縄ではいかないものである。
例えば、「補償対象地域」と「それ以外」をどこで「線引き」するのかという、気持ちとしては「あり得ない」話だけれども、なされねばならない「線引き」問題。あるいは、「強制避難者」と「自主避難者」に対する「区別」といったことは、今もなお「現在進行形の問題」であって、決して「乗り越え」られてなどいない「現実(リアル)」なのだが、そんな「生々しい現実」には、見向きもしなければ興味もないような者(観客)が、「『すずめの戸締り』は、東日本大震災をテーマにして、その乗り越えを見事に描き切った傑作だ」などと評価するとしたら、その「無神経で無責任な残酷さ」は、断罪に値するものだと言っても良いだろう。

一一ならば、新海誠監督自身は、どうだったのか?

自身の「非当事者性」を自覚した上で、この作品を作ったのか?
それとも、自分も「当事者」であり、だからこそ「乗り越え」をリアルに描けると信じて、この『すずめの戸締り』を作ったのだろうか?

もしも、後者であるとしたなら、この作品の「テーマ」の扱い方が、所詮は「紋切り型」の域を出なかったのも、そこに原因があったのだと、私はそう考えずにはいられない。

 ○ ○ ○

そんなわけで、新海誠監督が、今後「どのようなテーマを扱い、どのような作品を作るのか」、それを見守る必要があると、私個人は思っている。

新海誠にかけられた「高畑勲の呪い」は、簡単に「乗り越えられる」ような、そんなお易いものではなかったというのが、本作『すずめの戸締り』を観ての、私の率直な感想であった。

新海は、自身の「民俗学的知識」に自信を持っているようだが、宗教研究を趣味としている無神論者として言わせてもらえば、「民俗的神話や夢想」というのは、人々の民俗文化の思考パターンを具象化したものに過ぎず、それ自身が本体でもなければ本質なのでもない。
「民俗学」とは、「人間」を知るために行われる探求であって、「人間以前にあるもの」を研究するような「神秘主義的エセ学問」などではない。

ところが、多くの人は「民俗的神話や夢想」の「表面的な面白さ」だけに惹かれて、そちらこそが「本質」だと見誤る「倒錯」にとらわれがちで、その結果、「なかば遊び、なかば本気」で聖地巡礼パワースポット巡りをありがたがるスピリチュアリスト(霊性主義者)になってしまう、というのも、イマドキ珍しくもない話だ。

一一そして、その気味が、他でもない、新海誠にも感じられるのだ。

実際「東日本大震災」の直後には、あの「オウム真理教事件」の反省を忘れたかのように、スピリチュアリズム(霊性主義)」の問題が、「癒し」を与えるものというかたちで再燃し、宗教学者たちの間でも、その是非が論じられもした。

だが、新海誠は、そんなことなど、多分、ろくに知りもせずに、「捨てられた場所を悼む」などという「もっともらしい言葉」で本作『すずめの戸締り』を説明している。

だが、このような発想自体が「行きて帰らぬ物語」そのものだということに、新海誠は、まったく気づいていないのだ。


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(2022年11月19日)

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