見出し画像

宮部みゆき 『さよならの儀式』 : 温かく懐かしいSF

書評:宮部みゆき『さよならの儀式』(河出文庫)


本書は、10年間にわたって書き継いできた作品をまとめた、宮部みゆき「初のSF短編集」である。

SF小説の翻訳家で、アンソロジストとしても名高い大森望が、低迷していた日本のSF界を盛り上げるべく企画した、書き下ろしSFのアンソロジー『NOVA』の立ち上げに当たって、SFのプロパー作家だけではなく、一般には他ジャンルの作家とみられている、しかし作家としての力量もあれば、SFが書けると大森の見込んだ作家にも声をかけた際、その一人として選んだのが、すでにミステリと時代小説の世界で、押しも押されもせぬ実力派の人気作家となっていた、宮部みゆきであった。

一般に、「宮部みゆき」と言えば、ミステリか時代小説のイメージが強いが、宮部はデビュー後まもない時期から、SF的な要素を持つ作品を書いている。
例えば、『龍は眠る』『鳩笛草』『クロスファイア』などがそうだし、他に《ドリームバスター》シリーズなどもそう。時代小説でも《霊験お初捕物控》シリーズなど、「SF的要素」を持つ作品を書いていて、「タイムスリップ」を扱った『蒲生邸事件』では、「日本SF大賞」を受賞してもいる。一一というのは、「解説」で大森望が書いているとおりである。

ただし、それにもかかわらず、宮部みゆきに「SFの書ける作家」という「印象」が薄いのは、決して理由のないことでもない。
例えば、『クロスファイア』などは、スティーブン・キング『ファイアスターター』を踏まえた(オマージュ的な)作品であり、その意味では「SF的要素」はあっても、「プロパーSF」的ではない。
その他の作品にしても同様で、「SF的要素」はあっても「プロパーSF」的ではないのだ。

では、どこが「プロパーSF的ではない」のかと言えば、それは「SF的な要素」の位置づけが、「設定」であり「小道具」でしかなく、その部分での「斬新さ」や「壮大さ」に重点がおかれているわけではない、という点である。

言い換えれば、宮部みゆきという作家の「本質」であり「本領」は、「人間を描く」という部分にあり、より正確に言うならば、「温かい視線で、人情の機微描く」というところにあって、物語はそれを盛る器であり、ミステリ系作品における「トリック」や、SF系作品における「SF的ガジェット」というのは、その物語に捻りを加えるための「要素」であって、「それ(そうしたジャンル的要素)そのものの面白さ」が「売り」にされているわけではないのである。

例えば、前述のスティーブン・キングの『ファイアスターター』は「発火能力(パイロキネシス)」者の少女が主人公なのだが、この場合「なぜ、彼女には超能力が使えるのか?」とか、そもそも「なぜ、発火が可能なのか?」といったこと(科学的説明)は、キングの小説の中では突き詰められず、せいぜい「超能力者が生まれやすい土地に生まれた両親から生まれたから(遺伝)」といった、最低限の説明しかなされない。
つまり、この物語で重要なのは、そうした「ガジェット自体の新たしさや面白さ」ではなく、そうした自身望まぬ能力のゆえに、当たり前の人生を歩めない少女の悲劇を、繊細かつドラマティックに描く、という点にあるのだ。
だからこそ、『ファイアスターター』は、「SF的な作品」と言われることはあっても「SF」に分類されることはほぼなくて、「ホラーの巨匠スティーブン・キング」の作品ということで、大雑把に「超能力ホラー」などと考えられがちなのである。

宮部みゆきの「SF的な作品」も同様で、「SF的な作品」ではあるけれど「SF」とまでは言えない、という印象を「SFのプロパー読者」に与えてしまうから、宮部みゆきは「SFプロパー読者」だけではなく、「世間一般」にも「SFが書ける作家」という印象が薄い。

これは、ミステリの世界においても同じで、宮部みゆきは1960年(昭和35年)生まれで、綾辻行人と同年であり、ほぼ同じ時期から活躍し始めていながら、宮部が「新本格ミステリ作家」と呼ばれることはないのと、似たような事情だ。

宮部の場合は、綾辻以降の「新本格ミステリ作家」とは違い、講談社ノベルス(や東京創元社)の書き下ろし作品でデビューしたわけでもなければ、「一発アイデアの大トリックもの」でデビューしたわけでもないし、そういう「目新しさ」が、宮部の「売り」ではなかった。

宮部みゆきは、綾辻が『十角館の殺人』でデビューする前年(1987年)に「オール讀物推理小説新人賞」を受賞して作家デビューしており、その意味では綾辻ら「新本格ミステリ作家」のように、無名の新人が、いきなり書き下ろし単行本でデビューするなどといった「特異なかたち」ではなく、それ以前の「オーソドックス」なかたち(公募賞受賞)で作家デビューしている。
そのせいで、初の単行本は、2年後の『パーフェクト・ブルー』を待たなければならなかったし、この作品は、若手ミステリ作家を中心とした、東京創元社の書き下ろし長編ミステリ叢書「鮎川哲也と十三の謎」からの刊行で、言うなれば「新本格ブーム」の流れの中で刊行されたのだが、にもかかわらず、その「オーソドックスさ」ゆえに、あまり目立たないという印象が強かった。
宮部が注目されるのは、同年に長編『魔術はささやく』「日本推理サスペンス大賞」(公募賞)を受賞し、さらには同年、『龍は眠る』「日本推理作家協会賞」を受賞したからなのだ。

つまり、宮部みゆきは、「新本格ムーブメント」の勃興と時を同じくして頭角をあらわしてきたミステリ作家ではあったけれど、それは「新本格ミステリ以前」の流れ(文脈)の中から生まれてきた「実力派作家」ということであって、決して「目新しさ」を売り物にした新人作家ではなかった

宮部みゆきは「(面白い物語を、人間を)書ける新人作家」として高く評価されたからこそ、逆に「新本格ミステリ作家」だとは見られなかったのである。

しかし、だからと言って、宮部みゆきが、綾辻行人以下の「新本格ミステリ作家」のような「ミステリ・マニア」ではなかったのかと言えば、そんなことはない。
宮部が、十分に「ミステリマニア上がりの作家」だったというのは、彼女が、マニアックな探偵小説専門誌『幻影城』のファンクラブとして発足した、「怪の会」の会員であった事実からも明らかだろう。

ただ、宮部の場合は、「ミステリマニア」ではあったけれど、「それだけではなかった」。
SFも読めば、ホラーも読むし、ファンタジーも時代小説も読む、そんな「大衆小説全般を愛読する読者」だったのであり、そこが彼女の強みでもあれば、当初、わかりやすい「プロパー作家」にはなれなかった、ある意味では(当初の)弱みでもあったのでもある。

ちなみに、「新本格ミステリ以前」からのミステリマニアのサークルであった「怪の会」は、当時、長谷部史親縄田一男の二人が、別格の「二大巨頭」的に君臨していた、特異なサークルであった。
長谷部は、当時すでに『探偵小説談林』という評論書を公刊していた「うるさ型」のミステリマニアだったし、縄田一男の方はのちに「時代小説評論家」に転じるようなマニア気質の持ち主だった。

(「怪の会」の会誌『地下室』。長谷部史親、縄田一男の他に、私・田中幸一の名も見える。私は、新本格を擁護して、長谷部・縄田などをガンガン批判したので、だんだん原稿を載せてもらえなくなっていった)

そして、この二人に共通していたのが、「新本格ミステリ以前」的な「本格ミステリと言えども、人間が書けているというのは、小説としての最低条件だ」とする価値観である。

だから、彼らは「新本格ミステリ」をまったく評価せず、むしろ積極的に否定し、攻撃した。
綾辻行人の「館シリーズ」などは、『違法建築もの』と呼ばれて、悪意を持って揶揄され嘲笑された。それがのちに「新本格バッシング」として語られるようになった(ものの、端的な例だった)のである。

だが、当然のことながら、この二人は、同じ「怪の会」の会員で、「人間の書ける」宮部みゆきの方は高く評価していたし、逆に綾辻行人ら「新本格ミステリ作家」を揶揄する際に、宮部を引き合いに出すことさえあった。
したがって、宮部としては、同世代のミステリファン出身作家として共感を抱いている「新本格ミステリ作家」たちに対して、悪句雑言を浴びせるのを楽しんでいるかのような(年長の)長谷部・縄田ペアが、いくら褒めてくれるとは言え、自分を引き合いに出すことに、内心おだやかではいられなかったであろうというのは、容易に察しのつくところである。

もうひとつ、この二人について興味深いのは、彼らが、『新宿鮫』でベストセラー作家に大化けする以前の大沢在昌を高くしていた点なのだが、宮部みゆきは2013年に、

『大沢在昌の主宰する事務所の大沢オフィスに京極夏彦とともに参加し3人の共同出資の「株式会社大沢オフィス」を設立している(現・株式会社ラクーンエージェンシー)。オフィスの公式サイト名は3人の姓から1字ずつとって「大極宮」と命名した。』

(Wikipedia「宮部みゆき」

という点である。

何が興味ぶかいのかというと、「笠井潔葬送派」であり、笠井潔の「本格ミステリ」界あるいは「推理小説」界における「文壇政治」を批判してきた私の目から見ると、大沢、宮部、京極のこの動きは、笠井潔がリードしていた当時の「新本格」界隈とも、それを快く思っていなかった(笠井と同様、元全共闘活動家の作家の多かった)「日本冒険小説協会」や、その中心的な作家が会長職を務めることの多かった(当時の)「日本推理作家協会」とも、一定の距離をおける立場を自ら確保する、という意味もあったのではないか、という点だ。

つまり、そういう「面倒ごと」に巻き込まれたくない、煩わされたくないから、そうした「文壇勢力地図」から離れた場所に、自分たちの拠点を新たに作ったのではないか。
私が見るところ、この3人には、そうしたバランス感覚もあれば、組織的なバックアップを必要としない「実力と人気」が、すでに備わっていたからである。

閑話休題。

SFであれミステリであれ、ジャンルのプロパー読者というのは、他ジャンル作品をあまり読んでいないだけに、かえって自ジャンルに対するこだわりが強く、しばしば、自ジャンルが「最高の文学」だと思いたがり、そう主張したがる傾向が強い。そして、さらには、そのことによって、妙な「エリート意識」を持ちがちだ。

例えば、「SF」マニアだと「SFは、文系と理系、双方の英知を併せ持った読者のための文学」だというような自負であったり、「本格ミステリ」マニアだと「本格ミステリは、知識人の読み物」だといったような自負である。
「オタク」というのは、とかく「我が仏尊し」という「信仰」を持ちがちなのだ。

だが、宮部みゆきにはそういう偏狭さがなく、フラットに面白いものなら読むという姿勢で、幅広くなんでも読んでいたこともあり、「本格ミステリマニア」上がりの「新本格ミステリ」作家とは違い、「人間」が描け、そこが従来の先輩作家たちなどからも広く評価されたし、のちには広範な読者を得ることにもなったのである。

ただ、ここで注意しなければならないのは、宮部みゆきにおける「人間が書けている」というのは、「純文学」における「人間が書けている」ということとは、方向性が違うという点である。

「純文学」の場合の「人間が書けている」というのは、おおよそのところ「人間存在(実存)を掘り下げている」という意味であるのに対し、宮部みゆきにおける「人間が書けている」というのは、「大衆小説」的に「人間が生き生き描けている」というような意味なのだ。

言い換えれば、「純文学」における「人間が書けている」とは、「当たり前の人間の奥に隠されている、当たり前ではないものを剔抉している」といったようなことなのだが、「大衆小説的」における「人間が書けている」とは、私たちが「そうそう、そうなんだよな、人間って」と「共感」できるようなかたちで「人間が姿が、生き生きと描けている」ということなのだ。
「純文学」が「深い内面性の描写」重視なら、「大衆小説」は「共感しうる、リアルな人間の姿の描写」重視であり、宮部みゆきの場合は、もちろん後者だったのである。

 ○ ○ ○

以上に論じた諸点において、本書に収められたSF短編は、「SFプロパー的な作品」ではなく、「大衆小説としてのSF小説」なのだと言えるだろう。
ただ、そのように、あまり正直に言ってしまっては、「エリート意識」の強いSFプロパー読者には読んでもらえないから、大森望は、あえて「SF要素のある作品」という表現で、「SF」性の方を強調して見せたのだ。

だが、そうした「ジャンル政治」的なものには興味のない私の立場から、本書を紹介するなら、

「本書に、マニアックなSF性を求めてはならない。SFにおける新しさを求めてはならない。そうではなく、古き良きSFのような、SFでしか描けない〝人間の物語〟を、本書において堪能すべきである」

というようなことになる。

本書に収録された作品に、「新しさ」を感じることは困難かもしれない。だが、ベテランのSF読みであれば、本書所収の諸作に「懐かしさ」を見出すことができようし、日頃SFを読まない読者でも、フラットに本書を楽しめるはずだ。

じつのところ本作品集は、「古き良きSF」に捧げられたオマージュ作品集であり、その意味で、昨日今日「SFマニア」になったような若造には、かえって堪能し得ない、「温かく懐かしいSF」世界を提供しているのである。


(2023年4月27日)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○




 ○ ○ ○














 ○ ○ ○














 ○ ○ ○



 ○ ○ ○







 ○ ○ ○




 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

読書感想文

SF小説が好き