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湯浅政明監督 『夜は短し歩けよ乙女』 : 〈短い真夏〉の 夜の夢

映画評:湯浅政明監督『夜は短し歩けよ乙女』


湯浅政明監督『夜は短し歩けよ乙女』は、とても「ハッピー」な映画だった。

森見登美彦の原作小説は、初版単行本刊行の2006年かその翌年に読んでおり、とても面白かったと記憶する。
印象に残っているのは、「黒髪の乙女」が「おもちゃのロボットのように、左右に揺れながら少々ぎこちない歩き方をする」という趣旨の描写で、それがとても可愛らしく感じられた。

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私は、当時も今も大阪在住だが、初版本蒐集が趣味だったので、かつては京都や神戸にまで定期的に足を運んで古本屋巡りをしたし、下鴨神社の古本市にも、昼間限定ではあるものの、何度となく行っており、とにかく「暑かった」という印象が強い。

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当時、この古本市でも、相当の冊数購入しているはずだが、何を買ったかは、あまり記憶にない。
ただ、なぜだか、すでに何冊か所蔵していた、高村薫の『リヴィエラを撃て』の初版本を(また)買ったことだけは憶えている。この本のことだけがハッキリと記憶に残っているのは、もちろんこの作品が好きだったということもあるのだが、金色の帯がとても綺麗だったからではないだろうか。そこが強く印象されているのだ。
そう言えば、私はほとんど読まなかったが、この頃は冒険小説ブームで、佐々木譲の『ベルリン飛行司令』や『エトロフ発緊急電』などが、とても話題になっていた。いま調べてみたら、どちらも1989年の刊行だから、「新本格ミステリ」が産声をあげてまもなくの頃であり、私のこの記憶は、たぶん1990〜1992年頃のものであろう。
本作アニメ版に登場する、(古本市の神様に、値札を剥がされて、怒っていた)古本屋のオヤジなんかは、まさにどこか見覚えのある顔で、モデルがいるのではないかさえと疑った。

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さて、京都の古本屋といえば、私が真っ先に思い出すのは「アスタルテ書房」である。
当時も今もだろうが、あんな古本屋は他になかった。

マンションの一室、ワンフロア20畳くらいはあろうかという板張りの洋間で、店に上がるには、下足を脱いで、備え付けのスリッパに履き替えなければならないのだが、そのスリッパも黒革製(?)の高級感のあるもの。腰高の靴箱の上だか横だかには、来店者用「芳名録」まで置いてあった。
つまり、普通の古本屋ではなく、お金持ちの書斎ででもあるかのような、豪華な古書店なのだ。そう、かの「澁澤龍彦の書斎」でも模したような。

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入り口正面奥の、ガラス扉のついた豪華な書棚には、澁澤龍彦や生田耕作の初版サイン本や限定本などの稀覯本が並んでおり、その前に設えられた、立派な机に向かい(入り口の方向に向かって)、主人である佐々木一弥氏が、本の値付けなどをしていた。その机の前には、来客用の、これまた黒革張りのソファーが、低いテーブルをはさんで向かい合わせに置かれていた。佐々木氏はいつも和服姿で、言うなれば、アスタルテ書房は「異界」であった。

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もちろん、この「異界」は、本作『夜は短し歩けよ乙女』の主人公である「先輩」とは縁のない、別の「異界」であって、「先輩の世界」に、アスタルテ書房は存在しない。
なぜならば、アスタルテ書房は、他の古本屋にはない本を揃えていたかわりに、値付けはかなり強気だった。つまり、高かった。だから、貧乏な「先輩」にはそもそも縁がなく、「先輩の世界」に住む「古本市の神様」なら、アスタルテ書房を許さなかったであろうことも、容易に想定できるからだ。

アスタルテ書房は、古本市に出店したりはせず、我が道を行っていたようだが、いずれにしろ私は、「古本市の神様」の価値観ではなく、アスタルテ書房・佐々木氏の方を支持する
つまり、高く値付けすべき本は、高くつけるべきだと考える。なんでも安ければ良いというものではないのだ。

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なぜなら、中身の良いものに、夢を与えてくれるものに、入手困難なものに、適切な対価を支払ってこそ、文化は守られるからである。良い作品、手間のかかった本を安く手に入れようとしてばかりいると、結局のところ、良い作品を作る人たちを縊り殺すことにしかならない。アニメーター達のブラック労働などが、その最たるもののように、だ。

ともあれ、「先輩」の「異界」なればこそ、あの「古本市の神様」は、「古本市の神様」として存在し得たのであり、あれは「貧乏学生のファンタジー」でしかない。
ちょうどそれは、「黒髪の乙女」が、「冴えない、頭でっかちで自意識過剰な、貧乏学生」の「ファンタジー」であるのと同様である。

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「冴えない、頭でっかちで自意識過剰な、貧乏学生」にとっての「恋愛対象たる女性」とは、「茶髪ではなく、黒髪でなければならない」、「思索的な人間ではなく、無邪気で天真爛漫でなければならない」「大人の女ではなく、少女でなければならない」ということになる。一一なぜならば、そうでなければ、自分の方が「尻に敷かれそう」で「萎えてしまう」からだ。

つまり、『夜は短し歩けよ乙女』という作品は、「ふた昔前」の「男性中心主義的」な立場に(無自覚に)立つ「冴えない、頭でっかちで自意識過剰な、男子貧乏学生」のファンタジーである、と言えよう。

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こうした「異界」に、多くの男たちは憧れたのであり、原作者の森見登美彦も、その世代の男だったということである。
ちなみに、森見登美彦は、私より一回り以上 年下ではあるが、私もそういう「冴えない、頭でっかちで自意識過剰な、貧乏学生」であったから、そのあたりは、反省も込めて、よくわかるのだ。

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だが、本稿は、原作小説を論じるものではなく、湯浅政明監督のアニメ映画版『夜は短かし歩けよ乙女』を論じるために書かれているから、原作に見られる「男性中心主義」を批判することが目的ではない。

私が、本稿で設定した問題は、「どうしてこの作品には、湯浅作品らしい陰がなく、無条件に楽しかったのか?」というものである。

この作品が、とにかく「楽しかった」というだけなら、今さら書くまでもないことだが、私は、このアニメ作品の出来そのものよりも、むしろ湯浅政明というクリエーターの方にこそ興味がある。

湯浅監督の「本性」を見極めるためというのが、本作を鑑賞した「動機」の半分以上なのだから、この「陰が見当たらなかった」という「例外」的作品に、ただ満足して、それで済ませるわけにはいかない。なぜならこれは「批評」だからである。

私はこれまで、湯浅政明監督の作品として『DEVILMAN crybaby』『きみと、波にのれたら』『犬王』『夜明け告げるルーのうた』『マインド・ゲーム』と観てきて、今回の『夜は短かし歩けよ乙女』となる。

なお、森見登美彦については、最初に読んだのが『夜は短かし歩けよ乙女』で、『太陽の塔』『四畳半神話大系』『きつねのはなし』『恋文の技術』と初期作品を読み、そこから一昨年の『四畳半タイムマシンブルース』まで跳ぶ。
なぜこうなったのかは簡単で、『夜は短かし歩けよ乙女』が面白かったので、初期作品を読み、それぞれそれなりに面白くはあったものの『夜は短かし歩けよ乙女』ほどではないと感じられたので、興味を失って森見作品から遠ざかったということだ。
『四畳半タイムマシンブルース』の方は、ひさびさの中村佑介による表紙絵が目を惹いたのと、「タイムマシンもの」という点に興味を持ったのだが、「タイムマシンもの」の部分で「原作」があると知り、その上田誠(本作アニメ版『夜時は短かし歩けよ乙女』の脚本担当)の戯曲『サマータイムマシン・ブルース』(舞台作品)を原作とした、本広克行監督による映画版の方を観、原作戯曲と映画を下敷きにしたノベライズ版を読んでから、森見版を読んだところ、正直、映画版や原作戯曲を超える作品だとは思えなかった。

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そんなわけで、私の現在の興味は、原作『夜は短かし歩けよ乙女』やその作者の方にはない。
あくまでも、湯浅政明監督であり、その作品としての『夜は短かし歩けよ乙女』の方にあるのだが、なまじ原作を読んでいるだけに、映画が「面白い」と言っても、どこが映画版独自の功績なのか、そこを区別して論じるのは、少なくともストーリーの面では、きわめて困難である。とは言え、その「映像美の独自性」を絶賛するだけでは、そんなものは感想文に過ぎない。そこで、少々悩んだのである。

しかし、前述の「アスタルテ書房と古本市の神様」のくだりを書いていて、ハッキリと気づいたことがある。
それは、本作『夜は短かし歩けよ乙女』の場合、他の湯浅作品とは違い、「現実」との接点がほとんどない、ということであり、だからこそ完全に「ハッピー」たり得たのではないか、ということだ。

『夜明け告げるルーのうた』に典型的だが、湯浅政明監督の作品は、「異界と現実」の接点において発生する物語が多い。

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例えば、この『ルー』なら「人魚と人間」、「DEVILMAN crybaby』なら「デーモン族と人間」、『きみと、波にのれたら』では「死者と生者」、『犬王』では「芸術家と世俗権力者」、『マインド・ゲーム』では「冒険的な生と、無難かつ惨めな生」といった具合で、この「対立的な二項」に対して、湯浅監督は、明らかに前者である「異界」の側に立っている。一一と言うか、「異界」もまた、この世界の一部であると認め、無難に「こちらの世界」に安住するのではなく、「外へ出てゆく」勇気を持てと訴えている。「人間が、いかにも人間的な人間である必要はない。左右を見渡し、周囲の空気を読んで、それに合わせる必要などない。たとえ、人にどう言われようと、もっと自由に、自分の可能性を開くべきだ」とそう訴えていると、私は湯浅作品の「特徴」を、そのように理解していたのだ。

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ところが、本作『夜は短かし歩けよ乙女』には、そうした「外部」がない
だから、本作を湯浅作品として、どう位置づけるかで悩んだのである。

湯浅作品にとっての「外部」とは、当然のことながら「人間的な価値観」における「ハッピー」なものであるとは限らない。それは「冒険」を伴い、時に「死」を結果する場合もある。
それでも「人間に止まることだけが、価値ではない」というところに湯浅作品の「特徴」があり、そうであるが故に、湯浅作品には、いわゆる「ハッピーエンド」ということでは済まされない「苦さ」が残るのだ。

ところが、本作『夜は短かし歩けよ乙女』には、そうした「苦さ」がない
たしかに「ハッピー」で「楽しい」作品であり、その点に文句はないのだが、湯浅作品としては、「苦さ」のない点で、私のようなへそ曲がりには、どこか物足りなさが残る。
なぜ、この作品は、「ハッピー」の中に自足してしまったのか。

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多分その理由は、この『夜は短かし歩けよ乙女』の世界が、最初から「二重構造」になっていたからではないだろうか。
つまり、「先輩」の住むこの世界は、「黒髪の乙女」や「古本市の神様」の住む「願望充足的な異界」なのだが、「先輩」はそんな「異界」の中にあっても、さらに、自身の過剰な「自意識の小部屋」に引きこもっていた。

つまり、「黒髪の乙女」へのアプローチとして「外堀を埋めること」だけに終始して、「黒髪の乙女」に直接アプローチをしようとはしなかった。「好き」だと告白して、フラれるのが怖かった。
より端的に言えば「自分がフラれ男になるということを、自尊心が許さなかった」。
だから、「先輩」は、「黒髪の乙女」の方から、自分に接近してきて、好意を示してくれることに期待した。彼女の方から「好き」だと言ってくれれば、彼も安心して「好き」だ言い返せるからだ。

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だが、これは「冒険」ではない。「外に出て行く」ことではない、というのは自明である。
「先輩」は、「黒髪の乙女」に、自分の「自意識の檻=四畳半」の中に入ってきてほしかったのである。

しかしまた、この作品でも〈最終的には「先輩」も、自分の方から「黒髪の乙女」にアプローチしたじゃないか〉と見る人も少なくないだろう。たしかに、そのようにも見える。だが、本当にそうだろうか?

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結局のところ、この作品世界は「先輩の願望世界」であり、その「冒険」を経ての「願望成就」まで含めて、すべて「先輩の願望世界」の内、なのではないだろうか。
つまり、「先輩」の住む「四畳半」に象徴される「先輩の自意識」とは、所詮は「先輩の願望世界」内において、「先輩の願望」によって設えられた「仮の出発点」であり、最終的には、その「願望世界」での「引きこもり」を正当化するための、段取りとして必要な「作中小道具」でしかなかったのではないか。

言い換えれば、本当の「先輩」は、作中で活躍する「(小文字の)先輩」ではなく、その「願望世界」を創造し、それを「神の視点」から統御している「作者としての先輩」で、なるほど「作中の先輩」は「自意識の小部屋」から出て行って「黒髪の少女」とめでたく結ばれたかのようであるけれど、そもそもこの「物語」は、すべてが「自意識に引きこもった先輩の脳内世界」でしかないのではないだろうか。

この作品世界は、「二重構造」あるいは「三重構造」になっていて、結局のところ「先輩」は、自ら作り出した「ハッピーな世界」に安住できた、ということでしかないのではないか。
この作品に、「外部」と触れることによる「苦さ」が無いというのは、そういう事情からではないのだろうか。

だとすれば、湯浅監督は、原作者の描いた「罠」にまんまとハマって、この「脳内願望世界」に止まる物語を、他の作品と同様の「外に出て行く物語」と勘違いさせられて、そのつもりで作ってしまった、ということなのであろうか?

そうなのかもしれない。
だが、もしかすると、「くせ者」の湯浅監督なら、「それで幸せなら、それでいいんじゃないの」と、そう考えて、原作者の描いた「オナニズムの異界」を肯定したみせたのではないだろうか。一一「オナニズムの、どこが悪いの?」と。

これは、あり得ることではないだろうか。
よく言われるとおり、湯浅監督の作品は「実験的」で「前衛的」である。
そんな監督は、自分でも、自分が「当たり前のパターン」が好きではないことを認めているようなのだが、その反面「多くの人に楽しんでもらえる作品づくりを目指している」と何度も語っている。

つまり、プロのアニメ作家である以上、好きなことだけをやっている(オナニズム)だけでは済まされないから、可能なかぎりポピュラリティーのある作品は目指すのだけれども、しかしそれは、稼ぎのために、自分のやりたくないことを無理にでもやるということではなく、自分のやり方を大前提として、ポピュラリティーをも目指すということなのではないだろうか。
だとすれば、湯浅監督の根底にあるのは、やはり「オナニズムで、何が悪い」という意識だとは言えまいか。

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もちろん、湯浅監督がそうしているように、「オナニズム」に終わるよりは、さらに広い世界へと開いていく方がいいだろう。「快楽」は、何も好んで「小さく限定する」必要はない。つまり、「黒髪」でも「金髪」でも、「少女」でも「大人の男」でも、好きになれるのなら、選択肢の多い方が良いではないか。

だから、まずは「オナニズムの四畳半」という「小さな異界」を肯定する。
それはそのまま、『夜は短し歩けよ乙女』という『願望世界』の「原型」でもある。
そして、それがそんなに「好き」なら、それを「否定」する必要はないが、しかし、それが「すべて」でもないよ、というのが、湯浅監督の、本作におけるスタンスだったのではないだろうか。

原作者の森見登美彦がそうであるように、多くの若者は『夜は短かし歩けよ乙女』という「願望世界」に憧れ、この映画に、いっとき酔うことだろう。

だが、映画館を一歩出れば、そこに広がっているのは、否応なく「願望どおりにはいかない世界」であることを、若者たちは、否応なく気づかされるだろう。
それなら、「一時的な避難場所」として『夜は短し歩けよ乙女』という「願望世界」を肯定してもよいのではないか。あえて否定する必要もないのではないか。一一そう、湯浅監督は考えたのではないだろうか。

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だが、私個人としては、それでは「物足りない」と感じられた。
たしかに「面白い」のだが、どこか「物足りない」。

それはやはり、私はすでに「冴えない、頭でっかちで自意識過剰な、貧乏学生」ではないし、そこに止まるには、もう「外の世界」の面白さや、「冒険」して傷つき、それで「成長することの面白さ」を知ったからではないかと思う。

私の場合、もうこの歳で、「冴えない、頭でっかちで自意識過剰な、貧乏学生」の「願望世界」まで退行して、再びそこに「引きこもり」たいとは、とうてい思えないのである。


(2022年7月5日)

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