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言葉のおろそかな〈文筆業者たち〉 : 綾辻行人 ・ 知念実希人の事例 : 古田徹也 『いつもの言葉を哲学する』

書評:古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)

私はしばしば皮肉として、「読める読者なら」とか「文学の世界では」という表現を使う。

「読める読者」とは、「音読なり黙読なりで、文章を読むことができる(だけ)」の「読者」のことではない。「読める読者」の、「読める」とは「その言葉の意味するところを、ニュアンスまで読み取れる」ということを意味し、「読者」の方は、それ以前の「行為としての読む」をする主体、を意味している。
つまり「読める読者」とは、その言葉や文章を書いた、あるいは発した者が「意図したところ」をおおむね正しく「読み取れる」読者のことであり、決して、単に、その言葉を、音読なり黙読なりできる(形式的になぞるだけ)の者を指しているのではない。

こうしたことは、ここまで馬鹿丁寧に説明するまでもなく、「読める読者」にとっては、あまりにも分かりきったことなのだが、その「当たり前」のことのできる読者が、いったいどれだけいるのかというと、現実は、かなり心もとない。

例えば、私が皮肉で「あなたは、読めない読者だな」と言ったとすると、その「読めない読者」は、「そんなことはない。その言葉の意味は、こうでしょう」と「字づら」について語ったりする。「私はその言葉を、現に読むことができますよ」と、切り返しの皮肉ででもあるつもりなのか、「ほら、読んだ」とばかりに「音読(字づらをなぞることを)」して見せたりするのだ。一一これが「読めない読者」。私の言う「馬鹿」である。

くり返すが、こんなことは「読める読者」には説明するまでもないことなのだが、このように懇切丁寧に説明しても、「読めない読者」には、やはり理解してもらえない。なぜなら、その人は「読めない読者=ニュアンスの読み取れない読者=頭を使わない読者」だからである。

だから、私はそういう「読めない読者」に対する皮肉として「それは、文学の世界で言うところの、読める、ということではないんですよ」と言ってみる。つまり、その人は「文学の世界」の住人ではなく、「読解=意味を読み取る」というのが当たり前ではない、「文章読み上げ機能つき計算機」の世界、つまり「知能を持たない」に等しい世界の住人でしかない、という皮肉を差し向けるのだ。
だが無論、「読めない読者」には、こんな高度な皮肉など「理解できない」。ただし「ニュアンス」だけは伝わるから、それで十分なのである。

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本書著者は、言語哲学でも有名なヴィトゲンシュタインの研究者だが、本書の内容はタイトルどおりで、「日常的な言葉」の問題を、ごく真っ当に懇切丁寧に検討したものである。

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(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン)

これも、言うまでもないことだが、『哲学する』とは、「ごく真っ当に懇切丁寧に検討」するということであって、「ジャーゴンを使って、小難しい議論めいたことをすること」が「哲学」なのではない。
例えば、「読めない読者」とは何か、という問いに対して、「音読や黙読ができない読者」であるとか「字づらの意味も取れない読者」である、といった説明で満足はせず、「読めない読者」という言葉が孕んでいる「皮肉」のニュアンスを、正しく読み取ろうとするような行為を、「哲学」すると言う。

この説明が難しければ、別のたとえをしてみよう。
「愛する」とは何かという問題について、「好きになる」とか「大切に思う」という回答は、間違いではないけれど、「愛する」を「哲学」したことにはならない。
「愛する」を「哲学」するとは、その言い換えである「好きになる」とは、そもそもどういう意味か、「大切に思う」とはどういうことなのか、あるいは、なぜ「好きになる」のか、なぜ「大切に思う」のか、といったふうに、単なる「言葉の置き換え」に満足するのではなく、徹底した「言葉の置き換え」によって「そうした多様な言葉たちの間」から浮上してくる意味、より深い次元での意味を、見出そうとする作業なのだ。

だが、こういう作業は、一般には「面倒くさい(だけ)」とか「無意味」とまで思われがちだ。
「好きは好きでいいじゃない。嫌いは嫌いでいいじゃない。面白いは面白いでいいじゃない。どうして、そんな小理屈をこねて、利口ぶる必要があるの」という反発は、ごく常識的な「俗情」だ。

どうして、こうした「反発」が返って来やすいのかと言えば、それは「哲学者ぶろう」として、無意味に難解な言葉を弄するだけの「哲学できない人」が少なくなく、おのずとそうした人は目に立つので、「哲学」に興味のない人、あるいは「哲学」ができないが故に「哲学コンプレックスを抱えている人」は、「哲学」を、そういう「無意味に難解な言葉を弄するだけ」の行為だと、敵意を持って誤解しているからである。

しかし、その結果は、多くの人は「言葉を吟味する」ということをしなくなってしまった。
「字づらの意味」だけで十分だ、と考えるようになり、さらには「字づらの意味」すら必要なく、ただ、形式的な記号の交換としての「コミュニケーション」さえ取っていればそれでいい、ということになってしまっている。
「言葉」に「意味」を必要としなくなっている人たちによる、「内容のないコミュニケーション」が行われ、むしろ「内容のないコミュニケーション」だからこそ「楽だし、安心だ」などと考えられてしまう事態に、すでに立ち至ってしまっているのだ。

言うまでもなく、これは極めて危険な兆候である。
だからこそ本書著者は『いつもの言葉を哲学する』必要を認め、それを実践して見せたのが、本書なのだと言えよう。

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本書第二章「規格化とお約束に抗して」の第5節「「批判」なき社会で起こる「炎上」」の、「「炎上」という言葉ですべてを塗りつぶす前に」という見出しのところで、著者は次のように論じている。

『 同調と攻撃の間の中間領域が確保されにくく、「批判」という言葉が本来含んでいた「内容の吟味」、「物事に対する批評や判断」、「良し悪しや可否をめぐる議論と評価」といったものがおろそかになりがちな現状は、「炎上」という言葉の現在の用法にも通じているように思われる。
「炎上」はいま、各種のメディアで発信された誰か(特に有名人や公人)の言動に対して、ネット上で非難や誹謗中傷が殺到することを指す言葉ともなっている。問題は、当該の言動が筋の通ったものや正当なものであろうとも、逆に、筋の通らないものや不当なものであろうとも、どれも等し並みに「炎上」と呼ばれる、ということだ。ある差別を告発する勇気ある発言をターゲットに、差別主義者たちが罵詈雑言を集中させることも「炎上」と呼ばれるし、とても看過できないひどい差別発言に対して、その問題を指摘する真っ当な声が多く寄せられることも、同様に「炎上」と呼ばれる。そして、何であれ炎上してフォロワーが増えて良かった、チャンネルの登録者数やオンラインサロンの会員が増えて良かった、ということも平然と言われたりする。そこでは、火の手の大きさや、それに伴う熱量の多さが、物事の真偽や正否や善悪にとって代わってしまっている。
 マスメディアで頻繁に用いられている「賛否の声が上がっている」という類いの常套句も、問題になっている事柄の内容をさしあたり度外視して、熱量の上昇のみに言及できる便利な言葉だ。どちらかの道理に明らかに分がある場合にも、また、賛否どちらかの声の方が圧倒的に優勢である場合にも、「賛否の声が……」と表現しておけば、旗色を鮮明にせずに済むし、自分の言葉に責任をもつ必要もなくなる、というわけだ。
「炎上している」とか「賛否の声が上がっている」といった言葉によって物事をひとまとめにしてしまうのではなく、具体的な内容を「批判」する行為が、メディアでもそれ以外の場でも、もっと広範になされる必要がある。そして繰り返すならば、それは必ずしも否定的な行為だとは限らない。賛意を示すのであれ、あるいは難点を指摘するのであれ、人々がともに問題を整理し、吟味し理解を深め合っている場こそ、本来の意味で「批判」が行われている、建設的な議論の場なのである。』(P130〜137)

例えば、先日来、再々採り上げている「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」による炎上事件も、この類いの話だと言えるだろう。

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この問題を採り上げた、上の記事「豊崎由美の〈正直さ〉を断然支持する。:飯田一史の「俗情との結託」をメッタ斬り!」にも書いたとおり、たしかに豊崎由美の「言いっ放し」的な批判にも問題はあるけれど、それに対してなされた「有象無象による批判」というのは、まさに「読めない読者」たちによる「字づらの批判」でしかない。
そして、これは何も「無名の有象無象」たちだけの話ではなくて、例えば、ミステリ作家の綾辻行人は、

『小説を読んだ。面白かった。それをみんなに伝えたい。TikTokで紹介した。興味を持って多くの若い人が読んでくれた。……出版界の損得の問題とは別に、これってとても素敵なことだと思うのですね。(2021-12-11 19:01:22)』

『若いころに読んで面白かった本は一生、心に残るものです。大人になってたくさんの本を読んで「物知り」になってからの読書とは、まるで鮮度が違う貴重な体験でしょ。そのきっかけが、同じ若い読者の視線で語られたTikTokの動画であることの、どこがいけないのかしら。……などと。(2021-12-11 19:08:19)』

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まさしく「などと」いう、いかにも「何も考えていないポピュリスト」らしいツイートをしている。
『大人になってたくさんの本を読んで「物知り」になっ』たおかげで「より深い読書の喜びを知った人」にコンプレックスでもあるらしい「子供のまま=非・幼形成熟」の綾辻は、豊崎の「文学の今」をめぐる危機意識が、まったく理解できないのだ。

これは、綾辻行人という小説家自身が、単純に「読めない読者」の一人である、ということに他ならない。
つまり、綾辻としては「面白いものを面白いと言って、何が悪いの?」ということなのだが、この人は「面白いとは、どういうことなのか?」「面白い作品とは、どういうものなのか?」といったことを、ろくに「考えたことがない」のである。

綾辻行人が「面白い」と思う作品を「つまらない」と思う読者もいるし、逆に綾辻行人が読もうともしない本を読んで、豊崎由美が「面白い」という場合なども当然想定され、そのような場合の「意味」も、当然吟味されてしかるべきなのだが、「向こう三軒両隣」に視野の限定された綾辻は、おのずと「面白いものは面白いでしょ」止まりなのである。
そして「売れっ子作家には、そうした自己中心的に呑気な横着さが許される」と、無自覚にも、そう思い込んでいるのだ。だから、適切に「他者」を想定できないのである(例えば、裕福なオリンピック参加選手が、オリンピック開催でコロナ死する人のことを気にしないのと同じである)

私が別の記事で書いたとおり、「子供舌」でもわかるような「駄菓子のようなエンタメ小説」もあるけれども、「子供舌」では味わいきれない「繊細高度な小説」も、事実として存在するのであり、そうしたものの存在は、「流行りのTikTok」によって、にわかに注目され「理解」されるような、そんな「お易いもの」ではない(たとえば、筒井康隆の『残像に口紅を』は、にわかに売れたが、「理解」されたわけではない)。
だが、それが、綾辻行人という(昔で言う「勝ち組」の)「通俗小説家」には、まるっきり分からないのである。「売れる→理解された→正しい」という「幅のない一直線思考」なのだ。

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他に、この件で豊崎由美を批判した作家に、綾辻行人が、その近作『硝子の塔の殺人』に推薦文を寄せた、ミステリ作家の知念実希人もいて、

『批評には最大限の敬意を払います。
しかし、読書の楽しさを試行錯誤しながら、無償で若い世代に伝えて下さっていた若者に対し、
いきなりプロの書評家が、彼が一生懸命語ってきた小説への愛を『杜撰』と切り捨て、心を傷つけて活動停止に追い込んだことを理解できるわけがありません。(午後0:32 · 2021年12月12日)』

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「などと」ツイートしているが、この『医師家系四代目』の「人気作家」は『芥川賞を受賞した台湾の作家・李琴峰に対し、医師でミステリ作家の知念実希人が差別的発言をして謝罪するという事件が9月初旬に起こった。知念の謝罪を李が受け入れて和解が成立』したとかの件で、話題になったばかりの、ネトウヨ「ミステリ作家」である。

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(知念実希人の「涙する」小説紹介。TikTokではない)

下手をすれば作家生命にも関わる大騒ぎになったから、やむなく謝罪したも同然の(人権派弁護士の懲戒要求を日弁連に大量送付し、逆に提訴された途端に謝罪したネトウヨを想起させる)知念が、綾辻行人と同様に、けんごなどのTikTokerに褒めてもらう側の「エンタメ作家」として、豊崎由美をこのように批判したというのは、いかにも「読めない読者=物を考えていない人」らしくて、納得しやすいところだろう。

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知念の場合、よくもまあ、自分のことを棚に上げて言えたものだと思うが、こういう「読めない読者」には、豊崎が「何を危惧し、何を批判したかったのか」なんてことを読む取る能力などカケラもないし、そういう人でも「エンタメ・ミステリ」なら、純粋に「技巧」の問題として書ける、ということなのであろう(要は、今どきのミステリは「売れてなんぼ」「ウケてなんぼ」なのだ。ミステリ作家には社会的責任なんて、あんまり無い、のであろう)。

ともあれ「売れっ子の、プロの小説家」にしてこれなのだから、その読者が、こうした「エンタメ小説家の小説」だけを読んで、加齢とともに「読める読者」になる、なんてことは、論理的にあり得ない。
それどころか「甘い駄菓子」ばかり食べていた読者は、虫歯で歯がボロボロになって、「咀嚼能力」すら失ってしまうのである。

そしてその結果が、先日書いた「一億総〈ぴえん〉化した日本」における、それに見合った読書界、ということになろう。

もう、この日本では、「読める読者」は絶滅危惧種であり、「読める読者」を育むことのできる「歯ごたえのある小説(文学)」に陽のあたる機会など、ほとんどない。だからこそ、豊崎由美のような書評家でも「焦った」のである。

しかしながら、ナチス政権下のドイツで「ヒトラーなんか賛嘆しているやつは馬鹿だ!」なんて、本当のことを言ってしまっては、袋叩きになるのは当然で、それこそ知念実希人ではないが「職業ライター生命の危機」とならざるを得ない。
また、だからこそ豊崎の方も、心にもない、形式的な「謝罪めいたこと」をツイートしたのであろうが、これが今の日本の「エンタメ読書界」の現実なのだ。

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いつも引用するシオドア・スタージョンの『SFの90パーセントはクズである。──ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』ではないが、小説読者の90パーセントは「読めない読者」であり、「小説出版の世界で食っている人」など、所詮は「読めない読者」に食わせてもらっているも同然なのだから、その「頭の悪い人々」に「あなたは頭が悪い」なんて「頭の悪い」ことを言うのではなく、(大森望のように)適当に煽てながら、本音を読まれないようにしつつ、読者を「教導」していくしかないのである。それが嫌なら、「馬鹿」に食わせてもらうような仕事などしないことだ。

事ほど左様に、「読める読者」は、この「終わっている世界」と、どう付き合っていくかを考えなくてはならない。
綾辻行人や知念実希人のように、「読めない読者」であり、かつ「成功者」は、何も考えなくても生きていけるだろうが、「読める読者」は「駄作を駄作」「駄菓子を駄菓子」「馬鹿を馬鹿」「醜いものは醜い」と、嫌でも読み分けてしまうのだから、その現実と否応なく格闘しなければならない。

無論、ナチスに加担した多くのドイツ国民のように、造作もなく大勢に順応することのできる者は、恥知らずにそうするだろうが、それがみっともない行為だと「読めてしまう読者」の場合は、この「終わっている世界」との距離を測りながら、際どく乗り切っていくしかないのである

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(一人だけ、ヒトラーに敬礼しなかった男)

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『いつもの言葉を哲学する』という場合に、この「いつもの言葉」が、おおかた「ロクでもないもの」にしかなっていない現状(例えば「エンタメ読書界の現状」)に、私たちは生きている。だからこそ、そんな「無内容かつロクでもない言葉」の奔流に、無自覚に巻き込まれて、感染しないように、「哲学する=言葉を吟味する」しかないのであろう。
すでに周囲は、ゾンビに囲まれているとしてもだ。

少なくとも私個人は、金輪際「脳の活動が止まったゾンビ」になど、なりたくない。
だから「哲学」するのである。

『 今日の世のありさまは、ずっと昔、宗教が生まれかけたころのことを思い出させる。現代の社会は面白いほどに原始社会に似ているということじゃよ。たとえば民主主義の政府には同じような権力の集中がある。上部とコネがあると称する君たちの仲間の一部には支配階級にのし上がろうとする者もいるだろうがね。君たちは大昔と同じように、ありふれた名前や、平凡な血統に神秘的なたわごとをくっつけて偉人、傑人をつくり出す。性の問題では君たちの女も大昔同様に尊敬されすぎ、都合のいい神聖の檻の中にとじこめられ、重要な問題は男性の手ににぎられてしまう。君たちは節食やビタミンを崇拝して原始時代の食物のタブーに逆戻りさえしている」
 プロメテウスは、エラリイがガタガタふるえている夜明けの冷気も感じない様子でつづけた。
「しかし、もっとも興味ある類似点は君たちの周囲にたいする反応のしかただ。個人でなく、群衆が思考の単位だ。そして、昨夜の不幸な出来事で実証されたように、群衆の思考力はきわめて低い次元のものだ。君たちは無知でいっぱいだ、無知はひどい恐怖を生む。君たちはほとんどあらゆるものを恐れているが、いちばん恐れているのは現在の問題に直接向いあうことだ。だから、すぐに伝統という高い魔法の壁の中により集まって、指導者たちが神秘を勝手に操作するのを許すことになる。指導者は君たちと未知の恐怖の間に立つわけじゃ。
 しかし、ときには権力の司祭たちが君たちの信頼を裏切ることがある。君たちは突然、未知のものと直接、顔を合わせなければならなくなる。君たちが救済と幸運をもたらしてくれると頼りにしている指導者、生と死の不可思議から君たちをまもってくれる者は、もはや君たちと恐るべき暗黒の間に立っていない。周囲をかこんでいた魔法の壁は崩れ落ち、君たちは奈落のふちに取りのこされて立ちすくむ。 そういう状態にあるときに、ただ一つのヒステリックな声が、ただ一つのおろかなタブーの叫び声が、何万もの人びとを震えあがらせ、逃げ出させたとしても何の不思議があろうか?」』(エラリー・クイーン『九尾の猫』』

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(2022年1月6日)

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