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スタンリー・キューブリック監督 『時計じかけのオレンジ』 : 半世紀前の「暴力とエロス」描写

映画評:スタンリー・キューブリック監督『時計じかけのオレンジ』1972年・アメリカ映画)

アンソニー・バージェスの近未来ディストピアSF小説を原作として、スタンリー・キューブリックが映画化した、1972年の作品。

「名作」の誉高い作品だが、いま見ると、いささか「評判だおれ」。
歴史的な価値は認めるものの、私には「いま見ても、古びることなく素晴らしい作品」だなどとは、歯が浮くから、とうてい言えない。

なにしろ、本作は1972年の作品で、日本では、大阪での最初の万国博覧会が開催され、「こんにちは〜、こんにちは〜、世界の国から〜♪」なんて呑気な歌の流れていた時代の(万博の2年後の)ものであり、今となっては、半世紀も前の作品である。
また、さらに言えば、1968年を頂点とした、世界的な「学生たちの反乱」が敗れ去ったあとの時期の作品だとも言えよう。

当時の大人たちは、「何を考えているのか、理解不能な子供たち」に多大な不安を抱いていたから、本作のような「反社会的な若者の跋扈する未来社会」というビジョンにもリアリティを感じ、そのせいで「衝撃作」だったのかもしれない。

だが、いまこの作品を見て衝撃を受けるようでは、その人は、この半世紀を無駄に生きてきたとしか、私には思えない。
あるいは、むしろ昨今の「優しさとコンプライアンスの時代」しか知らない若者も少なくないせいかも知れない。そういう人は、ひと昔まえの「何でもあり」の時代の作品に接しておらず、おのずと「毒」に対する耐性もできていないからだ。
私のような、昭和の戦後生まれは、「自由を希求した時代」に生き、「非実在系のエロマンガ」などにも接してきたから、いまさらこの程度で驚けと言われても驚けない。
もとより今なら、ネットでたいがいのものが見られるはずなのに、どうしてこのくらいで驚けよう。よっぽどフィルターで守られてきた坊ちゃん嬢ちゃんが増えたということなのだろうか?

本作が公開当時に、社会的に最も批判され忌避された「暴力性」を体現するシーンとは、物語前半で、主人公のアレックスを含む不良少年グループ「ドルーク」が、路端に寝転がって大声で歌を歌っていた酔っ払い老人を襲撃するシーンや、金持ちの作家の家に押し入り、ジーン・ケリーの爽やかな歌とダンスで知られる同名映画の名曲「雨に唄えば」を歌い踊りながら、作家に暴行を加え、その妻を強姦するといった、露悪的なまでに「善性冒涜」的なシーンである。

(麻薬入りミルクを飲ませるミルクバーにたむろする不良グループ「ドルーク」の4人の初登場シーン)
(酔っ払いの老人を、遊び半分に襲撃するシーン)
(名曲「雨に唄えば」を歌い踊りながら、倒れた作家に蹴りを入れるアレックス。仲間の方に担がれているのが、作家の妻)

たしかに、現実ならば「ひどい」とは思うけれども、しかし私と同世代の日本人なら、前者のような、「老人」あるいは「路上生活者の老人」らへの襲撃事件なら、この映画からはずっと後でも、今からならずっと前に、日本でも現に多数発生して社会問題になったことを知っているはずだ。
さすがに後者のような凶悪事件はそうそうはなかったものの、警察官であった私は、「笑いながら弱者をいたぶって喜ぶ」ような不良少年が、少なからず現に存在したことも知っているから、それを映画で見せられても、特に驚きはしない。「この程度のこと」は、わざわざ「未来」世界を設定せずとも「いくらでも現実にあるよな」としか思えなかったのである。

無論、この映画が公開された当時は、まだイギリスでも日本でも、そうした事件が世間を騒がせることは、ないに等しかったのかもしれない。
しかしそれは、実際のところ、単に話題に上らなかっただけであろう。凶悪な少年犯罪が、この映画が公開されるまでは「無かった」ということではなく、「表沙汰にならなかった」とか、ネット社会の今とは違って、「新聞報道」や「テレビ報道」だけでは、それほどの大きな騒ぎにはならなかった、ということである。

実際イギリスでは、この映画が公開されたあと、同種の少年犯罪がいくつか発生し、「映画の影響だ」とマスコミが騒ぎ立てて社会問題化したわけだが、言い換えれば、この映画が公開されていなければ、そうした犯罪は、話題にも上らなかっただろう、ということなのだ。なにしろ、それだけでは「たまにある、少年による凶悪犯罪」に過ぎなくて、話題性がないからだ。
あくまでも映画と結びつけたから、話題性のあるニュースにすることができただけ、の話だったのである。

それに、よく言われることだが、先進国においては、特に日本などでは、「凶悪犯罪」数というのは「減少」の一途を辿っている。それが現実なのだ。
ところが、事件や社会問題を「面白おかしく伝える(派手に騒ぎ立てる)」、テレビのニュースバラエティ番組が増え、昨今では、それに加えてネットニュースなどで、いやと言うほど多くの情報が手元まで届けられるため、「事件は減っても、情報は増えた」せいで、主観的には「危機感」や「不安感」が否応なく煽られ、亢進させられた結果、「体感治安」という名の「イメージ」だけが、怪物のように膨らんでしまっているのである。

例えば今や、小さな子供の親は、子供をひとりで外に遊びに行かせることも「怖くて」できない。
昔なら、学校から帰った子供は、玄関先にランドセルを放り捨てて、そのまま友達の待つ場所へと駆け出していって、陽の暮れるまで遊び呆けたものだし、専業主婦の母親は、そんな子供に対し「変な人についてっちゃダメよ」「夕飯までに帰ってくるのよ」と言うだけで、外で遊ぶ子供が実際に危険な目に遭うことなど、ほとんど想像もしなかった。
また、子供たちの方も、公園や空き地などで遊んでいて、今でいう「不審者」などよりも、よっぽど露骨におかしい「変なおじさん」を見かけたら、「変なおじさんだ!」とか言って、石でも投げつけかねないくらいの元気があった。
だが、今では、私がここで書いたようなことをしたら、親も子も、世間様からのお叱りを受けることになるだろう。

先日見た映画『ジョゼと虎と魚たち』犬童一心監督・2003年)では、遊んでいる女児に対して「おっぱい揉んだろかー?」などと言う、近所に住む、ちょっと頭の足らなさそうな「変なおじさん」に対し、女の子たちは(関西が舞台の作品なので)堂々と「変態や!」「変態のおっさんや!」と反撃していたものである。一一ひと昔まえまでは、そんな感じだったのだ。

だから、本作前半の不良少年たちによる犯罪行為も、私の場合だと「このくらいのことをやっている奴は、現にいくらでもいるよ」という感じでしかなく、「衝撃」を受けるなどという「子供のようにナイーブな感想」を持つことは、到底できない。そんなナイーブな大人は、引きこもらないと生きていけないのではないかと、そう心配になってしまうほどである。
実際、そういうナイーブな若者が、社会人になって就職すると「思ってたのと違う(話が違う)」と言って、早々に会社に辞表を出したりするのではないか。会社を、自己実現の場所だなどと、ナイーブにも信じていたから、そうなるのであろう。

ともあれ、そんなわけで、本作を「バイオレンス」とか「エロス」といった表現的な側面において「衝撃作」だなどと評する人は、半世紀も昔の時代に生きている人か、さもなければ、建前の綺麗事を鵜呑みにさせられて育った世代だとしか思えない。

たしかに半世紀前には、本作はそんな「衝撃作」だったのだろう。
だが、江戸時代の「枕絵」に描かれた「巨根」を見て、素直に興奮できる現代人は、そう多くないだろう。浮世絵として誇張された人物画に、今の私たちは「リアル」を感じられないからで、それが当然なのだ。
つまり、昔の「バイオレンス描写」では、今では、驚けなくて当然なのだ。時代によって、物の見方も変われば、人間は経験を積むことで、それなりに「図太く」もなるものなのである。

(本作は予算削減のため、セットは最低限とされ、ロケ中心の撮影となった。この近未来的な街も、ロンドンのテムズミード。ブラジリアと同様、建築当時の先進的すぎるデザインが、結果としてレトロフーチャーになった街である)

また逆に「世間の汚い現実」を十分に知らされずに育った「純粋(建前)培養」世代なら、本作をいま見ても、公開当時の人たちと同様の「衝撃」を受けられるのかも知れない。だが、そういう「ナイーブさ」の方が、じつはちょっと「おかしい」のだ。
つまり、大人になるまでには、この世には暴力や理不尽がいくらでも存在しているということを、「ある程度は」知っておいて然るべきなのである。
それらが「好しからざるもの」だとしても、現に存在しているという事実は変わらないのだから、いずれそれへの対応も必要となるからである。言うまでもなく、「好ましくない」ということと「存在しない」ということとは、同じではないのだ。
だが、その区別がつかないまま大人になった若者も増えているのではないか。だからこそ、半世紀も前の映画に描かれた「剥き出しの暴力」に、いまさら驚いたりするのではないのか?

あるいは、「衝撃作」だと聞かされれば、そう思い込み、自分もそう感じたと思ってしまうような、デクのボーが増えているということなのだろうか?

一一では、私が以上のように評価する本作とは、いったいどんな映画なのかというと、それは、全方位的な「皮肉冷笑」を込めた「ブラックユーモアコメディということになる。

これは「モンティ・パイソン」などにも見られる、現代イギリスの伝統でもあろう。まさに本作は、「モンティ・パイソン」に少し遅れて登場した、同時代の作品なのだ。

ともあれ本作は、「暴力」や「エロス」を肯定しているのではなく、それに耽溺している「阿呆」も、それを倫理的な紋切り型で否定できると思っている「阿呆」も、どっちも嘲笑い笑い飛ばしているような作品なのだ。そしてその意味で、本作は「両義的」なのである。
だからこそ、「誤解されやすい」作品なのでもあろう。

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本作の「あらすじ」は、「Wikipedia」に、結末まで詳しく紹介されているとおりなのだが、ここではできるかぎり簡単に紹介したい。

(1)頭は良いのだが悪逆非道の不良少年アレックスは、仲間と共にやりたい放題の愉快犯的な凶悪犯罪を重ねるが、ついに捕まって刑務所送りになる。
(2)少しでも早く出所したいアレックスは、刑務所の中では猫を被っていたが、そんな折「ルドヴィコ療法」なる「精神矯正治療」が実験的に行われており、その治療を受けた者は刑期の減免を受けて、外に出られるという噂を耳にする。
そして、ちょうどそのタイミングで、反対意見も多いその治療法の実験台になる者を物色しに、「ルドヴィコ療法」推進派の現職大臣が刑務所を訪れたので、アレックスはそれに志願して、めでたく刑務所から病院へと移される。
(3)「ルドヴィコ療法」とは、簡単に言えば、拘束衣を着せられた上に、瞼を閉じられないようにする器具をつけられて、嫌というほど「暴力とエロス」の下劣な映像を見せられ、そうしたものを忌避する「条件反射」を刷り込まれるという、一種の「強制洗脳」である。

(「ルドヴィコ療法」を受けるアレックス。麻酔の点眼薬を落とした後、目の手術の際に使う、瞼の拘束具を使って撮影したとのことである)

(4)アレックスは、この治療によって、暴力とエロスに近づけない人間に改造された。それをしようとか求めたりすると、嘔吐感を伴う強烈な苦痛が惹起されるのだ。
しかし、すっかりおとなしくなり、自由の身になったアレックスを外で待っていたのは、すでに彼のことを見捨てていたと思しき両親や、かつて手足のようの使っていた子分たちによる嫌がらせであった。
(5)なすすべもなく、ボロボロになったアレックスは、雨の中をずぶ濡れになってさまよい、一軒の見覚えのある家に助けを求め、幸いにもその家に迎え入れられる。ところがそこは、かつて押し込み強盗に入り、そこの主婦を強姦した、作家の家だった。

(アレックスらが襲撃した際の作家)
(アレックスが助けを求めて二度目に訪れた際の作家。まったく同じアングルで撮影されているが、前回アレックスらによって破壊されたタイプライターは、色違いのものに変わっており、このアングルからは見えないが、下の作家は車椅子に腰掛けている)

作家はすぐにアレックスのことを思い出した。作家は、アレックスの暴行により下半身不随の身となり、彼の妻は強姦被害を苦に自殺したと、アレックスに告げる。憎しみのこもった言葉に、返す言葉もないアレックスだったが、しかし作家は、彼は役にたつ存在だから「助けよう」と言う。どういうことかというと、作家は、「ルドヴィコ療法」や「不良を警官に雇う」といった政策を推し進めた、保守的かつ全体主義的な傾向を持つ現政権に反対する政治的立場の人だったからで、「ルドヴィコ療法」により「生きる力を失ったアレックス」の惨状を宣伝することで、現政権にダメージを与えようと考えたのだ。
だがそんな作家も、アレックスが彼に気を許し、つい入浴しながら「雨に唄えば」を歌っているのを聞いて、抑えきれない憎しみがぶり返した結果、アレックスを2階の一室に閉じ込め、「ルドヴィコ療法」の条件反射のせいで彼が苦しむことを知っている「ベートーベンの第九」を聴かせて、痛めつける。そして、ついにアレックスは、2階部屋の窓から投身自殺を試みてしまう。

(アレックスが浴室で「雨に唄えば」を歌うのを、浴室の外で聞いて、抑え難い怒りにうち震える作家の表情。滑稽なまでに誇張された演技をしており、作家に対する同情は、まったく表現されていない)

(6)だが、大怪我を負いはしたものの、アレックスは死ななかった。そのうえ彼は、彼に「ルドヴィコ療法」を課した大臣に救い出され、今度は大臣の方から協力を求められる。アレックスのことで世間から囂々たる批判を受けた大臣は、保身のための方向転換をし、アレックスにも「洗脳はずし」の治療を施した上で、彼と手を組むことにしたのである。
(7)そして本作は、すっかり「悪童」の表情を取り戻したアレックスが、取材に来た新聞記者たちの浴びせるフラッシュの前で、大臣とがっしりと肩を組んで、すっかりヒーロー気取りのいい気分になった、その表情で幕を閉じる。

(大臣が見舞いに来て、アレックスに「仲間になろう」と誘う。大臣と手を組むことになったアレックスは、自身の優位を確信して、生意気にも大臣に食事の手伝いを要求し、大臣はそれにニコニコと応じる)

以上のように、本作は、「不良少年アレックス」を肯定してもいなければ、積極的に否定してもいない。また、彼を利用しようとする「保守派とリベラル派」の双方に「悪意を持った描写」を行なっている。
つまり、基本的には、どいつもこいつも「ろくなもんじゃない」というスタンスの作品であり、唯一の主張と言えるのは、「倫理は強制されてはならない」ということくらいだろう。

しかし、これも言い換えるならば、自覚的な「反社会性の選択」は止むを得ないことだが、そのかわり、社会の方も、そうした反社会的なものに「容赦はしない」だろう、といった、いささか「無責任な立場」であり、要は、「社会に対する責任」を引き受ける気のない、個人主義的な自由主義の立場だと言えるだろう。だから、作り手側の「理想(的な社会像)」は、どこにも語られてはいないのだ。

「Wikipedia」では、

『暴力やセックスなど、欲望の限りを尽くす荒廃した自由放任と、管理された全体主義社会とのジレンマを描いた、サタイア(風刺)的作品。近未来を舞台設定にしているが、あくまでも普遍的な社会をモチーフにしており、映像化作品ではキューブリックの大胆さと繊細さによって、人間の持つ非人間性を悪の舞踊劇ともいうべき作品に昇華させている。』

と評されているが、前半の原作小説への評価は別にして、映画版に対するものとしては、これは「好意的な過大評価」でしかないと、私は考える。
この評価では、本作の「冷笑性」が、意図的に看過されているからだ。

そんなわけで、本作が「批判」されるのは、むしろ当然なのだ。
本作は、単純に「暴力」や「反社会性」を肯定しているわけではないけれども、それを力(権力)でねじ伏せるようなやり方(懲役刑は無論、ロボトミー手術などによる、犯罪者の無害化など)には反対しているわけで、では「どうすれば良いと言うのか」という当然の「反問」には、まったく答える気がない様子だからである。要は、「言いぱなしで何が悪い」という態度の作品なのだ。

まあしかし、それならそれでかまわない。その「全方向的(純粋)批判」を貫けるのであれば、それはそれで立派なことなのだが、実際には、バージェスの原作小説は、アレックスが「自分から進んで改悛する」という「ごく良識的」な最終章がついているし、そこをわざわざ削って、アレックスがアレックスに戻り、ニンマリと笑ったところで終わらせてしまう、キューブリックによる、ことさらに挑発的なこの「映画版」は、キューブリック自身が「殺害予告」を受けたことによって、少なくとも彼が家族と共に住むイギリスでは、キューブリックが死ぬまで封印されてしまうのである。
つまり、こんな「挑発的な作品」を作ったキューブリックであったが、自分自身が、作品の中の「作家」のような目に遭わされる覚悟などは毛頭なく、当たり前に警察権力による保護を求めるという、作品責任を取らない「逃げ」をうったのだ。

スタンリー・ドーネン監督『雨に唄えば』より。このシーンの踊りを、アレックスはふざけて真似る)

まあ、世の中そんなものだと言ってしまえば、それまでなのだが、本作はそんな「覚悟のない人間が、当然の見通しも持たないままに作った、能天気に過激な作品だった」ということである。
「この映画の影響をうける馬鹿な若者も出てくるかもしれないが、そんなことまで心配してたら、映画など撮れない」とでも思っていたキューブリックも、現実にその刃が自分に向いてきた時に初めて、作家だって「社会的現実」からは自由ではあり得ないということを知り、それでも作家的良心を貫くほどの覚悟は持っていなかった、単なる「映画バカ」だったのである。

そんなわけで、社会もこの作品が示した方向性に沿って、いったんは「過激化」したけれども、結局は、キューブリックと同様に「保身」に走って、ちょっと不自由でも「安全安心なやさしい世界」を目指すようになったのであろう。なにしろ、キューブリック自身が「それで良い(しかたない)」と、態度をもって示したのだから。

なお、本作は、前作の『2001年宇宙の旅』に比べると、その「映像美」において、いささか徹底性に欠けると思ったら、やはり、『2001年』での予算の大幅オーバーで、プロデューサーが映画会社を引責辞任するといったことがあったため、本作では「低予算でも撮れる」というところを見せるために、あえて低予算で撮った、そんな作品であったようだ。
無論、「それでも、キューブリックの映像的天才性が光るカットがある」とは言っても、全体としては、やはりチープ感は否めず、「映像美」的には、『2001年』から明らかに後退した作品となっている。

ただし、本作が、その「話題性」によって世界的な大ヒット作になったことで、キューブリックはその作家的地位を確かなものとして、以降は、さほど予算の心配をしなくても良い「巨匠」となった。

しかしまた、それで『2001年宇宙の旅』を超えるような作品を撮ったのかといえば、撮れなかったというのが、私の評価だ。
いうまでもないことだが、「予算があれば、良い映画が撮れる」というものではなく、しばしば「巨匠」と呼ばれるようになった時点での「作家」は、すでにその「最盛期」を過ぎているものなのである。本人に、その自覚はないものなのだけれども。

ちなみに、本作の魅力の半分は、確実に、主演のマルコム・マクダウェルの好演にあったということは、是非とも書き添えておきたい。
本作を、文句なしの「傑作」とは呼ばない私でも、彼の好演には賛辞を惜しむつもりはないのである。



(2024年5月4日)

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