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私の感情を共通言語で表された〈病む〉なんてもので描写されていいはずがないのだ

2020/04/15 メモ 思ったことの羅列です。(ちょっと今日はクレンジング作業したのでひと段落がいつもより長めです。どうせ省いたものもいつかだすけど~)

そもそも私の感情を共通言語で表された〈病む〉なんてもので描写されていいはずがないのだ

表現したいものがある人はその手段って自分ができるものなんなら何でもいいんだと思う。だから又吉も、お笑いもやるしトークもやるし文字も書く。川上未映子もそう。音符も文字も紡ぐ。

結局信じられるのは自分だけだなというところに回帰してしまう。くそおとこにくそな態度取られて一人のほうがいいわと思っても大してダメージないけど、仲いい友人といて私との時間を楽しんでくれているにも関わらず、あー一人でいたほうがいいと思ってしまったときの自己嫌悪。もう最悪な奴じゃん。まぁ、この人は、、って思っても、ブレーキかけちゃうんだろうな、結局傷つきたくないから。だから、信頼関係を築くところまでいかない。はやく、どっかに見切り発車でもいいからとびこまないと。一生とびこめないからだになってしまいそう。

続けるときには前を見るより積み重ねて来た後ろをみたほうがやる気が湧くし、反対にやめるときはまだ見ぬ明るいかもしれない未来を見たほうが断然いい。

子孫繁栄が動物の疑いようのない根源的な欲望なのであれば、それに反する反出生主義は、やっぱり一個人の中にとどめておくことしか無理なのかな。そういった思想を持つ人々の存在が、メディアや本などを通して、苦しんでいる当人のもとへと届き、少し生きるのが楽になる、そんな動きしかできないのだとおもう。社会に対してはそういった見方もあるんだよくらいの提示でいいのだと思う。〈子〉という他人を巻き込んでいても。

論理的に考えることの正当性について議論するには論理的にしか結論を導けないのかな。どうやって解をみちびきだすんだろう。

文字書いてるときは自分の頭を動かしつつスクリーンを見るだけでいいから世界と絶交できる。紙媒体の本を読んで文字を書いている時だけが邪念や世界の通知がすべて取り払われて自分の世界に入ることができる瞬間。

結局何が思考停止なんだろう。合点がいくってどういうことなんだろう。わかるとは?

一人の時間が孤独を埋めてくれる。私にとって孤独を癒してくれるのは誰かといる時間よりも自分と向き合う時間だなと心底から感じたなり。親密で健全な関係を誰か一人と結ぶか、忘れられるくらいになにかに没頭するか。独りで後者もいいけど前者も経験してみたいな。

反出生主義こじらせて親という種族に対する漠然とした嫌悪感から、心の底から母親を頼れなくなったところから、自分の心の不安定さが増した気がするけど、でもしかにあれは安心できた依存だったのかも。なんか当たり前すぎて心の支えになってることにすら気づかないくらいが安心した依存常態と呼ぶのかも。

いつか君も親になればわかる。というフレーズ。なにあれ。なめてんの?そういうとこだよ、親という種の疑いようもない煮詰めたような傲慢さは。年を取ればわかるだったらまだいいよ?

私なんぞにご支援いただける方がこの地球上におりましたら、もう控えめに言ってあげみざわエクスプローションします。