労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈10〉

 たしかに労働者は、自らの唯一所有する労働力という商品を売らなければ、その生存をすら維持していくことができない宿命にある。
 とはいえ一方で労働者は、あくまでも「自分の労働力は自分に『所属している』商品つまり自分が『所有している』物だとして、それを市場で自由に売却することができる『自由な』労働者」(※1)でもあるのだろう。労働者は自分で商品を生産する自由はないが、自分を商品として売る自由はあるわけだ。また、それが「労働力」であれ「その他の何」であれ、「商品を販売すること」は誰にも強制されないし、誰にも強制できないのである。
 どのような商品であっても、それが「自発的かつ主体的に売られる」というのでなければ、商品は誰にも販売されないし、誰も販売できない。そもそもそのように売られないモノは「商品でさえない」のだ。
 しかし一方で、労働者はたしかに「労働力以外に売るものがないという状況に、強制的に追い込まれている」のだと言える。それは労働者が「自らの労働力を使用するための、自らの生産手段を持たないから」である。それはまた労働者が、「自らの生活手段を自ら生産するための、独自の手段を持たない」ということでもある。ゆえに、自らの生産手段を持たない労働者が、自らの生活手段を生産するためには、「自らの生産手段において人間の生活手段となる商品を生産することができる他人に、自らの労働力を、その生産手段として使用されるために、自ら自発的かつ主体的に商品として売り、その他人に買ってもらわなければならない」ということになる。
 もしも労働者が「労働力を販売することを強制されている」ことになるのだとしたら、実にそのためであるのに他ならない。それは彼が自らの生活手段を自ら生産できないがために、「自らの生活手段を商品として購入することを強制されているため」でもあると言えるわけだ。
 また一方で労働者は、「自らの労働力を、自分自身から客体化して、すなわち自分自身から切り離して売る」ことになる(※2)。「自分に所属する商品として販売する」ということは、その商品すなわち「労働力」が、「すでに自分から客体化されて、あるいはすでに自分から切り離されて見出されている」ということでもある。そもそも「商品」とはそのようにしてでなければ見出されえない。
 そして労働者の労働は、「彼の労働力が買われ、その使用者に使用されることで、はじめて労働として成立するもの」である。つまり労働者の労働は、「そもそもはじめから、労働者から客体化されて、あるいは、労働者から切り離されて成立するところで働いているもの」であり、言い換えれば「彼自身の全人格に内面化しえないところで働いているもの」だと言えるのだ。
 さらに一方で個々の労働者は、それぞれ個々に自らの身体を生産現場へ運び、「自ら進んで」労働をしなければならない。つまり労働者にとって自ら唯一所有し売ることができる商品である労働力は、商品として一般的なものでありながらも、一般的な商品のように「売って終わり」というわけにはいかない特異な商品でもある。
 「労働力という商品」は、実際にそれが使用者に買い取られ、買い取った使用者自身の生産手段として、その使用者が所有する生産機関=装置において、一定の生産力として機能するためには、「労働力商品の売り手である労働力の所有者、すなわち労働者本人」が、彼自身の売った労働力が使用者の生産手段として機能するその現場に、彼自身が実際に出向いて立ち会っていなければならない。つまり彼自身、その労働力が買い手=使用者の生産手段として使用され、また生産力として機能するその現場において「実際に自らの身体をもって労働しなければならない」ということになる。その意味で「労働力という商品」は、その所有者すなわち労働者自身から「けっして切り離せないもの」なのであり、そのような商品を売ることにおいて、当の商品の所有者すなわち労働者は結果として「自分自身を売っている」のだ、というようにも言えるわけである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 ルカーチ「歴史と階級意識」
※2 ルカーチ「歴史と階級意識」

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