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「無知の知」こそが、私とは何か?を知るためのその第一歩である
自分は何も分かっていないことを悟る自分は何もわかっていない。
そのことを受け入れることが大事なのだといえます。
いにしえの賢者ソクラテスは、それを「無知の知」と表現しました。
この私自身、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)についてあたかも分かったふうなところから物申しておりますが、真実を知れば知るほど、自分は何も分かってどいない、ということを悟る次第です。
まったく笑えます。笑
天国であるワンネスを思い出していくために私たちが必ず修得しなければならないもの
全一なる知覚(真の知覚)とは赦しの視点から見た知覚とはどういうものか?
というなら、
それは、知覚しているものすべてを包含して、しかもそれらすべてを等しく同じ幻想として見ている知覚のことを言います。
それを、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、「ヴィジョン」「真の知覚」と呼んだりしています。
そして、すべてを包含しているという意味で、「全一なる知覚」と呼んだりしています。
私たちはワンネスであるならば
私とあなたは別々ではない、自分と他者は別々ではない真理からいえば、私たちは一つ(ワンネス)です。
それは、「私とあなたは別々ではない」「自分と他者は別々ではない」ことを意味します。
それは、真に目覚めた者、悟りを生きている者の知覚の仕方だといえます。
ならば、ある誰かは目覚めていて、誰かは目覚めてはいないということがあり得るでしょうか。
もしそのような知覚をしているとしたならば、それは「私
あなたは自分が正しいことと、幸福であることのどちらを好むだろうか
自我の精神力動について私たちは理解しなければならないこの世界にいる私たちはみんなゴシップが大好きです。
ようするに、他の誰かを裁いたり咎めたりするのが心地いいわけです。
というのも、そうすることで自分はまともで、潔白で、無垢だ、善人だとすることができるからです。
コースの観点から見るとき、誰かを裁いたり咎めたり批判したりしているその自分は、「自分はまともで、正気で、正しくて、優秀で、罪なき
どのような考え方で、どのような実践をしていくのか?について明確に理解していくこと
コースのイエスや聖霊は、この世界を、そして私たちをどのように見ているか?について学ぶ私たちは、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を通して何を学んでいるのか?
というなら、
これまで私たちが知覚している見方とはまったく異なる知覚の仕方があるのだということを学んでいるといえましょう。
というのも、私たちはそのもう一つの見方があるということをすっかり忘れて見失ってしまっているからです。
私たちは自ら忘れてしまったものを思い出すためにコースを学んでいる
他のスピリチュアリティとはまったく真逆の方向にアプローチしていくコースの学びと実践コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えている内容が真に理解されていくとき、コースは他のスピリチュアリティとはまったく真逆の方向にアプローチしていくものだということが分かってきます。
なにせ、コース学習者の私たちがフォーカスしていくものは、従来のスピリチュアリティとはまったく異なるということです。
という
喜びも苦しみもどちらも同じとして見ている視点こそが、真の喜びがあるところ
本当の平安とは、本当の幸せとはときに、
「私は平安です」「私は幸せです」「私はハッピーです」
といったことをSNSで発信しているスピリチュアリストさんやノンデュアリストさんを目にしたりしますが、
それって本当なのだろうか?と思ってしまいます。
それは、本当に平安といえるのでしょうか?
それは、本当に幸せだといえるのでしょうか?
コース(奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいる者にとって、あ
問題があるところの同じ場所に、その解決法もある
問題は一つ、解決法も一つ私たちが現実と捉えているこの世界では、様々な問題が形を変えて現れてきます。
次から次へとまるで問題が尽きることがありません。
私たちはその問題を解決することに日々追われていると言うことができます。
人生の大半がそのことで費やされているとさえ言うことができるでしょう。
私たちはそのようにして常に目の前の世界、目の前の人生と戦っているといえます。
コース(奇跡のコー
ネガティブな感情やネガティブな感覚について
内側で拒絶されたものは外側へ投影される普通、私たちはネガティブな感情やネガティブな感覚というものを嫌っています。
なぜなら、それらは不快な感覚だからです。
いわゆる、ネガティブな感情や感覚というものを嫌なもの、悪いものとして捉えているわけです。
そう、自分の内側にあるネガティブなものを拒絶し、排除しようとするわけですが、
そうするとどうなるか?
というと、内側で拒絶されたものは、外側へ