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花嫁だけれど

 母親が病死してからも、エマは父親と、千葉の南の森のなかに住んでいた。春に開花する蘭を、海の向こうの横浜まで運ぶ仕事を父親がして、彼女はヨガの講師、兼、ヨガモデルで、動画サイトにも上がっていた。
 親子は、この千葉の南からさらに南下した土地にゲストハウスを運営していた。春夏秋冬、その土地で毎年四回開催される祭りにくる客たちをゲストハウスに泊めていた。父親は仕事をやめる歳になったら、そのゲストハウスを改築して、そこで余生をすごすつもりでいる。
 エマは三七歳をすぎようとしている。未婚だった。下心でよってくる男たちに嫌気がさし、男性恐怖症寸前にまでなっていた。東京のスタジオでしたヨガモデルの撮影の帰り、見知らぬ男に尾行され、三叉路で抱きつかれた。大声で助けを求めてすぐそばの民家に飛び込んだ。警察を呼んでもらったが、犯人は見つからなかった。
 夏になるとエマは千葉の南からさらに南下して、自分たちが経営するゲストハウスにみずからも泊まり、海水浴や祭りを楽しんだ。盆には必ず岬に立ち、太平洋の水平線を眺めた。
 エマは《まれびと》という霊を信じていた。その契機は、父親と盆まえに火鉢を磨いているとき、そばに置かれてあったスコップが回転したときに遡る。回転したスコップの先が、カーテンの側へ向き、そちらを見ると、閉めて鍵までかけてあったはずの硝子ドアがあいていた。カーテンの裾がめくれ上がり、亀が入ってきた。
 役所などに連絡して、亀を調べてもらうと、ウミガメの一種だったが、エマの家は海から何キロも離れているし、一本道でもなく、交通状況をかんがえても海から歩いてきたとはかんがえにくかった。近所の家にも尋ねたが、みな心あたりはないとこたえた。亀は南の海へ解放された。
 母親のとは限らないが、何かの霊によるものだとエマはかんがえた。それから《まれびと》というものを読書で知って、それを信じて生きることにした。水平線の上の空の彼方から、毎年まれびとがやってくる。そして帰っていく。くるのも帰るのも見届けるのもエマの決めた行事になった。
 ママ、私もうちょっと頑張るからね。
 エマはことあるたびにそうつぶやく。もうちょっとが何度も何度も引き延ばされながら、彼女は父親と暮らしていた。
 が、
 突然のことだ。縁談がきても断る羽目に陥ることばかりだったエマに、恋人ができた。南のさらに南にあるゲストハウスで出あった同い年の男だった。彼の住んでいるところはエマと同じ街で、二人はすぐに意気投合した。こういうときの非日常は勢いがつくものだ。
 非日常のなか、結婚の話もはじまった。エマは、けれども父親が気がかりだった。その問題を打ちあけると、男は、それなら自分が婿になればいいといった。全然構わないよ、もちろん構わないに決まっている。彼は当然のようにそういった。
 問題は違うところにあった。男はカトリックの生まれ育ちで、それだけは、「神に誓って」譲れないところだった。離婚が認められないところはいいとして、まれびとを信じるエマはカトリックには困惑した。父親のほうは気にならないらしいが。
 カトリックとまれびとは矛盾しないのだろうか。エマはかんがえた。矛盾するとしたら恋人である二人の関係も矛盾するかのように思われた。自分が絶対だと信じることが他人にとっては絶対ではなくどうでもいいことになる。そんなことがある。かんがえているうちに、相手の男も自分にとって絶対ではないように思えてきた。
 そうなるとエマの恋が醒めていくのは早かった。非日常は醒めても日常は醒めない。というか、もともと醒めているのが日常というもので、彼女は子育てを理由にした日常的な結婚の決意を固めるに至った。朝、食卓で、父親にそのことを話した。
 金目あてで結婚するのか。父親がいった。
 どうしてよ、生まれてくる子供のためよ。
 ほら、やっぱり。父親が苦笑した。
 そうやって朝から機嫌わるくさせたいの? 
 別にいいんだよ、でもいってたじゃないか、恋愛結婚がいいって。
 じゃあ聴くけど、パパはママが死ぬまで恋愛してた?
 してたよ、人生のパートナーとかいうものだけじゃなくてね。
 知らなかった! ……どんな人と? 
 自分の妻とだよ、あたりまえじゃないか。
 めずらしい、気づかなかったほどめずらしいわ。 
 めずらしいものはなかなか見つかるものではなく、だからめずらしいのだが、エマはその点、結婚前提の恋人作りに血眼になるのは疲れ切ったと、この朝のたったいま、思った。まずは日常的な結婚、それから恋へ、彼女は朝食を済ましながらそのようにかんがえた。
 今日も駅まえのヨガスタジオへ出勤した。花のついた蘭をスタジオにたくさん運び込んだ。生徒さんのうちの数人にも手伝ってもらって、スタジオ内の景観にも撮影のときのカメラ写りにも気を配り、花の配置に時間をかけた。
 機能性のみが重視されていた空間が華やいでいく。もしあまったら、この花のあまりを男に送ろう、エマはそうかんがえた。とはいえ、もしあまったらだけれど。


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