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夢は和太鼓のプロでした

僕は10代の頃、ずっと世界一になりたかった。



高校生の頃はマジックをやっていて、
世界大会fismで1位を獲ることを夢見ていた。

しかしいかんせん頭も実力も続ける才能もなく
マジックもマジシャンも嫌いだった為に
その道はなくなる。



僕は甲子園にずっと憧れがあった。
あんなふうに仲間と、
1つの目標に向かって夢中になりたい。

命を燃やして目指せるものは
ないものかとずっと探していた。




次に役者を目指した。
芝居は全ての舞台に通じるものがあるから。

舞台人として絶対経験しなきゃいけないジャンルだと思ったし、その読みは正しくて、
客演した劇団で「役に入る」ということの大切さを
痛いほど感じ、吸収することができた。



みんなでひとつのものを作り上げていくのはとても楽しかったけど

僕は舞台の上で役を演じたいわけではなく、
僕自身を見せたいのだと思ったときから
役者も選択肢から消えた。

役者で世界は獲れない。

そう思ったのが19歳の夏。

人間関係が嫌で、イタリアンのホールをバックれて
初めて1か月無職になり、貯金がなくなっていく中

自分がこれから歩く道に悩んで
とても苦しかったことを覚えている。









引きこもって昼夜逆転した早朝に
鼓童を見つけたときは、
雷に打たれるような衝撃があった。

鼓童は名実共に日本一の和太鼓のプロ集団である。


和太鼓という芸能の分野で、そもそも
僕らは70億分の1億の才能を持っている。

そこで日本一なら、つまりそれは世界一だ。





鼓童のメンバーになる為に、
最初は2年間の研修を受ける。


新潟の佐渡ヶ島で研修生20人弱の共同生活。

毎日朝5時から10キロのランニングをし、
田んぼや畑で自給自足して、もちろん自炊もする。

2年間スマホもパソコンも使えずテレビもなく、
ひたすらに和太鼓・篠笛・踊り・長唄の稽古。

そして最後にメンバーになる為の試験を受ける。



和太鼓の上手さがなくても一芸に秀でていればいい。
未経験でもメンバーになった人もいる。

ドラムや吹奏楽でパーカスを少しかじった程度の
僕でも可能性はあるのだ。


 

この時代に、こんなにも純粋に
打ち込める環境があるのか、と感動した。

ずっと孤独でいた僕も、ついに強制的に人と深く
関わることができる。やっと、人間になれる。


舞台の上では僕そのものを見せることができるし、
元々の性質として、幼少期からリズムやノリ、グルーヴといったものに目がない裏博小僧であった。

しかもそこに日本人の血が活きてくる。

そして何より舞台で熱くなれる。
和太鼓は心を大きく動かすことができる芸能だ。



ここに人生を使いたいと思った。





そこからの行動は早かった。

まずその日に生まれて初めて10キロを走ってみる。

本当にモヤシだったので、
筋肉がつく仕事をしようと思い
パワーワーク系の求人を探す。

(にしてもパワーワークの頂点みたいな仕事についたのは偶然だった。
何が軽作業で誰でもできます!だ)↓




半年が経ち、試験を受けに佐渡に渡った。

研修所に入るにも試験があって、
受かるのは例年8人ほど。

そのうちメンバーになれるのは半分以下だ。

その年は20人くらいいて、未経験は僕ひとり。

演奏系のテストも体力テストも
順位やセンスを見てるというよりも根性とかやる気を見てるんだろうなぁという感じだったから、
未経験の僕は人一倍アピールをした。








試験の最後には、個人のスキルを披露する為の
5分間の自由なアピールタイムがあった。

僕はアピールすることは何もなかったので
(マジックとかは意味ないと思ったし)
書類面接で「試験の自己アピールタイム」の欄に
「なし」と記入していた。


それを当日まで何も気にしていなかったのだけど
周りの皆が「アピール何する?」みたいな会話を
しているのを聞いて、

「ヤベェなんもせんの俺だけやんけ」
と焦って

スタッフの人に



「すみません、書類でアピールタイム何もしないって
書いたんですけどやっぱり何かやってもいいですか」



と言った。


「わかった。何するの?」



そんなこと言われても困る。

何しよう。




「なんかやるので和太鼓一つ用意して頂けますか。」




とっさに言葉が出た。


今考えると、度胸エグい。
でも当時は本当に恥ずかしいなんて思っている
場合じゃなかったのだ。

なんせ僕は何もしなければ100%落ちる逸材である。
爪痕を残すしかない。

そう思って10キロ走のテストも
小学生みたいにスタートから100Mを走る勢いで飛び出していったし、(体が勝手に)
(結果は中の下くらい)
(ゴール後過呼吸になってスタッフが慌ててた)
(僕も慌てた)

歌のテストも誰よりも大きな声で歌った。




そういうことでアピールタイムはトリだった。

皆緊張しながらも今までの人生の引き出しをフルに
使って、一生懸命にアピールをしていた。

いいなぁ、皆は引き出しがあって。
こっちはタンスが無いというのに。

とりあえず、今のところのアピールは
「とにかく人より声をだす」くらいしかない。
原始的すぎる。


出番が来て、
僕はプロの和太鼓奏者がずらりと並んだ前で
野球部の選手宣誓を思い出しながら全力で叫んだ。




「僕はぁ!!!
和太鼓をやったことがなく!!!!!
アピールタイムの欄に
何もなしと書いてしまいました!!!!

しかし!!!!!!!!
このままでは落ちてしまうと思い!!!!!!!
やっぱりアピールをさせて下さいと!!!!!
お願いをしました!!!!!

…なのでぇ!!!!
即興で太鼓を叩きます!!!!!」





マジで?



19歳ってこんな頭悪いの?

よくそんなこと出来たなと思うけど、
プロ奢ラレヤーに言わせれば
「本当に自分が劣等だとわかっている人間は
「劣等感」など感じない」という。

確かにそんな感じだった。



そして僕は目を閉じて
今の怖くてたまらない気持ちをなるべく
表現しようと、ピアニシモから打ち始めた。

そのあとはさっき叩いてた人のリズムを参考にして
最後は「受かりますように」と願いを込めて
ただただ強く叩いた。



終わったあと現役の研修生の人に
「めっちゃよかったよww」
と言われた。

どういう意味だったのだろう。






結果は「補欠合格」だった。

つまり「ギリギリ合格のラインだけど、定員の中には入れなかったのでキャンセルが出たら入所していいよ」ということだ。

確かに有望そうな人が多かった。
もし年が違えば入っていたのかもしれない。


僕はいろんな意味でまさかの結果に驚いたが、
これから1年働けば研修所代を親に借りずにすむし、
和太鼓も習ってまた挑戦しようと思った。







しかし、結局どちらも上手くいかなかった。

ほぼ始発から工事現場で働き、
終わったらジムか和太鼓のレッスンに行って
当時の僕は疲れ切っていた。

当時彼女はいたけど相変らず心を開けなかった僕はまた職場の人間関係を誰にも相談することができずに仕事を辞め、研修所の費用は半分しか貯まらなかった。




それよりも何よりも、僕は努力をしなかった。


週1のレッスン以外、和太鼓はおろか
パーカッションの基礎練習をすることもなく
休日は遊んで過ごした。


「未経験でもプロになれる」という
求人に書いてあるようなフレーズに安心しきって、
「太鼓の稽古は研修所に行ってからすればいい」
という甘えた考えを持っていた。


研修生は曲がりなりにも鼓童を目指す人達だ。

小さい頃から祭囃子を演奏していたり
全国的に有名な和太鼓チームに居たり、
和太鼓をやっていなくても
ずっと音楽をやっていたり。


正メンバーの補欠合格ではないのだ。

当たり前に全ての時間を和太鼓に注げない未経験者が
この先どうやってメンバーに受かるのだろう。

そんな情熱もなくて
どうして人生を懸けられるのだろう。


当時は、自分が思い描いた世界に行くことを
疑いもせず、努力しないことから目を背けていて

「お金が貯まらなかった」ことを理由に、
研修所の試験を受けるのをまた次の年に延期した。


そしてどうせ仕事するなら面白そうな仕事をしようと思い僕は京都に引っ越して人力車をやることになる。


そのあたりから、案の定太鼓への関心は薄くなった。

つまり僕は夢を持ちたかっただけだ。
何者かになりたかっただけだ。
和太鼓が「当てはまってしまった」だけで、
別になんでもよかった。

突き動かされるような何かは、
僕の中にはなかった。
自分のことを表現者だと思っていたけど、
根っからのアーティストではなかった。




「そこになければ、ないですね。」




100円均一の店員がそう言うように、
僕にはハナっから夢などなかったのだ。

僕は「みんな」と夢をみたかっただけ。
「みんな」がいなければ、何もできない。

そういう、ある意味で無個性な人間なのだ。




そう悟ったのが27歳。
「みんな」のいる場所にいようと思って
あんなに忌み嫌っていた正社員を目指したけど、

結局人間関係を作り続けることをしてこなかった
僕はまた続けることができなかった。






いやはや。

和太鼓ね。

センスはあったと思うけどね。

和太鼓じゃないよ。

和太鼓を自分の道に選んだセンスだよ。

色々あったね。



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