生きてるって凄いよね、感謝(日記)

他者と接している中で、たぶん私自身の症状を隠しきれてはいないと思う。

同時に、それらの行動ないし、行動の欠如が症状だとは認識されていないとも思う。

1)実は、目を合わせないのではなく、目が動きづらいことがある。

けど、たぶんこんなのはただ「ちゃんと目を合わせない人」くらいにしか思われないだろう。

考え事をするとき、上を向く癖があるものだから、別の方向を向いていても、おそらくは「異変」として認識はされないだろう。

本当は、目を見て話したいし、そうしないことは失礼だとも思う分、なんだか申し訳ないな……

眼球の動きをコントロールするのは、脳幹から出てくる神経だ。

2)実は、視線の方向と可動域によっては、眼振も出る。(眼球が規則正しく揺れること)

基本的には、その瞬間に目を閉じることが多い。そして、その症状が過ぎるまで、目を閉じてることが多い。だから、たぶん他者からは目の動きがおかしいということは見えてないと思う。

同時に、多少見えたとしても、忙しければ気が付かれないだろう。そして、、医学知識がない人であれば気がついても異常だとは思われないだろう。

実は、他にも脳幹が原因だと思われる症状は存在する。

この、脳幹という奴は、呼吸や心拍などの非常に大切なことをつかさどる、生命に必須の臓器でもある。

脳死の判定には、この脳幹も死んでしまっているという条件が組み込まれているくらい、生命維持に必要不可欠な脳幹。

だから、実はここが障害される病状というのは、多くの場合では「死亡例」として症例報告に上がる…… 今までもずっと、世界各国でそのような症例報告として発表され続けてきた状態でもある。そう、同じ病気で、同じ病状であれば死んでいる人が多い状態でも、今私は生きている。

その状態からでも回復できるのだから、それほど凄いこともなかなかないだろう。

自分の生命力にも感服する。(笑)

しかし、一番はやはり、忙しい中でも治療薬を投薬してくれるスタッフの命を燃やすような努力と、おそらく大変であろう書類などを作成してまで治療のオーダーを入れてくれる主治医の血の滲むような努力のたまものだと思う。

すると、もちろん感謝する。

感謝もするが、せっかく生かしてもらっているのだから、何か成し遂げて、いただいている…… いや、救われ続けられる命を何か重要なことを成し遂げるために使いたいというやる気も出てくる。

なんでかなぁ……

話しは変わるが、実は何か成し遂げたいということにもつながっている。

「病気の治療」とか、「病状」という奴に捕らわれる人が多いのは、何故なのだろう?

病気があろうが、治療をしていようが、やることをやっており、特に大きな支障さえなければ、別にいいんじゃない?

いちいち、眼鏡をかけている人の裸眼の視力にケチ付けているのと変わらない気がする。

眼鏡をかけるのはそんなに重大なことか?

昔は、きっと色々大変だったのだろう。でも、今や成人して裸眼で生活できる人の方が少なくなった現代社会では、服を着るのと変わらないレベルの習慣ではないか。

なんで、病気も髪の色やほくろの数、目の色や服装くらいの個性として感じられないのだろうか?

治療だって、それさえしていれば、どうにかなる。ならば、食事や睡眠と同じカテゴリーで良いんじゃないかな?

確かに、健康な人よりも制限は多いよ。時間的猶予も多いわけではない。でも、その分ちゃんとやれることをやって、カバーすればいいじゃん!

確かに、他人様にお世話にならないといけないよ。でも、プライベートで結婚するのだって、子供を産むのだって、離婚するのだって自由じゃないか。出産や育児には周囲の理解が必要だし、皆で…… 職場の皆と地域で子供を育てればいいじゃない。

まぁ、そこに社会的な逆風があるから、今少子化が問題となっているのだろうけど……

けどさ、なんで「病気」ばっかり、そんなに大きいことっぽくなっちゃうんだろう?

逆に、病気なのに、目に見えないとなかなか配慮してもらえずに苦しんでる人も多いのだけれども。

~~途中略~~

しかし、同時に、今の環境が好きだ。

感謝しているのもなのだが、環境が好きでもある。

そこにいるスタッフさんも好きだ。

安心感がある。

一生懸命(一所懸命でもあるけど、本当に懸命に…… 下手したら自分の命まで削って仕事しているのではないかという忙しさの中でも、仕事をして、オーバーワークであるから、患者が待つことになったとしても、患者に誤っている。何とも…… なんだろう…… 健気という言葉の使い方として、あっているのだろうか?)

民族柄なのかもしれない。ある程度の時間を共に過ごすと、その彼らに対して家族のような感情が湧いてくる。

その家族が疲れて大変な状況を生み出す張本人には、怒りさえ覚えてしまう。

日本政府ねぇ……

医療を叩きすぎだよ!

医療関係者だって、人間だよ!

オーバーワークが当たり前ってのは、どうなんだろう?

まぁ、私も治療しないと生きていけないという意味では、そのオーダーワークに加担してしまっている一人であるというのは、心苦しい。

しかし、生きるために必要なら、仕方ないのではないだろうか?

だからといって、現状に甘んじずに打開策を編み出したい。

一人で国を変えるのは難しい。

あんまり改革を煽動してしまうのは、命の危険を伴うかもしれない。

だからこそ、上手くやらないとだ。

少しずつ、少しずつ……

さぁ、じゃぁ、それをどうやってやるのか。

生かしてもらっていることに感謝を続け、自分の命を危険に晒さない方法で……

そして、絵に描いた餅に終わらせない方法で……

そのためには、何ができるのだろうか?

一人で考えていても、何も始まらない。

先ずは知識を増やすこと。

実態を的確に把握する必要がある。

そして、視野を広げる必要がある。

加えて、何を改善すべきかを炙り出さなければならない。

そして、「解決策」やアイディアが生まれたとして、それが現実的に実行可能である必要がある。

一人で理想像を掲げたところで、国全体で抗議されてしまい、拒絶される何かであっては、それは救いにならないかもしれない。

良薬口に苦し……

最初は受け入れ難くとも、慣れてしまえば実は皆が生きやすくなるのかもしれない。

なかなか難しい。

私に何ができるのだろうか?

日々やるべきことを行い、最善を尽くし、自己管理をきちんと行うことが一番大切なのかもしれない。

1)健康的な食事

2)十分な睡眠(早寝)

3)適度な運動

4)朝日を浴びる

5)毎日笑う

6)今日に感謝をする

7)周囲に感謝をする

8)そして、その感謝を表す(どうやって表現したらいいのだろう?)

これをベースに、自分にできることを見つける。

あわよくば、これが自分にしかできない事になるかもしれない。

無理はしない。

もしかしたら、無理かもしれないと思ったら、必ずやめる。

少しでも、「いけるんじゃない?」と思ったら、それは潜在的に「無理や危険」を無意識下で察知している証拠だ。

その時点で、必ず自制すること。

自分の「大丈夫、大丈夫! いける、いける」と思いやすい性格に配慮し、きちんと自分に手綱をかける癖をつけよう。

キツイかもしれないと思ったら、お金を払ってでも「休む」ことに徹すること。

これは、もちろん自分のためにもなるが、同時に家族のためにもなるし、長期的には家計のためにもなるし、巡り巡って国全体のためにもなるだろう。

だから、自分の体調管理には十分に気を配ろう。

そして、その中で可能な限り、前進して行動につなげよう。

何かできることがあるのであれば、それをやってみよう。

最初は、負担と責任の少ないボランティアなどから、自分の身体などをリハビリしていくのは大切だろう。

そして、ゆっくり着実に、一歩一歩前進していく。

その中で、確実に自分にできることを逃さずにきちんとやっていくことが重要だ。

やらずに後悔するのも、やりすぎて後悔するのも避けたい。

できる範囲で、できるスピードでやればいい。

継続は力なり。

一気に爆発的にやるのは得意だが、それで反動が出てしまうのでは、意味がない。

ペース配分も大切だ。

疲れすぎないように、そして楽しみすぎて自分にブレーキを掛けられなくならないように……

常に、第三者的視点から自分をみて、周囲もみる癖をつけよう。

どちらかというと、一点に集中する方が得意だが、イーグルアイ的な視点も訓練するといいかもしれない。(どうやればいいのだろう? 分からなければ、調べて見よう。)

大丈夫、大丈夫。

上手くやってるよ!

ちょっとずつ前進しているから、きっと大丈夫。

無理もしないように、気を付けられているゾ!

大丈夫、大丈夫。

自分で出来ることを最大限やってるじゃん。

偉い、偉い。

自分は凄いよ。

様々なハードルはある。

でも、障壁?? いや、チャレンジかな?

チャレンジは、挑戦して乗り越えるために存在する。

難しいからこそ、やり遂げた時の達成感や嬉しさが爆発的に凄いんじゃん!

大丈夫。いける、いける。

そして、ちょっとくらい躓いたって(つまずいたって)大丈夫。

そこから、立ち上がってまた歩み出せば良い。

奈落の底に突き落とされたって、そこで光を放ち、何年かかったとしても、いずれ抜け出せれば、こっちのもんだ。

最終的に、成長や前進に繋がればいい。

その時は、「最悪」でもう「無理」って思うこともあるかもしれない。

けどさ、きっとそれも、何かのためになるから。

それがどんな苦悩であったとしても。

もしも、それがどんなに孤独の世界に感じたとしても……

周りを見渡せる余裕が生まれたら、その時には「一人じゃなかった」と気が付ける。

ずっとずっと、誰か側にいてくれたことにも気が付くし、自分の存在が世界中から消えたわけでも、忘れ去られたわけでもないと気が付ける。

もし、その戦いの中で死んだとしても……

誰かが、バトンをつないでくれる。

忘れられたとしても、何かしらの影響は、誰かしらには与えられているのだと思う。

だから、輪廻??

きっと、自分自身が朽ちたとしても……

いや、いずれ全ての人が死んでしまうのだけれども……

そうなった時、その後もずっと、誰かに与えた影響は生き続けるのだろう。

その影響が周囲に新たな影響を生み、過去は未来に受け継がれる。

そういう意味で、過去は消えないし、未来も続く。

もしも、人間が絶滅する未来があったとして、人間が与えた影響は地球に残り続ける。

いずれ、地球がほろんだとしても、銀河系には何かしらの影響が受け継がれる。

何億年、何兆年の長い長い年月の中での「今この瞬間」は、非常に短く感じるだろう。

もしかしたら、無意味にさえ感じてしまう瞬間はあるかもしれない。

これからずっとずっと続くと信じる未来を信じて疑わないかもしれない。

しかしだからこそ、「今」という一瞬を、自分でもないがしろにしているかもしれない。

だからこそ、「今」に気が付き、「今」を生きたい。

今を大切にすることが、未来も大切にすることだと思う。

同時に、今を大切にすることで、今一緒にいる…… もしかしたら、側にはいないけれども、同じ時間軸で生きている大切な人を大切にすることに繋がるかもしれない。

だからこそ、

今を大切に生きよう!!



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