見出し画像

関裕二 『日本書紀が抹殺した 古代史 謎の真相』 : 〈古代史〉 謎解きの現代性

書評:関裕二『日本書紀が抹殺した古代史謎の真相』(河出文庫)

学生の頃、「歴史」という教科が、大嫌いだった。「暗記もの」だからである。
私は暗記が苦手だったから、どちらが勝った負けたとか、誰が権力の座についたとか、大きくは変わりばえのしない話の連続を、事件名と人物名と年号をセットにして憶えるというのが、とにかく面倒で馬鹿くさくて嫌だった。「そんな昔の話は、どうでもいい」「そんなの関係ない」と感じていたからだ。まして「古代史」など「何の関係があるのだ。古代のロマン? 笑わせるな」という感じだった。

でも、今は違う。
古代史は、現在の日本に、無視できない影響を今なお残しているという事実を知ったからだ。そう「天皇制」は、神代の時代に始まる(とされた)日本の歴史と直結した「政治的システム」であり、きわめてしぶとい「統治上のフィクション」なのである。

『日本書紀』や『古事記』に描かれた、神話や歴史を、歴史的事実であるかのように無思考に鵜呑みにするのと、それらが統治権力による自己正当化・権威化のためのフィクションでしかないと考えるのとでは、今の日本のあり方についての見方が、自ずと大きく違ってくる。
アメリカ(のいくつかの州)のように、「歴史」の授業で、聖書の「神による天地創造」を教えることに違和感を覚える日本人なら、当然、日本の「歴史」の授業で、アマテラスだのスサノオだのニニギだのといった「日本の創世神話」を教えることにも違和感を感じてしかるべきだろう。「歴史って、いちおう事実を教えるものだよね?」という、当然の疑問を感じるからである。

本書における「古代史」に対するスタンスは明確である。「疑えるものは疑ってみる」一一これだ。

したがって「昔の文書だから、今の感覚では奇異に感じる部分もあるだろうが、なにしろ権威ある歴史的文書資料に書いてあることなのだから、大筋ではこんな感じだったんだろう」といったような、いい加減な信じ方をしない。今の感覚で読んで「それは不自然だろ」「なんでそうなるんだよ」という引っかかりを覚えれば、その点について、従来の曖昧かつ妥協的な読み方に安住するのではなく、他の資料とつきあわせながら、納得できる「仮説」を立ててみる。
そんな積極的な態度で「歴史資料」に取り組むのだ。

たしかに著者は、「歴史学者」ではない。どちらかと言えば「歴史オタク」に近い「歴史研究家」だ。だから、「学者」のような、良く言えば「慎重さ」、悪く言えば「無難さ」はない。
しかし、なにしろ「古代の歴史的事実」など、誰も「真相」を知っているわけでもなければ、確定できるわけなどないのだから、著者はその「自由な立場」から、大胆な「仮説」を次々と提示して、「古代史学会」を挑発しつづけるのである。
そして仮に、著者が5つ提示した仮説のうち、結局、後になって正しかったと立証され、学術的にも「定説」となるものは、1つか2つということのなるかもしれない(あるいは、ゼロかも知れない)。だが、そうした挑戦の結果を、肯定的に捉えるべきか否定的に捉えるべきかと言えば、私は、肯定的に捉えるべきだと思う。

著者のような、ある意味で「古代史への無償の情熱」に突き動かされた人、つまり「古代史マニア」的な人が、その野武士のような情熱と蛮勇において、権威と権力の抑圧に抗って「歴史の闇」に果敢に切り込む先陣となってくれるのは、学者や学会にとっても喜ぶべきことなのではないだろうか。

最初に書いたとおり、私は「古代史」についての知識をほとんど持たない初心者だから、著者の立てる仮説がどの程度のたしかさを持つものなのかの判断はできない。けれども、「マニア」や「オタク」が、時に「学者」を超えることがあるという、数々の「歴史的な事例」は、よく知っている。多くの人が顧みないジャンルに、地道かつ継続的に取り組むことは、「無償の情熱」無くしてはできないからである。
無論、「学問」的な堅実性はきわめて重要である、という事実を大前提とした上で、私は「市井の研究家」たちの下支えの重要性を、ここで強調しておきたい。

ちなみに、私はアマチュアながら「宗教」というものに興味を持って研究を始め、どこから手を付けるべきかと悩んだ末に、「もっとも宗教らしいメジャー宗教」である「キリスト教」を研究対象と定めて、「聖書の通読」から始めたような人間である。同様に、「天皇制」や「戦後史」の問題を考えるための基礎教養として、最近になって、現代語訳でだが『日本書紀』と『古事記』を読んだような人間だ。つまり、やるんなら基礎文献をまず押さえるという、ある意味でクソ真面目な正面突破を自らに課したのだが、本書のあとがき(「おわりに」)で、著者が下のように書いているのには、「そのとおり」だと思いながらも、苦笑させられた。そして、そうした著者の言う「入り方」は、ワンジャンルに止まることのできる、時間のあるマニアにしかできないことだ、と思ったのも事実である。
「古代史」マニアに止まるのなら、それで良いのだけれども、そこから「天皇制」や「近代史」の問題を含む、現在の日本の政治にまで問題意識を広げる場合は、そう悠長なこともしていられないからなあと、一種の羨望を感じもしたのである。

『 これだけは言っておくが、「『日本書紀』の面白さが分かってきた」からといって、むやみに古典文学全集の『日本書紀』を購入し、読もうと思ってはいけない。一日でお手上げになるに決まっている。誰もが神話から読み始めるからだ。『日本書紀』の場合、「神代」は上下に分かれ、第一段から第十一段まで話は続く。しかも、各段に正文(本文)に一書(異伝)が附属し、しかも似たような異伝が複数出てきて、どれが本当の話か、分からないのだ。さらに、目がまわるような神々の名がいくつも飛び出し、とてもではないが、内容は把握できないし、退屈なだけだ。
 『日本書紀』には読み方がある。「好きなキャラ」を、まず学ぶことだ。
 どうやって選ぶ?
 どこにでも売られている古代史の研究書だけではなく、マンガでも小説でもいいから、「この人、面白そう」と、興味を持つことだ。そして、まずそのキャラ(人物)が登場する時代から、読み始めればよいのだ。すると、いろいろな情報が舞い込んでくるし、『日本書紀』が奇妙で矛盾に満ちていることに気づかされる。『日本書紀』編者の「このキャラに対する意地の悪さはなぜか」「なぜこの人を依怙贔屓するのか」がみえてくれば、もう、『日本書紀』にのめり込んだ証拠だ。そのキャラの背景の歴史を探っていけば、自然に神話に行き着いてしまうはずなのだ。ヤマトの中心に立っていた多くの豪族の始祖は、神話の神々や「歴史ではない」と考えられてきた欠史八代(第二代から九代までの天皇)から生まれ出た人びとだからだ。』(「おわりに」P186〜187)

じつに正直な人だ。
自身の「趣味的な出自」に誇りを持っているのがよく伝わる文章で、グッと好感が増した。
学者なら、決してこんなに親切な助言を書いてはくれないだろう。

初出:2020年12月11日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○





























この記事が参加している募集

読書感想文