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飛浩隆 『ラギッド・ガール 廃園の天使 Ⅱ 』 : 悲劇の〈舞台裏〉

書評:飛浩隆『ラギッド・ガール 廃園の天使Ⅱ』(ハヤカワ文庫)


本作は、「廃園の天使」三部作の2冊目で、単行本は(16年前の)2006年の刊行。完結編となる3冊目の『廃園の天使』は、いまだ連載未完で未刊である。

そんなわけで、読むのを後回しにしてきた「廃園の天使」シリーズの2冊だが、とうとう本冊で、飛浩隆の既刊本をすべて読み尽くしたことになる。一一だが、幸か不幸か、個人的には、本冊が飛浩隆の著作の中では、最も面白かった。

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本書は、「夏の硝視体」「ラギッド・ガール」「クローゼット」「魔述師」「蜘蛛の王」(収録順)の5編からなる中篇集であり、その内容を、著書自身の言葉で説明すると、次のようになる。

『 本書は『グラン・ヴァカンス』ではじまった〈廃園の天使〉シリーズの、二冊目の本であり、最初の中篇集である。「夏の硝視体」と「蜘蛛の王」は、仮想リゾート〈数値海岸〉の内部が舞台で、「ラギット・ガール」と「クローゼット」には現実側一一物理世界での出来事が書いてある。「魔述師」は両方にまたがっている。』(P473「ノート」より)

シリーズ一作目の長編『グラン・ヴァカンス』が、仮想リゾート〈数値海岸(コスタ・デル・ヌメロ)〉の内部における「崩壊悲劇」に終始して、多くの謎を残したのに対し、本書は中篇5作において、〈数値海岸〉の背景となる、その「成り立ち」を多角的に描いた作品集だと言えるだろう。
つまり、第1作の『グラン・ヴァカンス』が、壮大で悲劇的な「問題編」であるとするなら、第2作の本書は、その謎の大半についての「謎解き篇」だと言えよう。

・ 仮想リゾート〈数値海岸〉とは、誰によって、どのように作られたのか?
・ 「ゲスト(観光客)」を接待するために作られた娯楽施設である〈数値海岸〉を襲った、千年前の、現実世界との「大途絶」とは何であり、どのようにして起こり、その後、現実世界の方はどうなったのか?

こうした謎の真相が、本書で明かされる。

だが、『グラン・ヴァカンス』で描かれた、〈数値海岸〉を構成する数千のアトラクションの一つ〈夏の区界〉への「蜘蛛」の襲撃が、なぜ起こされたのかの理由までは明かさない。
〈夏の区界〉を壊滅させた、「蜘蛛」をあやつる「悪の親玉」ランゴーニの出自こそ、最後の「蜘蛛の王」で描かれるはするものの、なぜ彼が〈夏の区界〉あるいは〈数値海岸〉の破壊者へと変貌したのか、そこまでは描かれないのだ。

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したがって、シリーズ完結編となる『廃園の天使』では、ランゴーニが「どうして〈数値海岸〉を破壊するに至ったのか、その経緯と、彼の破壊行動がどのような結末を迎えるのか」が描かれる作品になると予想される。

果たして、この「壮大な悲劇」が、どのような結末を迎えるのか。一一それを考えると、作者が感じているであろう「半端なものは書けない」とプレッシャーの大きさは察するに余りあるものの、シリーズ読者としては、否応なく大きな期待を寄せずにはいられない。

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【※ 論評の必要上、収録作品のネタを一部割ることになるので、未読の方はご注意ください】

さて、ここからは、個々の収録作を、順に解説していこう。

まず「夏の硝視体」だが、これは本書に付された作者による「ノート」で、『『グラン・ヴァカンス』刊行時に、そのトレーラーとして発表した』ものだというとおりで、『グラン・ヴァカンス』の前日譚エピソードであり、『グラン・ヴァカンス』の既読者には、馴染みの世界との再会の魅力はあれ、特に新しい情報があるわけではない。
したがって、本書に実質的な内容は、2本目の「ラギッド・ガール」から始まると言って良いだろう

「ラギッド・ガール」は、〈数値海岸〉の開発者の物語であり、当然、現実世界(物理世界)の側のお話である。
本作「ラギッド・ガール」の白眉は、〈数値海岸〉を成立させた、架空の「科学理論」の面白さだ。
普通に考えると、五感の全てに訴えるバーチャルな世界を作るだけでも大変なのだが、さらに問題なのは、それを現実の人間がその全感覚において「リアルな世界と感じる」ようにするには、どうするか、である。

普通は、バーチャルな世界を構築し、そこにデータ化された人間を送り込むことで「リアル」な体験をさせる、ということになるのだが、人間のすべての認知機能(末梢神経から脳まで)をデータ化して再構築し、バーチャル世界に対応させるというのは、どう考えても大変すぎる作業だ。そこで、そこで考え出された「方便的手法」というのが、とても面白い。
それは言うなれば、「実際にリアルに感じる」のではなく「リアルに感じていると感じさせる」データ処理で済ませるという手法だ。

私は根っからの文系なので、この作中の「架空理論」をどこまで正しく理解したかは疑わしいが、要は「夢の体験」みたいなものだと考えれば良いだろう。
「夢」においては、実際に見ていないものを見ているし、触っていないものに感触を感じている(と思っている)。こうしたことがなぜ可能なのかといえば、それは人間の脳が、そうした基礎データを蓄えており、睡眠によって発生した不規則な刺激を、そうした情報で補完整理して、物語化するからであろう。つまり、「リアルな夢」をデータとしてすべて外部で作ってから、脳に送り込むのは困難だけれども、ある蓄積データを惹起するためのデータだけならば、ずいぶんと軽くなるだろう、というような理屈である。

まあ、私の下手くそかつ部分的な説明では、その魅力は伝わらないだろうが、SFらしい「もっともらしい科学的架空理論」の面白さを理解できる人なら、この作品に「名探偵の驚くべき謎解き」を聞くような愉快さを感じること間違いなしだと、強くオススメしておきたい(※ 例えば、小栗虫太郎黒死館殺人事件』の名探偵・法水麟太郎の、衒学的長広舌の面白さに近い)。

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だが、「ラギッド・ガール」の魅力は、そうした「SFマニア向け」の部分だけではないところが素晴らしい。
言い換えれば、一般読者でも「あっと驚く作品」になっており、その魅力は「SF的な仕掛け」を使いながらも、実質的には「本格ミステリ小説における叙述トリック」的な魅力なのだ。それまで、当たり前に見えていたものが、最後に思わぬ「反転」を見せる、その意外性が、誰にでも楽しめる本作の魅力となっている。

著者は、本書付録の「ノート」において、「ラギッド・ガール」を自身の「最高傑作」ではないかと語っており、事実、本作は「SFマガジン創刊700号記念・2014オールタイムベストSF」短編部門の第3位に輝いている。
著者自身が本作で自負しているのは、基本的には「架空科学理論」の面白さだと思われる。それが「SF的に斬新なアイデア」だからだ。
しかし、読者の多くが本作のどこ魅力を感じたのかと言えば、それは後者の「結末の意外性」の部分だったのではないかと、私は見ているのだが一一さて、真相やいかに?

「クローゼット」は、「ラギッド・ガール」の後日譚だが、この作品に面白さは、「現実に虚構が食い入ってくる恐怖」であり、そこでの「知的闘争(駆け引き)」だと言えるだろう。
例えて言えば、ホラー映画『エルム街の悪夢シリーズの何作目かにおいて、主人公の青年たちが「夢の中の殺人鬼である、フレディ・クルーガーを捕らえるために、あらかじめ現実の側で仕掛けを施した上で夢の中に入っていくのだが、そう上手くはいかず、フレディに裏をかかれて大ピンチ」という一編があった。
一一「クローゼット」は、大筋において、これと同じパターンの作品であると言えるだろう。

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「魔述師」で印象的なのは、〈数値海岸〉に配置された「AI」たちの「人格権」を認めるべきだと訴える、現実世界の側の人格権運動家ジョヴァンナ・ダークの存在である。彼女は、インタビューに答えて、次のように話し始める。

『「ジョヴァンナ・ダークさんですね? お会いできて光栄です」
「ほんとにそう思ってる?」面白がっている顔だった。「やな奴だと思っているんでしょう」
 笑うと目が線になる。意外なほど気さくな、人当たりのよい態度だった。
「嫌われるのは慣れているから。遠慮しないでいいのよ」』(P227)

「ああ、まるで私のことではないか」と、そう思ったから、私にはきわめて愉快だった。

なぜ、彼女が嫌われているかは、その理由は明らかだ。
要は、みんなが楽しんでいる娯楽施設である「仮想リゾート」について、そこで使われている「AI」に「人格権を認めろ」とか、「区画」の中身によっては「AIへの虐待であり、倫理的に認められるものではない」といった「嫌な正論」を、彼女が吐くからである。

例えばそれは、雑誌の「ヌード写真」掲載を「公序良俗」の問題として告発し、多くの男性からその楽しみを奪ったり、小説や映画などの創作物における「女性(あるいは、黒人など)の描き方が差別的」だなどと「倫理的な正論」を振りかざし規制を求め、この世の中をどんどんつまらなくする、そんな人たち(ポリコレ)の一人だと彼女は見られて、世間からの反発を買っていたのである。

実際、これはとてもリアルな話で、本書の読者の中にも、こうした「ポリコレが大嫌いだという人は少なくないはずだし、こういうやつ(ダークのような女)はきっと「ギスギスしたヒステリー婆あ」に違いないと思っている人もいるはずだ。
だから彼女は、「お会いできて光栄です」と世間並みの挨拶をする男性インタビュアーに、「ほんとにそう思ってる?」「やな奴だと思っているんでしょう」と言って、からかったのである。

で、私が彼女に共感するのは、私が「ポリコレ」に対しても一定の共感を寄せているだけではなく、例えば、現在の「日本のSF界」のように、仲間うちです「すごい、すごい」と持ち上げ合って、相互権威づけをする利権「仲良しクラブ」的なところを批判をしたりすることから「きっと、多くのSF業界人やファンから、嫌われているだろうな」という自覚を持っていたりするからである(この場合、私が守っているのは「SF村の外の人々の権利」なのだが)。

同様に、私は「動物の権利」というものについても、かなり先鋭な考えの持ち主である。
だが、それは世間並みの菜食主義者とか動物愛護家とは、ちょっと違っている。

私の場合は「動植物を食用にするのはいいが、愛玩物にしてはならない」という考え方である。つまり「ペット」は全面禁止されるべきであり、そこに「良い飼い主も、悪い飼い主もない」ということだ。
本来、野生で自由に生き方を選択すべき動物たちが、人間の「娯楽」のひとつとして「改造」されたり「(「家族」という名の)生きた玩具」になどされるべきではない、という考え方である。

また、ふつう「動物愛護」を訴えるの多くは「動物を、可愛がるなら結構だ」と考えるが、私の場合は、その認識が「人間中心主義の自覚がなく、自己に甘い」と否定するので、よりラディカルだし、「菜食主義者」が「動物を食べるべきではない」と言いながら「植物ならしかたない」とするところを、私は、どちらも「同じ生物」であり、食べないで済むならどちらも食べるべきではないが、生きるためには何かを犠牲にして食わねばならないのが生物の宿命であるならば、そこは認めて、必要な分は食うことで、命の重さを自覚的に担うべきである、という立場だ。

つまり、生きることの罪深さから、安易に逃げる口実(「私は他の動物に優しい」)に飛びつくな、半端な自己正当化をするな、というのが私の立場であり、その意味では「菜食主義者」よりもラディカルな立場だから、いずれにしろ、どっちを向いても「嫌がられる立場」であることを自覚している点において、ジョヴァンナ・ダークに共感的なのである。

そして、より彼女に近いところで言うと、私は、仮にこの先、どこから見ても「人格(心)」があるとしか思えない「人工知能」「ロボット」が作られたとすれば、私はそれらに「人格権」を認めるべきだという立場であり、その点でダークとまったく同じだと言って良い。

もちろんこれは、「人間」どおしでさえ原理的に「他人の心の存在」が「確認」し得ないという事実を大前提とし、ましてや「作り物」の「人口知能」や「ロボット」に、仮に「心」が発生しても、それは絶対に「確認できない」という前提に立っての話である。
だから、「内面性の存在を確認できなくても、外見的にどう見ても人格を持っているとしか認識し得ないものには、(リスク回避の観点から)人格権を認めるべきである」という、これはダークと同様の、ラディカルな考え方なのである。

当然、こうした私の立場は、セクサロイドが実際に作られたら、考える前に、喜んで飛びつくであろう多くのSFファンにも「嫌われる」こと間違いなし、なのだ。

そんなわけで、本作「魔述師」は、「差別」問題に強い関心を持つ私としては、決してフィクションでは済まされないテーマを扱っており、ある意味、身につまされる話として「面白かった」。

だが、所詮、多くの読者にとっては本作も、「人格を認められないAI」の哀れさを、何のやましさも感じることなく、娯楽的に「共感し感動して、堪能消費できる(泣ける)作品」になっている、と言えるだろう。本作の、〈数値海岸〉側での物語は、あまりにも痛々しく、美しいのである。

最後の「蜘蛛の王」は、前述のとおり『グラン・ヴァカンス』でのラスボスであるランゴーニの出自を描いた作品であり、言うなれば、完結編『廃園の天使』への「つなぎ」となる作品だと言えるだろう。
この作品に描かれているのも「人の隠された破壊欲望(残酷さ)」だと言えるかもしれない。

一見「温和な常識人」あるいは「地位も名誉も教養もある、立派な人」だと見える人が、じつは「他人には語り得ないような、非人間的で下劣な欲望を隠し持っている」なんてことは、当たり前にあることだが、そうした欲望の存在を、あからさまに描いてみせるのも、文学の使命なのではなかろうか。

そんなわけで、何はともあれ完結編『廃園の天使』の早期刊行が待たれる本シリーズだが、しかし、本シリーズを読むのならば、本作における「人間の残酷さ」とは、すなわち、この物語を「娯楽消費」することだけで済ませられる、99パーセントの読者の問題である。一一ということくらいは、是非とも認識しておいてもらいたいというのが、ダークと同様に「やなやつ」の、いつわらざる思いなのである。

(2022年9月15日)

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