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中沢新一 『アースダイバー 神社編』 : 天狗にさらわれ 〈犬の聖地〉へ : 中沢新一の幻想

書評:中沢新一『アースダイバー 神社編』(講談社)

中沢新一が、どうして「学問の世界」で評価されないのかが、とてもよくわかる一冊である(「マスメディアの世界」は、また別の話)。

たしかに「お話(個人的な仮説)」としては、夢があって面白いのだけれど、所詮はそれだけに過ぎず、これでは良くて「空想的歴史批評」、身も蓋もなく言ってしまえば「歴史仮説論文SF」に過ぎない。

本書での、古代精神史的な「仮説」は、今後、まったく新しい「歴史的物証」(例えば、遺物の遺伝子情報)などが出てきて否定されても、「情報が少なかったから仕方ないよね。仮説としては面白かったんだけど」で済まされるようなものでしかないし、たまたま「中沢新一仮説」の「傍証」となるようなものが出てくれば、「真相は、もうこれしかないだろう」とお祭り騒ぎされるだけのものでしかないのではないか。
地道な研究に基づきながらも「仮説は仮説だ」と断りながら学術的「仮説」を語る者からすれば、中沢の、いかにも門外漢らしい、無責任に自由奔放でにぎやかな仮説に、眉をひそめたくなる気持ちはよくわかる。

そんな「中沢新一の中沢新一たるところ」とは、例えば、本書で何度も強調される古代人の「アナロジー」思考ということであり、これは取りも直さず、中沢新一本人の際立った「個性」だと言えるだろう。
つまり、古代人を褒めているようでありながら、実際のところは、自分の「個性」を褒め、その重要性を強調しているのである。

(1)『古代人は一般に、アナロジーを感知する能力が高く、そのためパターン認識が得意である。縄文人も倭人(※ 弥生人)も、おたがいの文化がきわめてよく似た深層パターンをもっていることに、すぐに気づいたはずである。』(P51、※は引用者註)

(2)『宗教の領域は、技術や生活の進歩の影響を受けにくいどころか、それを排除する傾向すらあるからだ。そのためアナロジー能力の退化している現代人からすれば、縄文人と倭人の宗教は、まるで違うものに見えてしまう。ところが、アナロジー思考の名人であった縄文人には、海の彼方からやってきた倭人たちの宗教の構造が、自分たちのものと基本は同じものであるということが、すぐに理解された。』(P64)

(3)『 縄文人は、別ジャンルの似ているもの同士を、「同じもの」として認識する、比喩の能力にすぐれていた。』(P168)

(4)『アースダイバーである私からすれば、二人の歴史家(※ 平泉澄と網野善彦)とも、日本人の中に潜む「ゾミア的特質」にひかれていたということになり、この点では皇国史観とマルクス主義も、言われるほどには違わないのことになる。』(P254)

(5)『 倭人系海人は、このようにいくつもの領域を横断する能力を持った者たちを、大いに尊重したのである。存在の諸領域を横断できる「アースダイバー」の能力を持つ者たちに、神話の中で重要な働きをさせた。』(P344)

これで十分ではないだろうか。普通に文章を読める人なら、本書で展開されている「仮説」の基本構造が、いかに「自己賛美(自画自賛)的」なものであるかは明らかだろうし、さすがは「ナルシストの学説」だと感心するのではないか。

しかし、わからない人のために解説しておこう。

(1)について。
現代人と比較して『古代人は一般に、アナロジーを感知する能力が高く、そのためパターン認識が得意である。』というのは、当たり前である。なぜなら「古代人」は、「近代的叡智」である「科学的思考」や「実証主義的思考」を手にしておらず、その思考の多くの部分が、選択の余地なく、つまり否応なく「アナロジー」思考で占められていたからである。

(2)について。
ここでは、『アナロジー能力の退化している現代人』と『アナロジー思考の名人であった縄文人』という表現で、明らかに後者を高く評価しているのがわかるが、これは「科学的思考や実証主義的思考を手に入れた現代人」と「科学的思考や実証主義的思考を持たない縄文人」と言い換えることも出来、要は「一長一短」に過ぎないことを、「ウケの良い方」の肩を持って語っているだけのポピュリズムあり、同時に、自分の個性に近い方を褒めて、自己賛美しているだけである。

(3)について。
『 縄文人は、別ジャンルの似ているもの同士を、「同じもの」として認識する、比喩の能力にすぐれていた。』一一この「縄文人」と「私(中沢新一=アースダイバー)」は、容易に置換可能である。
つまり、中沢新一の、長所は「アナロジー思考」であり、弱点は「アナロジー思考の偏重と過信」である。

(4)について。
人間の考えることだから「似ているところ」があるのは当然だが、ここでの中沢の『この点では皇国史観とマルクス主義も、言われるほどには違わないのことになる。』という言い方は、典型的な「目立ちたがり屋の、奇を衒った逆張り」であろう。

(5)について。
つまり、「本質的(古層的)日本人性」を保持し得ている日本人ならば、中沢新一のような〈いくつもの領域を横断する能力を持った者を、大いに尊重したはずだ。存在の諸領域を横断できる「アースダイバー」の能力を持つ者に、神話の中で重要な働きをさせたはずだ。〉ということだ。
言い換えれば、中沢新一を「現実」において活躍させない者とは「近代合理主義に毒された人間」であり、そうではない「縄文人的アナロジー思考を保持している日本人」であるならば、中沢の「超越性」や「神話」的本質を認めないはずがない、ということになるのである。無論「中沢理論では」ということだが。

本書が、すべてダメだとは言わない。「エピローグ」で語られる、「ヤマト国」の手でなされた「神話の書き換え」による「神道の新層」の欺瞞性についての指摘は、意味のあるところだろう。だが、これも特別に新しい話ではなく、これまでも学問的に語られてきたことにすぎない。それでも、中沢新一が語ると、映えて聞こえるのだから、一般人向けに、中沢流に語り直す意味もあったとは思う。

だが、本書の問題点は、なによりも「軽信」の問題である。
簡単に言えば、事実関係を探求すべき学問において、安易に「面白ければ、それで良いじゃないか」という(書き手と読み手の)態度である。

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例えば、本書冒頭の「犬の聖地」のエピソードだが、この「水木しげるの漫画」にでも出てきそうな「出来すぎたお話」を、何の疑いもなく「中沢新一の現実体験」だと信じられる人は、今後の人生において、自身が詐欺被害に遭う蓋然性の高さを、この機会に銘記すべきであろう。

この「犬の聖地」については、出来るものなら「写真」でも添えて欲しかったところだが、たぶん、もう誰もその「聖地」に足を踏み入れることはできないだろう。なぜなら、この聖地は、「縄文人的」な、あるいは「アースダイバー」的な資質を持つ者だけを、たまさか選んで呼び込む「他界」の様相を呈しているからである。

でなければ、今どき流行りの特殊詐欺の方が、よっぽど信憑性の高い、リアリティーのある「お話」を聞かせてくれるからだ。

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初出:2021年5月22日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月28日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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