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『沈黙の壁 語られることのなかった医療ミスの実像』を読む(2)

■「ひき逃げ」の秀逸なたとえ

▼前回に続き、『沈黙の壁』の印象的な話。

▼医療ミスへの対応について。これもたとえが秀逸だ。適宜改行。

〈被害者やその家族が嘘をつかれていると思ったとたんに怒りに駆られるのは容易に理解できる。

父親のクラウディをヘパリンの調剤ミスで失ったサンディは、まさに簡潔なたとえでそのことを語っている。

隣の住人が車を出して私の家の前を通るときに、道を横切ろうとしたうちの犬を轢(ひ)いてしまったのを窓から見ていたとしましょう。彼がすぐ車を降りてうちの犬を抱き上げて、私の家まできて起きたことを心から悲しみ動転している姿を見たら、どうして私が怒り狂うことができますか。

むしろ私は、意図してやったことではないのだから、そんなに落ち込まないでくださいと慰めようとするでしょう。

でも彼がもしそのまま車で走り去って、私が見ていたのに後になって自分は何もしていないと嘘をついたら、どのぐらい私を怒らせるか、誰にだってわかるでしょう」と。〉(226-227頁)

▼起きた出来事が同じでも、その後の対応いよって、その出来事の「価値」が変わるわけだ。

このたとえの数頁前に、次のような要約が載っている。

〈医療ミスに遭遇した患者と家族に共通するものがある。それは、悲劇が起こった事実を認めて、起きたことをいつわりなく説明してもらい、エラーをおかした事実を「自ら告白」してほしいということである。

「申し訳ない、私たちはミスをしました」という心からの言葉があって、患者と家族だけでなく、医師、看護師、そこに関与した全員の心の癒しが始まるのだ。正直さのないところに癒しはない。

 心の癒しなしには、医師、看護師、患者、家族、病院が協働して将来のエラー防止をはかることなど望みようもない。〉(224頁)

■一個人と大組織と

▼病院という組織に所属する一人の医師として、どのような行動をとりうるか。ケースバイケースで千差万別だから、決して一般化できないし(一般化してはならない)、マニュアルもないのだが(マニュアル化してはならない)、次のような例もある。

〈患者と家族が「謝罪」以上のものを求めることがある。医師や病院にミスが起きた事実だけでなく、ミスをおかしたことを認めさせたいのである。誰かから「その責めは私にある」という言葉を聞くことが、被害者にとってこれから自分が克服しなければならない悲劇を受け止める助けになるのである。

 ある女性医師は、患者からのそうした「責め」を自分がどう果たしたかについて、こう書いている。

「私の患者の診療にエラーが起きた。患者に有害な結果をもたらすことなく済んだのだが、患者にはいやな経験をさせた。

彼が退院してから、私はミスがあったことを詫びる手紙を彼に書いた。手紙には、今後同じようなミスが他の患者に起きないように院内のシステムをどう改善したかについて大まかな説明を記した。

 私が患者に手紙を書いたことは、病院にもリスク・マネジメント部にも知らせなかった。もし知らせれば、病院がミスのあったことを認めることになるので、私にその手紙を送らせなかっただろう。

病院は、訴訟を起こされることを必要以上に怖れ、神経をとがらせる。そのためにミスを決して認めようとしない。

しかし、真実を伝えることなくして、倫理的にすべきことなどありはしないのである。患者の主治医として、患者に何が起きたのか、それがどうして起きたのか、二度と起こらないように何をしたのかを伝えるのは、医師である私の義務なのである。」〉(228-229頁)

■「他の方にもお勧めいただけますか」

▼まったくもってまっとうな意見だ。いっぽうで、そんなことってあるの?と思うくらいひどい話もある。もしかしたら日本でも似たような事例があるのかもしれない。

〈患者が直面した苦難に対する医療側の無神経さは驚くべきものだ。大腸内視鏡で腸壁に穴を開けられた元小売り店店長のディックは、重篤な感染症を起こして死の淵をさまよった。

その後数カ月、依然として回復を待つ身だったのだが、内視鏡でミスをした医師から「その後いかがお過ごしですか」「当院を他の方にもお勧めいただけますか」といった文言の送り状が付いた請求書を数通受け取った。

ディックの妻ジャンヌは、「届けにきた女性の目の前で破り捨てたわ」と言う。彼女は、妻であれば誰も経験したくない生涯の伴侶を危うく失いかけるという経験をしたのに、医師は起こしたことに謝罪はおろか遺憾の意も示さず、被害者に負わせた苦痛にまったく配慮していなかった。〉(235-236頁)

■「娘をビーチに連れて行かなければならない」

▼もっとあきれてしまう事例も載っていた。

〈ある女性が、母親を医療ミスで死なせた医療機関のCEOと面談の約束を取り付けて、その後どういう経験をしたか話してくれた。彼女が面会の約束をとるまでには数カ月かかったのだが、とにかく約束が取れたので、数時間かけてCEOのオフィスに出かけて行った。

しかし、面談はこんなふうだったという。

「病院に着くと会議室に案内され、彼は自分の側近を全員連れて現れたんです。私が考えていたような親しくきわめて個人的な話をするのには、まったくそぐわない会合になりました。

私は、母を死なせるような状況が起こったことについて質問し、こういうことが二度と起きないようにする院内システムについていくつか具体的な質問をしました。彼の答えはどの質問に対しても『私にはわからないので、詳しく調べたうえでご返事します』の繰り返しでした。そうこうするうちに、彼は時計に目をやって、娘をビーチに連れて行かなければならないのでもう自分には時間がないと言ったのです。それ以後、この男から何の連絡もありませんよ」。

 そこで彼女にとっての癒しの機会は失われ、病院が患者の安全をあらためて確約する機会も失われた。同じことを、航空機事故で母を失った娘に口腔会社のCEOが言うだろうか。〉(243頁)

■対照的な日本の事例

▼このバカCEOの事例の直後に、対照的な事例として、日本の例が挙げられている。

〈『デイリー・ヨミウリ』紙によると、心臓手術に起きたミスで12歳の患者が死亡していたのである。その責任をとって東京女子医科大学病院の心臓血圧研究所長は、先に辞職した病院長にならって辞任した。

この手術チームを指揮し、ミスを隠すために看護師と技師に診療録を改竄(かいざん)させたとされる医師は、医療過誤の証拠隠滅の罪で起訴され、大学から免職処分を受けた。

このミスに直接関与していなかった同大学の学長と理事長は、給与の一部を返上した。

心臓血圧研究所長は、記者会見で「当院の職員は、証拠の隠滅などの行為で医療に対する社会の信頼を失わせた。こうした行為は、多くの人の生命を預かる医療従事者にあってはならないことである」と見解を表明した。

 この悲しむべき行為を償うためにとられた一連の行動は、医療従事者とそこに癒しを求めてくる人たちの関係に一つの暗示を与える。

医療エラーを防ぐには、医療システム側が医療ミスの被害者を締め出したり、無視したりせずに、特別な関心を払うべき対象として認識することで、新しい患者との関係を確立する必要があるということだ。〉(244頁)

▼ミスを認めない、という愚劣な行動は、何らかの「合理性」にのっとっている。「裁判で訴えられないためには、何でもする」「裁判で負けないためには、何でもする」というのも、合理性の奴隷ならではの行動の一つだ。

医療ミスの被害者や家族を特別な存在と認識することこそ、敵対的で無慈悲な、冷酷で費用のかかる法廷闘争を逃れる唯一の道といえる。しかし、皮肉なことにこうした裁判制度は、人間の根源的な欲求である癒しを求めることから発したはずのものなのである。〉(246-247頁)

▼たしかに、アメリカのバカCEOの例と比べると、日本の例はずいぶんまともだ。

▼医療というテーマは、「生死」にかかわるから、必然的に思わぬ深い広いところまで論点が及ぶ。本書の最終章には「声を上げる」重要性や「自分を守る知恵」について説かれており、興味のある人は実物を手にとってほしい。

▼治療中に起きた出来事に、患者が納得していないのに、病院が「当方に瑕疵(かし)はない」「合法だ。違法なことはしていない」と言い張る図は、たまにニュースになるが、双方が異なる次元の話をしている場合がある。

病院にかぎらず、たとえミスがあったとしても、その後に「心から誠実に対応していれば、こんなことにはならなかった」という事例は、そんな全統計をとる手段はないのだが、けっこう世の中で頻発(ひんぱつ)しているのではないだろうか。

▼本書を読むと、たとえ医療ミスの当事者でなくても、人生には、決して「交換価値」に替えてはならないし、替えられると勘違いしてはならないものがあるということ、「組織」を理由にすり潰してしまう尊厳があるということ、その「組織」があるからこそ助けられる存在があるということ、「合理性」を追求するからこそ陥る穴があるということ、などについて考えさせられる。

(2019年3月31日)

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