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深い”自分”との出会い
物心ついた頃に、何となく「自分」という人は”いる”と、自身が自覚する・しないは様々なんだろうけど。
出来上がるんだよね、明らかに自分は。
持って生まれた血筋もあって、それは意識などせずとも、家族とそっくりだなぁという様な、「同じである事」にビックリした経験も私にはある。
親の影響を受けたという”自覚”のあるものなら、それを問う事はできるけど、無意識に知らずに同じ動作をする…、なんていうのは、
Tomorrow never knows♬
憎しみ 恨み
不思議だね
いつも私の外側で眺めていたそれ
いつまでも私の中まで入り込まなかった
ミスチルのミックスリストを流しながら
朝のシンク掃除をしていた
なんの曲だったかなぁ…
その曲が 私が外に眺め続けたものを引き込んできた
(あぁ…そういうことか―――)
他者の何かが重なった
そう思ったら涙がボロボロこぼれてしまって
もうほんとに…
愛というのは言葉で表されるものでなく
想い
自覚されるもの、との差
私たちはさぁ、きちんと考えているようで、まったく箱の中だし、考えていないようで世界に触れている。
自分という存在は、「習慣という特定の形の中」にある、という事は確実に分かっていなければならないのだと思う。それでも、強烈な境界で悶絶したりする―――。
・・・
もう、「そういうものなんだよね。」以上。
とは行かないので、少し書いていく。私が触れ続けている気学、2024年の超繁忙期間のひと月(4
重なる一つの世界は多様
つくづくおもしろいと思う。
過去の偉人、同じ人が、現代の誰かによって表に浮かび出され、それは”誰か”の持つ属性によって、更にそれを見る者は印象を変える―――、例えばスピリチュアル的要素の強い印象の”誰か”を通せばその扉から、哲学的要素であればその様に、心理であれば心理の扉から…と、印象が変わる。本当におもしろいと思う。
そしてその過去の偉人は、それだけ他者にその様な面を見せられるかなりの”多面
いつも自分が決めている
で。
唐突に。
私は考えた挙句、”分からないよね”となった時、結局こういう事が圧倒的に多いのだから、「すべて自分が決めること」と思っているし、実際にその行動をとっている。
何かに対し、自分が詳細に知っている事に関しては”分かる”のは当然のことで、そうでないモノコトにおいてはどちらも見て考えて…結局自分が決めているのだから。
そしてその延長に必ず、どちらを選んだとしても確実にこれが正しかったと