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意識的に自分の殻を壊す 私の習慣 その4.422 ベンチャー設立に動く 課外活動本格デビューの成果 当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 生まれてからずっと夢見ていた知的パラダイスたる大学。学生運動の名残が少し残っていて、立て看板も絶滅危惧種ながら若干残っていました。
 そこで意識的に自分の殻を壊し生まれて初めての部活·サークル活動に本格参加した話の続編。マイクロマウスに挑戦し網羅的に最先端エレクトロニクス技術を学び

経緯
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 ベビーブーム末期で受験戦争と言われた時代。意識的に自分の殻を壊し、バランスの取れた高校生活を選ばず、醜いまでに受験対策するということに。そのソリューションとした選んた駿台予備校が良かった…
 駿台での授業内容は大学での学究生活に向けての準備というスタンスでした。入試なんてその通過点で軽くこなせば良いだけという余裕。感動的ですら有りました。

 その辺りまではこちらをお楽しみ下さい。

 しかし小学生時代、スタートが2年遅れた分を取り戻せず、その2年遅れを最後まで背負って希望の大学に入学しました。そして、弱冠20歳にて4度目の

 意識的に自分の殻を壊す

です。

 入試という他人の決めた知の体系から解き放って自分の知的欲求を基にした学究生活を取り戻す。それを真剣に追求しました。

 意識的に自分の殻を壊す意味で、学業に特化した人生から自分を開放し、生まれて初めて航空宇宙研究会というサークルに入りました。

 その辺りはこちらをお楽しみ下さい。

 当時、大きく3プロジェクトが有りました。ロケットの燃焼実験、コンピュータの製作、アナログシンセサイザーの製作です。
 私はその全てのプロジェクトに参加していました。
ロケットの燃焼実験についてはこちらをお楽しみ下さい。

 コンピュータプロジェクト。

 私が同時代の学生として黎明期のマイコンの進化を楽しみ尽くした話はこちらをお楽しみ下さい。

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 このマイコンの進化で、8ビットマイクロプロセッサーの事実上の標準となったZ80。

 インテルで4ビットの4004と8ビットの8080というマイクロプロセッサーの開発に従事した方々が、その8080の上位互換であるZ80マイクロプロセッサー を1976年に発売。それは、8080よりも高性能で扱い易く、周辺デバイスもラインナップしたため。事実上の標準となったのです。

当時の手の届く価格帯で入手可能なマイクロプロセッサー(少し型遅れ)はこんな感じ。
()内は発売年
80系
Intel 8080(1974年)
Intel 8085(1976年)
Zilog Z80(1976年)

60系
MC6800(1974年)
MOS 6502(1975年)

 “女子部員も混ざって石野真子と河合奈保子(2人共に当時のアイドル)とどっちがかわいいかなんて話をしてる横で、60系に対してインテルなどが設計した80系という石の種類を推す今風に言えば“80オシ”という先輩も居て、研究室では各々の良さをめちゃめちゃ専門的に議論し合うというカオスな世界。”
という話を前々編であるその4.420でご紹介しましたが、

 取り敢えず8ビットマイクロプロセッサーは設計としては60系が美しかったものの商業的に80系が勝利という感じでした。

 因みにこの60系と80系と言う2系統の技術の流れの競合はその後も続きます。

 ミニコンのアーキテクチャと、プログラム分析に基づいて設計されたインテルやザイログ80系はその後8ビットから16ビットへの進化の課程で成功します。スマートさを捨てて愚直に8ビットと16ビットの互換性担保した“不細工な設計“のお陰で、8ビットのソフトウェア資産をそのまま活かせたことでビジネス的に大成功を収めるのです。

 私が卒業する頃、一旦は

“80オシ”という先輩が勝利

という感じでした。

 ですがアップル社が60系(その頃には68系と言うカテゴリ)の劣勢を解消します。

 入部当時アップルのコンピューターも部室に有りましたが、良く熱暴走してしまい、焼きリンゴと言うあだ名が付いていました。今では考えられませんが。その意味では結構昔からアップルユーザーです。
 因みにその後も会社入社当時はコンピューター室に有ったMACを使い、シリコンバレー駐在時も、それを日本に持ち帰り技術系のエンジニアから事務系のセールス&マーケティングに異動するまで使っていました。その後も個人でMac BookやiPod、iPadを買いますが、家族に人気で全て吾妹や子供に。しかし、今も私から子供に渡り、使わなくなって私に戻って来た1番初めに自分用に買ったMac Bookを使ってますのでMACユーザーです。(笑)
 そのMacBookのプロセッサーは80系のIntel Core2 Duo(笑)

今の私の愛機の
MAC Book

プロセッサーはIntel Core2 Duo
MacOS X

 話を大学生時代に戻しますね。

 初期のマイコンは、その後カセットテープからフロッピーディスクになってCP/MというOS(オペレーティングシステム)が登場というような時代になりました。

 この様にマイコンとその周辺機器も充実し始めていました。

 西和彦さんという先輩がアスキーというベンチャー会社を設立していました。シリコンバレーから遅れて日本にもやっとソニーとか松下とは異なるシリコンバレー流のベンチャー設立の黎明期が来ていました。

 その時期と卒業、就職というタイミングが重なりました。行きたいと思える企業がある鉄鋼会社1社しか無く、鉄鋼会社は人気で学部生には学校推薦の枠が残って居ない、残っていても希望者多数という狭き門なので、就職のバックアッププランを2つ用意することにしました。
 その1つは、既に社会人デビューを果たした教育関係でした。

 その辺りは宜しければこちらもお楽しみ下さい。

 当時の生活から順当な出口戦略を考えると
①大学の研究室    →鉄鋼会社
②学習塾       →私塾設立準備
③航空宇宙研究会   →T.B.D.

T.B.D. : To Be Determined 未定、要確定 (そのうち決める(笑))

という状態でした。

そこで、エレクトロニクス関連のベンチャーを用意することにしました。

 たまたま学科もサークル同じ友人と組んでベンチャー企業立ち上げを企画しました。

 上述のZ80と周辺IC(半導体集積回路部品)が出揃った直後、しかもZ80の最大メモリ空間である64KBをたった8個のDRAMで構成できる様になったばかり。DRAMとは当時主流の大容量メモリ。但し情報が直ぐに消えるのでその前に何時も情報を再書込みしなくてはならない(リフレッシュ)使い難いメモリでしたが。

私の頭の中では
①マイコン技術が黎明期から成長期へ
②私自身その技術を系統的に習得済
③8ビットマイコンの部品が出揃った絶好のチャンス
という理解でのスタートでした。

 これで小型のマイコンが作れる様になった直後でしたから直ぐにマイコンを試作し商品化しようと開発を開始。私は時間と手間が掛かるハードウェア開発担当、友人は既存のマイコン上でのソフトウェア開発と営業担当と棲み分けました。互いに開発を進め適宜進捗を確認し合うという作業が進みました。

出口戦略が
①大学の研究室    →鉄鋼会社
②学習塾       →私塾設立準備
③航空宇宙研究会   →マイコンベンチャー設立準備
という状態になりました。私としては万全の就活の布陣。

 幸いにも開発完了が略見通せた10月、お互い希望就職先の内定が出たので休止としました。そのままお互い無事就職が確定、試用期間も無事完了しました。

 ということで、課外活動として選んだ航空宇宙研究会での成果は、ベンチャーのタマゴとして結実しました。ある意味でここでも1つ完結できたたのかなぁという充実感が有りました。

つづく

蛇足
 それなりに美しい戦略だったと

 そして運と勘としつこさが綺麗に出ていたかと

 自画自賛(笑)

超蛇足
 就職後の人生も宜しければこちらでお楽しみ下さい。











  


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