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〈昭和天皇の戦争責任〉と日本人

【旧稿再録:初出「アレクセイの花園」2005年9月19日】

※ 再録時註:アジア・太平洋戦争時において、日本帝国の国家元首であった昭和天皇裕仁の戦争責任は、とうてい免れ得るものではない。しかし、昭和天皇は、戦後にその責任を取ろうとせず、終生だんまりを決め込んだまま、ついに逃げ切った。また、息子である平成の天皇は、そうした父に関する負い目を大いに抱えていたからこそ、戦争で傷つけられた人々の心に寄り添い、特に、沖縄に心を尽くした。なぜなら、父の昭和天皇は、謝罪は無論、沖縄訪問さえ果たさぬままに逝ったからである。このことについて、マスコミは、昭和天皇にとって『果たせなかった宿願』であるとか『苦恨』だなどと表現するが、これは明らかに、歴史的事実に対する「隠蔽工作」のプロパガンダでしかない。昭和天皇が沖縄に行かなかったのは、自身が沖縄を自覚的に犠牲に供したから、恐ろしくて行けなかっただけである。本人が「たとえこの身に危害が及ぶとも、私は沖縄の地に赴いて、沖縄の人々に謝罪したい」と言えば、それを止めることのできる者などいなかったはずだ。したがって、無責任な昭和天皇も昭和天皇だが、その有責性隠蔽に加担した戦後のマスコミも、共犯としての証拠隠滅罪で裁かれねばならない。だが、そうはならない日本だからこそ、今も犯罪者がのうのうと政治権力を握り、絶望に憑かれた人が、テロを行ったりすることにもなったのである。畢竟、日本は、今も昔も、世界に冠たる「無責任国家」だと言うべきであろう)

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高橋哲哉
の新刊『国家と犠牲』(NHKブックス)を読んだ。
あいかわらず裨益されるところ多く、特に、結語として語られる、次の言葉に深く共感した。

『 私の認識はこうです。あらゆる犠牲の廃棄は不可能であるが、この不可能なものへの欲望なしに責任ある決定はありえない、と。
 「あらゆる犠牲の廃棄」とは、特異な他者たちの呼びかけに普遍的に応えることにほかなりません。私たちは「絶対的犠牲」の構造のなかで、しかし、あらゆる犠牲の廃棄を欲望しつつ決定しなければならないのではないでしょうか。』
(P233~234)

この言葉は、理想家にして論争家である高橋哲哉が、しかし、その本質において、いかに「人間的」な人物であるかの事実を明かしている。

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現実を直視し、論理的に思考を推し進めれば、そこに立ち現れてくるのは、絶望的なまでに高く聳え立つ、非人間的な障壁。
そんな『「絶対的犠牲」の構造』という動かしがたい現実を前にしても、彼は「じゃあ、仕方がないから、やれることをやればいいや」と割り切りもしないし、その障壁が「さも存在しないかのように」紋切り型の理想を語り続ける、というニヒリズムにも陥らない。彼は、その絶望的な障壁を直視し、それでもそこに爪を立てて、人間としての尊厳を守ろりぬこうと抵抗するのである。

そんな彼を、人は、魯迅の『狂人日記』やセルバンテスの『ドン・キホーテ』の主人公のようだと、嘲笑するかも知れない。だが、この世界が「人間としての正気が失われた世界=犠牲を求める人食いの世界」だからこそ、彼の人間らしさは「狂気」のごとく映らざるを得ないのであろう。

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さて、本書のこうした主題とはべつに、その事実内容だけで、私に強い印象をあたえた報告記事があったので、そちらを紹介したい。

『昭和天皇は一九七五年、初めてアメリカ合衆国を訪問します。米国訪問から帰ってきた時に、日本記者クラブで記者会見をしましたが、そのとき記者から次のような質問が出ました。「戦争終結に際し広島に原子爆弾が投下されたことを、どのように受け止められましたか」(以下、読売新聞、一九七五年一〇月三一日付朝刊第一面より)。これに対する昭和天皇の答えはこうでした。「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民には気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」。このときの質問は、「原爆が投下されて広島・長崎の市民が悲惨な目にあったけれど、それについてどんな印象をもっているのか」という一般的な質問とも考えられますが、しかし「遅すぎた聖断」に関わる事情を知っていれば、実は「自身の戦争責任についてどう考えるか」という質問とも受け取れなくはありません。それに対する昭和天皇自身の答えが、「戦争中である」ので「やむを得ないこと」というものだったわけです。
 また、この時の記者会見ではもうひとつ重大な質問が発せられました。「いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」。これに対する昭和天皇の答えはこうです。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」。驚くべき回答ですが、この記者会見の模様を当然一面トップで伝えた翌日の新聞各紙の紙面を見ますと、戦争責任について「言葉のアヤ」云々と答えたことではなく、広島市民に対して「気の毒だかやむを得ない」と答えた方が見出しになっています。実際に記者会見でやり取りがあったにもかかわらず、新聞紙面では見出しにできなかったということでしょう。』(P74~75)

ここを読んで、私にもぼんやりとだが、「たしかに、昔そんな言葉を聞いたことがある」という記憶が甦った。

しかし、たぶん当時13歳の私は、この昭和天皇の言葉の意味を、十全に理解できなかったのであろう。
政治や歴史には興味のなかった若い頃の私は、たぶん、この言葉を聞いて「そりゃ戦争なんだから仕方ないよ。戦争は殺しあいなんだから、持ってる武器なら何でも使って当然だ」というくらいにしか考えておらず、昭和天皇が「その戦争で、どんなに重大な役割をはたしていたか」など、その「虫も殺さぬような、お爺さんぶり」からは知る由もなかったのである。

ちなみに、高橋哲哉がここで言っている『遅すぎた聖断』とは、次のような事情である。

『原爆投下に関する天皇の責任問題とは何か。米軍が投下した原爆についてなぜ昭和天皇が責任を問われうるのでしょうか。
 まず第一に、仮に天皇の「聖断」によって戦争が終わったと考えるにしても、その「聖断」は「遅すぎた」のではないか、という問題があります。いわゆる「遅すぎた聖断」という論点です。大本営で戦争最高指導会議が開かれ、降伏か抗戦かを議論していたのはなぜか。ポツダム宣言が連合国から発せられ、日本の無条件降伏が迫られていたからです。ところがこれに対して、当時の鈴木貫太郎内閣は「黙殺する」ということを公然と述べていた。というのも、それまで日本政府が求めていた「国体の護持」すなわち天皇制の維持が、ポツダム宣言によって保証されているのかどうかを政府が疑っていたからです。ここから、昭和天皇の最大の希望でもあった「国体の護持」の保証を求めて日本政府がポツダム宣言の受諾を遅らせたことで、それをすみやかに受け入れていればストップできたかもしれない原爆投下を許してしまった、という議論が出てくるのです。そうだとすれば、天皇制の維持を最大の目標とした昭和天皇の「遅すぎた聖断」の責任が問われなければならないことになります。
 第二に、「遅すぎた聖断」は、広島・長崎についてばかりではなく沖縄戦についても問題になります。なぜか。一九四五年二月一四日のいわゆる「近衛上奏」を昭和天皇が斥けていたからです。このとき近衛文磨元首相は昭和天皇に対して「上奏文」を書き、〈戦況は悪く、このままいけば敗戦は必至であり、敗戦となれば昭和天皇の最大の願望である「国体の護持」自体が危うくなってしまう〉として、すみやかな終戦工作を促したのです。
 ところが昭和天皇は、「軍部では米国は日本の国体変革まで考えていると観測しているようである。その点はどう思うか」と近衛を問い詰め、「〔終戦工作は〕もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」(以上、『木戸幸一関係文書』)として、近衛の上奏を斥けました。
 この時に昭和天皇が近衛の上奏を容れて終戦の決断を下していれば、その三月末から始まった沖縄戦の地獄はなかったことになります。広島・長崎だけではなく沖縄にとっても、昭和天皇の「聖断」はあまりにも遅すぎた。いやそれだけではなく、近衛上奏だけ考えても、それ以後に生じたあらゆる戦争被害者にとって天皇の「聖断」は「遅すぎた聖断」だったのです。』(P72~73)

先の大戦時、天皇は、統治権の総覧者であり主権者、そして三軍の長だったのだから、もとより「敗戦責任」を含む「(国内外に関する)戦争責任」は、とうてい免れうるものではない。
たとえ、明治憲法が天皇の免責規定を明記していたとしても、「権限はあるが、責任は無い」などという「恥知らずな立場」を、人間として(ましてや、現人神や国民の象徴としても)とうてい受け入れられるものではないはずである。

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一一しかし、現実には、昭和天皇は、自らの戦争責任を問われて『そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます』と、ヌケヌケとトボケてみせたのだ。

『研究』しなければ、ごく普通の日本語も理解できないと主張するような厚顔無恥な男が、かつては日本の最高位に君臨し、国民から神として崇められ、いっぱしの口をきいて政治家や軍人を指揮し、国民に「勅語」を垂れていたのである。

もちろん『文学方面はあまり研究もしていない』という言葉には、「私の専門は、生物学である」という含みがあるのだが、昭和天皇が「人文科学」系の研究者になりえなかったのは、彼がすでに「国民の象徴」として「思想」や「哲学」を語れない立場に「安住」していたからに他ならない。
つまり、昭和天皇は決して、子供の頃からずっと「生物学」ばかりやってきたわけではなく、旧憲法下における「天皇」として、まず第一に「帝王学」を学び、そのなかで「戦争学」を学んでいる。
だから、「戦争責任」という言葉の意味がわからないなどというのは、かつての自分に頬かむりをして、責任逃れをしている、としか言えないのだ。

そう言えば、最近、これと似たような発言をして、「世間」の物笑いになった、民間の「天皇」がいた。

『 そういう(※ 企業モラルの低下という)意味でエポックメイキングだったのは、富士通の秋草直之社長(当時)の発言です。業績が悪いのは「従業員が悪いからだ」とインタビューで答えています(『週刊東洋経済』二〇〇一年一〇月一三日号)。この『週刊東洋経済』の記事は、ITの時代にもかかわらず、富士通が十七年前の連結決算最高純利益を更新できず、しかも過去一〇年間で一度しか社長が替わっていないことを指摘していました。秋草社長は自らの経営責任について、次のように答えています。

一一就任以来ずっと下方修正が続いている。社長としての責任をどう考えるのか。
秋草 くだらない質問だ。従業員が働かないからいけない。毎年、事業計画を立て、その通りやりますといって、やらないからおかしいことになる。計画を達成できなければビジネスユニットを変えれば良い。それが成果主義というものだ。
一一従業員がやらないから、といえばそうだが、まとめた責任は社長にあるのではないか。
秋草 株主に対してはお金を預かる運営しているという責任があるが、従業員に対して責任はない。やれといって、(社長は従業員に)命令する。経営とはそういうものだ。

 社長がここまで言っちゃあおしまいです。トップがこれほどにも無責任な態度をとって、にもかかわらず許される空気に(※ 今の日本の経済界は)なってしまいました。
 (中略)
「業績が悪いのは社長である私の責任です」と言うのが社長の仕事でしょう。けれども、わかっている人はその言葉の裏を知っているという、一種のお約束がちょっと前まであったはずです。高い地位にある人はそれなりに責任を持っている。会社の不振を従業員のせいや経済環境のせいにしてすまされるのなら、社長などいりません。』
(斎藤貴男『希望の仕事論』、P40~51)

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「責任逃れをする最高責任者=社長=昭和天皇」と「それを許してしまう社員=日本国民=(元)臣民」。
言うべきことを言えない、こんな情けない「国民性」だからこそ、を、「外」からは笑い者にすることはできても、「内」側では不満の声ひとつ挙げることも出来なかったのであろう。

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(「富士通」元社長・秋草直之)

ともあれ、国民がいかに情けなかろうと、それで長たる者(責任者)の責任が免除されるわけではない。つまり『高い地位にある人はそれなりに責任を持っている』。
「敗戦」を部下のせいや国際情勢のせいにしてすまされるのなら、最高責任者としての最高司令官(最大最高の権限を有するが故に、最大最高の責任を担うべき者)などいらない。つまり、皆が、てんでばらばらに、自己責任において行動すれば良い、ということになってしまうのである。

そして私は、こんな「昭和天皇」をいまだに批判できない「右翼」を、本物の右翼だとは思わない。
本来、右翼とは、何よりも「日本人としての誇り」と「道義」を重んずる存在だ、と考えるからだ。

したがって、本来ならば「昭和天皇」は、左右共闘して批判し、少なくとも退位くらいはさせるべきであった。
なにしろ「昭和天皇」は、貧困にあえぐ庶民の生活を憂いて決起した「2・26」の青年将校たちの期待を裏切り、敗戦では最高責任者としての責任からスタコラ逃げ出した男なのだ。

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日本は、「戦後責任」を含め、そうした「けじめ」を何一つつけないままにここまで来たからこそ、何ごとにおいてもいい加減な「国民性」を、ここに来てさらに増大させるにいたった。
「憂国の情」があるのであれば、思想の左右を問う前に、理非曲直をただせ、というのが、一人一党の、私の思想であり立ち場なのである。


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