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兵頭喜貴 という男 :映画 『HYODO 八潮秘宝館ラブドール戦記』

映画評:福田光睦監督『HYODO 八潮秘宝館ラブドール戦記』


どこから紹介していいのか迷ってしまう作品なのだが、とにかく「興味ぶかい」作品だと言えるだろう。「観るのが怖い」という人以外は、是非とも見てほしいし、その上で「当たり前とは何か」「普通に生きるとは、どういうことなのか?」ということを、是非とも考えてほしい。
たぶんこの映画は、「自由に生きたいという衝動に駆られ、そのようにしか生きられない男」の姿を撮した作品だと言えるだろう。だが、そこから顧みると、私たちの「普通の生き方」が、いかに無理に無理を重ねてのものなのかがわかるはずだ。

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ともあれ、まずは、この映画の大筋の紹介として、次の「解説」(映画.com)と「予告編映像」をご覧いただきたい。

『自宅を世界で唯一のラブドール秘宝館にした男の日々を追ったドキュメンタリー。

埼玉県八潮市の住宅街の真ん中で、世界唯一のラブドール秘宝館といわれる「八潮秘宝館」を経営している兵頭喜貴。かつては「ラブドール写真家」として活動していた彼は、知り人ぞ知るマイナーな写真家のひとりに過ぎなかった。しかし、自宅を「八潮秘宝館」として公開したことで人生は一変する。秘宝館には海外からメディア取材や観光客が訪れて観光スポットと化し、兵頭もラブドール文化を発信する第一人者として注目を集めるようになった。

本作では、そんな兵頭が、いかにして自宅を秘宝館として公開するに至ったのか、原因不明の脳障害発症や、数百万円の被害を被ったラブドール誘拐事件の顛末なども交えて、その深淵に迫っていく。』

この予告編だけを見ると、ちがう意味で「アブナイ」人だと誤解してしまうかも知れないが、本編の主人公である「兵頭喜貴」の「危なさ」は、もっと深いものだ。

どういうことか。一一この予告編だけだと「いかにも変態妄想的な秘宝館」の様子が紹介される反面、「靖国神社の例大祭に、従軍看護婦のコスプレをさせたラブドール」を持ち込んで展示してみたり、兵藤の口から発せられる「獣の本能むき出しでさあ、犯されるんだよ」とか「どうやって名誉を毀損させるんじゃっちゅうこと!」といった、なにやら「犯罪がらみ」かとも思えるセリフが、この予告編では切り取られており、そのあたりで「誤解」を招くであろうからである(特に後者などは、宴会での酔った際の様子だから尚更だろう)。

だが、こうしたものをひとつずつ説明すると、以下のようになる。

 ○ ○ ○

「いかにも変態妄想的な秘宝館」の様子だが、これは兵藤が自宅に開設した、「八潮秘宝館」の様子を写したものである。
もともとは、兵藤が個人的に自宅保管し飾っていたラブドールを含む人形たちであり、その様子をネット配信したところ、日本国内に止まらない反響があった。
埼玉県八潮市に所在する兵藤の自宅のそんな様子を、友人が「まるで八潮秘宝館だな」と評したことから、その名称を採用して、自宅コレクションの一般公開を始めたのが、この「八潮秘宝館」なのである。

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兵藤は、もともと学生時代には、美術部や写真部などに所属し、大学では特撮研究会の部長をつとめるなど、「画像・映像、あるいは模型」に対して、興味もあればセンスもあった人で、そこへ青年期の性欲がからむことで、ほとんど必然的に、マネキンやラブドールの方へ惹かれていった人だと言えるだろう。

こう説明すると、今や歴史上の人物たる「宮崎勤」系列の「オタク」か、という短絡的な連想が働きがちだろうが、私の感触では、それはちょっと違う。

結果として、人形コレクションができてしまったとはいえ、それは、凡庸な「オタク」の常である「コレクションのためのコレクション」などではなく、兵藤の場合は「それを使った自己表現」という側面が強く、一般的な「オタク」によくある、みんなが感心する(コレクションしたがる)ような「一般的な評価の定まったモノ」を蒐めたりはしない。
兵藤の場合には、それらのコレクションは「自分個人に必要なもの」であって、「人が欲しがるようなものが欲しい」ということではないのだ。

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例えば、性処理を主目的とするラブドール(ダッチワイフ)は、「コレクションするもの」ではなく「使用するもの」である。
兵藤と人形との「リアルな関係」は、山に不法投棄されていたマネキン人形を拾って帰ってきたところから始まるのだが、これには明らかに「性的」意味合いがあって、コレクション目的などではあり得ない。

私は、兵藤より9つ年上で、おおよそ同世代といって良いだろうが、ネット以前の昔の子供たち(ローティーン)によくある体験に喩えるなら、兵藤のそれは、河原や空き地の草むらに捨てられていた「エロ本」をこっそり拾って持ち帰り、それでマスターベーションをした、といった「ありふれた」話と同様のもので、その「エロ本」にあたるものが、「マネキン人形」という、いささか「大物」だったという違いだけなのだ。

ちなみに「エロ本」は、昔は書店か自動販売機でしか買えなかったのだが、この場合には人目があって、子供には手に入れにくかった。だからこそ、捨てられていた、いささか汚れたエロ本でも拾って帰る気にもなれたのである。

9つ下の兵藤の場合、私の子供の頃に比べれば、エロ本くらいなら、かなり手に入りやすくなっていたのかも知れないが、性的な対象となりうる「リアルな人形」となると、やはりそう簡単には手に入らなかっただろうから、かさ張るマネキンを拾って帰るなどという大仕事もできたのであろう。もちろん、その頃すでに、彼は自立していたから可能だったのだろうが、いずれにしろ、常人にできることでないというのも確かだ。

さて、その拾ったマネキンだが、それは単純に「マスターベーションの具」になっただけではない。そこが彼の、凡人とは違ったところで、独自の美的センスを持つ兵藤は、それを自身の美意識にしたがって装飾するということをした。たしかに、マネキン人形は性処理の道具であったが、彼の自己表現の道具にもなったのだ。

そしてその後、念願かなって高価なラブドールを購入したのも、もちろん、より直接的な「性処理の道具」であった反面、彼の表現の道具ともなり、やがて彼はそうした人形を使った写真作品を、ネット上で公開するようになる。
つまり、彼は、たしかに「普通の人」ではないけれども、単純に「ヘンタイ」といって済まされるようなものでもなかった。一方で彼は、たしかに「表現者」であり、その結果が、彼の写真作品や、自宅の人形コレクションの発展した「八潮秘宝館」なのである。

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本作『HYODO 八潮秘宝館ラブドール戦記』にコメントを寄せている、都築響一は、『(※ 上智大学)在学中から現代美術・デザイン分野でライター活動を開始、『POPEYE』の創刊にも携わった。卒業後はフリーランスの編集者として『POPEYE』『BRUTUS』(マガジンハウス)などで活躍する。その後、それまであまり被写体にされなかった東京の生活感あふれる居住空間を撮り『TOKYO STYLE』(京都書院、後に筑摩書房刊)としてまとめ、写真家として活動』も始めたという、きわめて都会的かつ独自のセンスを持つ『写真家、編集者、ジャーナリスト』なのだが、その都築には『日本各地に散在する秘宝館や村おこし施設など悪趣味な珍スポットを追う写真ルポルタージュ『珍日本紀行』が雑誌SPA!に掲載され、写真集『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、後に筑摩書房)としてまとめられ、第23回木村伊兵衛写真賞受賞。』という作品もあり、このあたりで、兵頭喜貴との接点が出てくる。
そして私も、この『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』を、刊行時に購読していた。私もまた、すでにほとんど失われていた「秘宝館」という「キワモノ文化」にとても惹かれていたからであり、そうした点では、私には確実に、兵藤と通ずるものがあったのだとも言えよう。(『』内の引用文は、WIKIpedi「都築響一」より)

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ともあれ、兵藤は、単なる「変人」とか「変態」などではない。
彼は、確実に、独自の美意識を持っており、それは彼の作品に明らかことだ。

たしかに兵藤の作品には「秘宝館」的な「性的桃源郷妄想」の要素があるのだけれど、私が実際の「秘宝館」に感じていた、弱点としての「泥臭さ」「田舎臭さ」「頭の悪さ」が、兵藤のそれには無い。
兵藤の、ライトアップされた人形コレクションは、明らかに「洗練」されたものであり、「ポップ&グロテスク」なものではあっても、決して「スケベ」なものではないのである。まただからこそ、そうした点が、偏見を持たない海外の人たちをして「ヘンタイ・アート」と呼ばしめるところともなったのだから、「八潮秘宝館」の人形コレクションを評価する場合には、そうした点を、決して見逃してはならないのだ。

したがって、ある意味で、兵頭喜貴の人形コレクションは、澁澤龍彦が愛した四谷シモンの人形に、過剰な生気をぶち込んだ、対極的に躁病的な「人形オブジェ」だとも言えよう。要は「高等趣味などクソ食らえ!」の「逆・四谷シモン」なのである(四谷シモンが「青木画廊」系なら、兵頭喜貴は「ヴァニラ画廊」系だとも評しよう)。

 ○ ○ ○

では、兵藤が「靖国神社の例大祭に、従軍看護婦のコスプレをさせたラブドール」を持ち込んで展示するというパフォーマンスの方は、どう考えるべきだろうか。

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まず、映画本編で兵藤本人の口から語られていることだが、兵藤が「靖国神社」に着目したのは、靖国神社(の遊就館?)に「従軍看護婦」の人形とともに、「生人形」というものが飾られていることを、人形つながりで知ったことからのようだ。

言うまでもないことだが、先の戦争では、多くの若者たちが祖国のために死んでいった。その中には、多くの未成年男子が含まれており、端的に言えば、彼らは「童貞のまま(女性の体を知らないまま)」死んでいったのである。だから、そんな若者たちの魂を安らがせるためのものとして、靖国神社には「生人形」が供えられているのである。

で、兵藤は、そうしたことから「靖国神社」の人形に興味を持ち、そこには「従軍看護婦」人形のあることも知った。
靖国神社に祀られているのは、軍人だけではなく、軍属に含まれなかった「従軍看護婦」なども祀られているのだが、その事実が一般にはまったく知られていないため、兵藤は「靖国神社の例大祭で、従軍看護婦の人形を展示する」というパフォーマンスを始めた、というわけである。
まただからこそ、最初は「何事か」と色めき立った右翼たちも、その趣旨を認めて、兵藤のパフォーマンスを好意的に見守ることにしたようだ。

だが、兵藤の「靖国神社の例大祭で、従軍看護婦の人形を展示する」というパフォーマンスを、「軍人と同様、戦争の犠牲になりながら、多くの人々に知られることのなかった従軍看護婦の、御霊を慰めるため」といった「キレイゴト」だけで理解するのは、あまりも浅薄であろう。

なぜなら、「八潮秘宝館」の作品の中にも「軍服を着たラブドール」があるし、兵藤の作品には、しばしば「軍服姿のラブドール」が登場するからである。
つまり、「戦死者の魂を慰める」といった殊勝な意図だけではなく、兵藤には、明らかに「軍服的なものへの偏愛(フェティシズム)」を見てとることができるのだ。

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この映画の中で、兵藤は、ラブドールを自宅の風呂場で洗浄しながら、その小さめの乳房について「このくらいの大きさが、いちばん好きですね」みたいなコメントをしていたのだが、多くの人が感じられるとおり、兵藤の愛する人形の多くは「十代後半の日本人女性」的なものが多い。
つまり、「ロリコン」趣味というほど幼い少女人形ではないが、かといって、明らかな「成熟した女性」という感じでもなく、まして「金髪碧眼ダイナマイトボディーの白人女性」という感じのものなど見当たらない。つまり、「巨乳」や「熟女」といったものは、兵藤の好みではないのだ。

で、こんな、いわば「ロリコン気味」な傾向のある「オタク」には、しばしば「ミリタリー趣味」がある、というのはよく知られたところで、いまだに「聖地巡礼」の対象となっているテレビアニメ『ガールズ&パンツァー』なども、そうした趣味の商業的に洗練されたものと言えるだろう。

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また、こうした「ロリコン気味」かつ「ミリタリー趣味」のある、ひと昔前の人にはしばしば、トレヴァー・ブラウンのイラストに代表される「自傷少女」趣味とでも呼ぶべきものへの嗜好があり、「全身傷だらけ」とか「ゾンビ少女」とか「眼帯少女」とかいったものに惹かれる人が一定数いたのだが、そうした趣味のソフィスケートされたものの一例が『新世紀エヴァンゲリオン』の「包帯ぐるぐるの綾波レイ」なんかだったのであろうし、逆にその古典的なものが、ふた昔前の「SM雑誌」の口絵で描かれた「軍服少女への虐待(あるいは切腹)」といった特殊設定だったのではないだろうか。

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つまり、兵頭喜貴にも「少女・ミリタリー・自虐(虐待)」という一連の傾向があり、これは明らかに「性的」なニュアンスを含んだもので、「靖国神社の例大祭で、従軍看護婦の人形を展示する」というパフォーマンスもまた、こうしたものの延長線上のひとつと見て良いのである。

そして、そういう意味で言うと、右翼をも納得させた兵藤のパフォーマンスには、実のところ「神聖冒涜的な性的欲求」が秘められているように思う。「神聖・清浄」な場所に「性的なもの=不浄なもの」を持ち込むからこそ、その「禁忌性」が際立って「気持ちがいい」という感覚である(バタイユ的「侵犯」)。
また、いささか穿った見方ではあろうが、右翼たちにしたところで、兵藤のそうした「秘められた欲望」を、単純に「見抜けなかった」ということではなく、なにより彼ら自身の中に、多少なりとも同種の欲望を感じたからこそ、兵藤のパフォーマンスに、ある種の「共感」さえ感じた、ということなのではないだろうか。

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残るは『「獣の本能むき出しでさあ、犯されるんだよ」とか「どうやって名誉を毀損させるんじゃっちゅうこと!」といった、なにやら「犯罪」がらみかとも思わせる兵藤のセリフ』の問題だ。

前者については、兵藤が犯す側ではなく、「犯された(かけた?)」という話でしかない。
彼が「ヘンタイ・アート」活動を大っぴらに行なっていることから、彼のもとには、様々な「変態的欲望」を抑圧して生きてきた男女が、全国から這い寄ってくる。
そして、そうした中で、兵藤の自宅でもある「八潮秘宝館」に見物客としておとづれた女性が、いきなり彼を拘束し、彼を(どのようにしてかは詳細不明だが)犯そうとした(犯した)といったこともあった、という話を、彼はここでしていたのだ。

後者の「どうやって名誉を毀損させるんじゃっちゅうこと!」というのは、彼が山中の廃墟で、人形を使った写真撮影に行った際に発生した、盗難がらみの発言である。

撮影が1日では片付かず、翌日も撮影を続行するため、搬入した人形数体を、撮影現場である廃墟にカバーをかけて置いておき、彼自身は少し離れた車の中で寝て、翌朝、撮影現場に戻ったところ、人形がすべて盗まれていたという、これが「ラブドール誘拐事件」なのだが、これに関しての言葉だ。

盗まれた人形がネットオークションに出品されているのを知った兵藤は、それを自ら落札して犯人を特定し、被害届を出そうとするが、それがうまく進まず、途中からは民事で犯人を訴えることになる。
その民事裁判が始まってから、警察もやっと動き始めて、民事・刑事の両面で裁判が進んでいく中で、犯人は、自らの犯行を認めながらも、兵藤がネットなどで、犯人を晒しものにしたことを「名誉毀損」で訴えたのだ。つまり、このこと指して、兵藤は、犯人に対して「もともと名誉もクソもない泥棒に対し、どうやって名誉を毀損させるんじゃっちゅうことだ!」と、酒の席でカメラに向かって啖呵を切ったのが、予告編映像に切り取られた部分である。

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一一そんなわけで、いずれにしろ彼は「被害者」であって、彼自身の行動に関する「アブナイ」話をしていたわけではなかったのだ。

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以上のように、兵頭喜貴は決して、いわゆる「犯罪」的な、行い、あるいは、その人脈において、「アブナイ」人なのではない。
彼の「危なさ」は、あくまでも「表現者としての自由奔放さ」においてであり、それは基本的には、責められるべきことではないし、また、軽んじられて良いことでもない。
言い換えれば、「こいつ、変態だな。ワハハ」と笑って済ませられるほど、無内容な人間ではない、ということだ。

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彼の「芸術」作品が問うているのは、端的に言えば、私たちの「良識」であり「常識」であり、良識化された「美意識」の凡庸さである。

たしかに、彼の芸術は「キワモノ」だとは言えるだろう。少なくとも「公認芸術の王道」に属するものでないのは、素人目にも明らかなはずだ。
だが、だからといって、彼の「芸術」が「間違っている」などと言えるだろうか?
そもそも「芸術」に「正しいとか間違いだとかいった基準」などあるのだろうか。あるいは、そんな基準を認めて良いものなのか?

むしろ、「芸術」というものは、私たちの「制度化され、標準化され、常識化された美意識」を揺るがすものでなければならない、のではないか。

「芸術」とは、普通の場合ならば、私たちが「美しい」と感じるもののの「さらに上をいく美しさ」というものが求められるのであろうし、それならば私たち「凡夫」にもわかりやすい。「こんな、すごい(想像もできない)美しさがあったのか」ということで、多くの「凡夫」たちも、それを「芸術」であり「美」であると認めるだろう。

だが、「超える(スーパー)美」ではなく、「反(アンチ)正統美としての美」つまり「常識的な美意識を、相対化する(別の)美意識」となると、多くの「凡夫」は、それに拒絶反応を示してしまう。
何故ならば、それは、彼らの寄って立つ「美意識」を拡大強化するものではなく、相対化して揺るがすものだからだ。

そして、兵頭喜貴という「芸術家」の面白さは、彼の作品が、そうした「反芸術」としての「キワモノ性=周縁的挑発性」を持っているというだけではなく、彼という存在がそのまま、「普通の人間」という「常識」や、「普通の人間の良識」までもを揺るがす点にこそあるのではないか。

この映画にも紹介されている、彼がラブドールとセックス(?)をする様子を定点撮影しただけの初期映像作品ついて、多くの人は、「非モテ男の悲劇」といった文脈であざ笑い、そのことで「こいつとは違って、自分は、普通に女とセックスができる」ということを示そうとするだろう。
だが、実際のところ、すべての男性が、セックス相手としての女性に困らないわけではない。だからこそ、昔から「あぶな絵」だ「エロ本」だ「エロDVD」だといったものや、「売春業」に需要があるのである。

つまり、ラブドールとセックスをする兵藤の姿は、「あぶな絵」や「エロ本」や「エロ動画」を使ってマスターベーションしたり、わざわざ金を払って生身の女性にセックスをさせてもらう男性たちの、「人には見せたくない、いささか情けない本性」をあぶり出し、その「本性を見せられない、意気地のなさ」を告発する性格を、意図せず帯びているのである。一一「あぶな絵」や「エロ本」や「エロ動画」を使ってマスターベーションしたり、わざわざ金を払ってセックスをさせてもらうこと(買春)と、ラブドールを購入して、それとセックスをすることとの間に、一体どれだけの逕庭があるのかと。いずれにしろ、相手は「人間ではない」ではないか。

このように、両者の行為に本質的な差はないのだが、「見栄っ張りの非モテ男」と兵藤の間には、その「覚悟」において、大きな開きがある。
またそれゆえ、兵藤が臆することなくラブドールを相手にセックスする姿は、世の多くの男たちには「脅威」であり、だからこそ、兵藤を「非モテ男」とバカにし、笑い飛ばすことで、視野の外に追いやりたいのだ。

したがって、兵藤の「人形たちの世界」の「魅惑性」もまた、単純に「美しい」とか「カワイイ」といったものではない。
それは、「美しい」ものを相対化し、「カワイイ」ものをあえて変形させ、毀損してまで「異形化」するところにこそある。つまり、彼の作品の「魅力」とは、限りなく「怖いもの見たさ」の刺激に近いものなのだ。

そして、こう考えてくれば、彼の「芸術」の本質が、「死への接近」であるというのがわかるだろう。

「人形という、人型の死物」「豊満な女体ではなく、未熟な女体」「人形との、生命を生むことのない、不毛なセックス」「偏愛するものを、あえて損壊する行為」「神聖冒涜」一一こういったことはすべて、「生」というものの裏側に貼り付いている「死」を指し示すものだとは言えないだろうか。

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どう見ても「生き急いでいる」としか思えない兵藤の「過激さ」や「挑発性」といったものは、私たちが「日常」や「良識」や「常識」や「社会的に普通」であることの中で見失ってきた、「生の燃焼」の本源的な強烈さを、「逆照射」するものなのではないか。

彼がどうして、このような人間になったのかはわからない。だが、彼が、この衰弱死しかけている「現代の日本」に、必要な存在であることは確かだと、私にはそのように感じられる。

兵頭喜貴もまた、ひとりの「黒い太陽」なのではないだろうか。

(2022年9月29日)

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