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浜崎洋介 『小林秀雄の「人生」論』 : 「小林秀雄の伝統主義」を解説する 〈伝統主義者〉

書評:浜崎洋介『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)

「権威者」の解説者には、よくよく注意しなければならない。なぜならそれは、客観的解説のふりをして、じつは自身の考えを権威づけようとするものでしかないことが、少なくないからだ。

そうした場合の「着眼点」としては、どれだけ解説者(論者)の個性が、そこに「正直」に表現されているかである。つまり、一見したところ「公正中立」的に「謙虚」に論じているかのような「体裁」のものは、かえって「怪しい」と考えるべきで、おおよそ「詐欺」の類いとは、そういうものなのである。

実際、本書で論じられている「小林秀雄」という批評家は、きわめて「個性的」な書き手であったというのは、彼の支持者であれ批判者であれ、一致した評価であったし、それは本書の著書とて同じである。
なのに、そんな「小林秀雄」を肯定的に論じている解説者自身が、自分の「個性」を隠して、読者受けの良い「公正中立」的に「謙虚」な姿勢を採っているとしたら、それこそ、その点を怪しんでしかるべきだというのは、理の当然であろう。

だが、多くの読者は、「わかりやすい(「そうそう、そうだ」と感じる)」という点で「自分の考え」が追認されていると感じられるものを、飛びつくようにして是認してしまいがちである。そこでは、「正しい説明だ」というのと「同意見だ」というのが、簡単に同一視されてしまっているのだ。

「大筋においては同意見だったとしても、論者の語り方には、何か引っかかるところがある」といった、文学的「直観」を働かせるような読者は、ほとんどいない。また、だからこそ、多くの「通俗解説者」は、いかにも「公正中立」的かつ「謙虚」に、「わかりやすい」解説をして見せるのである。

だが、この「わかりやすさ」にこそ罠があると、「文学」読者は、そう考える「感性=直観」を持っていなければならない。「文学作品を読む」とは、「パズルを解く」のとは違うのだということを、「文学」作品に向き合うことの中で感じ取るべきなのだ。

以前、現代思想家・國分功一郎の著書『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』を論じて、私は同趣旨の書評「「わかりやすい」という〈陥穽〉」を書いた。
この本のAmazonレビューを読んでもらえば明らかだが、レビュアーの多くが、國分書を高く評価するポイントは「わかりやすい」ということである。つまり、レビュアー自身の思考努力はほとんど必要なく、この本を読めば、スピノザの思想の基本的な部分が「わかった」ように思えるという点において、同書をほとんど手放しに、高く評価しているのである。

そして、こうした点において、浜崎洋介に手になる本書『小林秀雄の「人生」論』の評価も、まったく同じなのだ(同じ肯定的レビュアーもいる)。

本書もまた、小林秀雄の「考え方」をわかりやすく解説するものとして、高く評価することができる良書である。ただし、ここで語られていることが、本当に「小林秀雄の考え方」であるという保証などはない。事実、本書の中で著者の浜崎は「批評対象を通して、自分を語ることが、批評の真髄である」という趣旨の「小林秀雄の考え方」を、肯定的に紹介しているのだ。

だが、そんな「小林秀雄の中に自身を見出す」ことのできる浜崎自身の書き方は、前記のとおり、小林秀雄的ではなく、「公正中立」的に「謙虚」に論じているかのような「体裁」のものなのだ。
だから、私は、本書における「小林秀雄論」を、その大筋において「的確な読解」だと認めつつも、その「小林秀雄論」を「梃子」にして語られた、見えにくい浜崎自身の考え方のほうは、きわめて怪しいと考えるのである。

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その「怪しい」部分とは、端的に言って、文学、あるいは思考における「伝統」の重要性の強調である。
つまり、小林秀雄の、そして浜崎洋介の「伝統主義」だ。

もっとも、老獪な「伝統主義者」である浜崎は、単純に「小林秀雄が伝統の重要性を語っているから、伝統は重要だ」などというような、幼稚な説明はしない。

小林は「伝統」の重要性を語ったけれども、それは「イデオロギー=様々なる意匠」の一つとしての「伝統主義」ではない。無根拠な「私(主体)」を根底で支えている「選択不可能な事実としての伝統」だ、という具合に語って、マルクス主義をはじめとした、外来の「近代主義」のいろいろを「イデオロギー=様々なる意匠」だとして、日本人には否定しがたい「日本の伝統」である「日本語」を差異化し、それこそが「伝統」であると定立して見せるのである。

これは、いかにも巧みで説得的な論法であり、こうしたことは、メディアにしばしば登場するような、頭の悪い「棒読み伝統主義者」には真似のできないことだ。だが、だからこそ危険であるし、取り扱いに注意すべきものであり、その点で「文学」的に読まれなければならない。「1+1=2」的な読みでは、その「レトリック」によって、簡単に「洗脳」されてしまわざるを得ないだろう、ということなのである。

考えても見て欲しい。本書を読んで、一般的な読者が最終的に「得るもの」、あるいは「与えられるもの」とは何であろう。一一それは、われわれは日本の「伝統」を学び、その「根底」に支えられて「思考」すべきである、といったようなことであろう。
言い換えれば、そこでは、すでに私たちの血肉になって久しい「西欧」や「近代主義」との真剣な対決が、免除免責されている。それは、すでにペンディング(保留・先送り)ですらなく、私たち日本人は、「西欧」や「近代主義」との対決を、実質的に免除されてしまっているのである。だから「楽」なのだ。

だがこれは、小林秀雄の正宗白鳥との「論争」と、その後の小林の正宗白鳥再評価を通して、浜崎自身も否定していることなのだ。
「近代主義=人間主義」を正直に輸入して受け入れた「自然主義文学」者たちは、「舶来好き」の安易な「主義者」だと理解して否定すればよいといった、そんな単純な存在ではない。彼らは、拒絶し得ない「時代の波」としての「西欧」や「近代主義」を、その身をもって受け止め、対決した人々だと評価することもできるからである。
そして、このことは、小林が対決し続けた「マルクス主義」についても言えることなのだ。

したがって、本書の難しいところは「小林秀雄」の解説として語られている「小林秀雄の考え方」と、著者である浜崎洋介の考え方が、必ずしも同一ではないという点であり、それがわかりやすく、正直に表明されていない(隠されている)点であると言えるだろう。

ところが、多くの読者は、そこまで本書を読み込もうとはせず、ただ「字面を追って満足する」に止まっている。
それが著者の狙い(読者コントロール)であったとしても、しかし喩えて言うなら「物語の筋しか追えず、そこに秘められた思想に無頓着な読者」というのは、決して「読める読者」とは呼べないだろう。

言うまでもなく、「文学」というのは、「筋」を追うだけでは、まったく不十分なのだ。
娯楽小説(エンターティンメント)なら、それで良いのかもしれないが、そうした読み方は「文学」的ではない、ということを、私たちは、小林秀雄をはじめとした、優れた批評家に学ぶべきだろう。
テキストに「筋以上のものを読み込む」彼らは、間違いなく「個性的」だし、その個性を隠そうともしない。なぜならば、彼らの「個性」は、「筋以上のもの」としての「真理」に通づるための「鍵=個性」だからである。

そして、私のこの主張(読解)は、決して本書の主張と、矛盾してはいないはずである。

(2021年12月8日)

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