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NHK100分de名著 西田幾多郎『善の研究』第3回「“純粋経験”と“実在”」

今回は第3回です

第1回「生きることの“問い”」はこちら
第2回「“善”とは何か」はこちら

以下、番組の内容です
今回は西田の中心概念が登場するため、さらに盛りだくさんです☺️

西田は、真の“実在”とは何かについて徹底して思索した
“純粋経験”という概念を考察した

“純粋経験”と“実在”は1つなんだ

“実在”とは現実そのままのものでなければならない
真の“実在”は日常の直観的経験にあると感じていた
“実在”をとらえるには、世界をありのままに感じなければならない

これは容易ではない
価値観、世界観が覆い隠しているから

西田は主観と客観が立ち上がる以前の直接的意識、“純粋経験”に注目した

1個のリンゴは、どのリンゴとも違う固有のリンゴ

しかし、一旦、赤いリンゴの色を認識すると一般化され概念化される

人間が認識し言葉で表す前のリンゴそのものを感じること
その“純粋経験”でとらえられたものこそが“実在”であり、ものをあらしめている働き

数字、量で表されない方を探ってみよう、直観の方に行け、と西田は言う
それが、西田の“純粋経験”であり、“実在”のあり方

西田の言う“現実”は、私たちの判断の入る前

私たちは、自分の口にした方に行ってしまう

リンゴ2つ、赤としか言いようがないものが、2つは明らかに違う

本来、色は便宜上で、もっと何かすべてを感じている
世界をあらしめている働き

“純粋経験”を通じてのみ、真の“実在”を認識できる

“実在”は自分が認識していようがいまいが実在している

未だ判断が加わらず、主観と客観が合一している、直接的な経験、それが“純粋経験”

私たちは色々な眼鏡をつけて世界を見ていることに気がつけ
言葉、価値観、人生観…

説明するごとに出来事を小さくしていると西田は言う
言葉という枠に入れる
普段そこをあまり意識せず自覚しないで生きている

西田の『善の研究』は、不完全な私でも経験次第で変化していけると、当時の若者を勇気づけた

自分がどう変わるか、意志するかは問題ではなくて、もっと違う力が自分を変えて行く
そういう人生もある

“純粋経験”をした時、人は、ものそのものになり、ものを見、ものを知ることができる

この状態を西田は“知的直観”と呼んだ
極めて意識の統一された状態のこと
断崖をよじ登る時や熟練した音楽家が演奏する時
無心になっている時に“知的直観”が働く
芸術は直観の大きな入口
私と対象が一体となり“実在”に触れる時、“知的直観”が開かれる

民藝運動の思想家 柳宗悦
西田哲学に大きな影響を受けた

物を本当に見る
じかに見る
思想、嗜好、習慣はそれを妨げる

裸の眼で世界と向き合う時、初めて美が現れる
柳の説く思想は、西田の“知的直観”と深く通じている

思想:ある角度からとてもよく世界を見せてくれるが、すべてを見せてくれるわけではない。使い方を間違えれば大事なものを見失うかもしれない

嗜好:好き嫌い。嫌いな人がとても大事なことを言うことがある

習慣:昨日読んだ本、今日読んだら目覚める発見があるかもしれない。習慣的に繰り返すと美から、本当の経験から遠ざかる

西田が言った“純粋経験”を妨げるもの
思想
思慮分別
判断:時間が入らない様に判断して行かなくてならない(直観)。経験則で判断しない世界に向き合っていく必要がある

私たちは、いつの間にか、日常の価値を低く見ている。非日常を重く見ている
西田はここをひっくり返そうとしていのは、間違いない

【番組の内容を受けた考察】
第3回はMAXに盛りだくさんの内容でした

以下、順番に考察して行きたいと思います

〈リンゴを見る時と“純粋経験”について〉
私たちはあるリンゴを見た瞬間に、“リンゴ”だと心で思い、“赤い”色をしていると自動的に解釈してしまいます

“あるリンゴ”という、宇宙に1つしかないリンゴを、脳の働きにより言語という概念装置で瞬時に解釈・解体してしまうのです
しかし、この私たちの言語による心の働きがなければ、近似的な世界認識が成り立たず、他者との近似的な世界認識の共有もできません

しかし、西田はこれは本当の真の“実在”の認識ではないと説きます
言語による解釈が立ち上がる以前の、ものそのままを認識すること、“純粋経験”、これが真の“実在”の認識とするのです

〈西田の“純粋経験”とウィトゲンシュタインの考えた“世界”のあり方について〉
ウィトゲンシュタインは、著書『論理哲学論考』で、私たちが認識する世界を、事実からなり、その事実は各々の事態からなり、事態は個々の対象から構成されるとしました
「世界」⇦「事実」の総体⇦各々の「事態」から構成⇦各「対象」同士の結合
命題の言語型式の構造をなぞったのです

しかし、私が思いますに、世界に起きる事象(物体の運動も含む)は、命題の様な言語型式と同様に階層構造をとっているのか、疑問に思えます

構造化を認識するのは、知覚器官及び情報処理構造体(脳など)を持った私たち人間あるいは生命体側であって、言語(類似の認識記号型式)という世界の解釈・解体の道具を持っているがゆえであると思うのです
例えばクラゲやアメーバの世界認識は私たちと全く異なる世界認識をしており、その認識もそれぞれの種に固有の世界の構造となっていると思うのです

一方の神(=宇宙)はどうか。
仮に、神(=宇宙)がライプニッツが考えていた様な普遍的な言語を持っていて、世界を認識しているとすれば、『論理哲学論考』でも述べられている様に、言語型式による認識は世界認識の限界となってしまうので、神の認識に限界が生じてしまいます

そのため、神(=宇宙)は特有の言語を持ってはいないと思われ、後に述べますが、予めは構造化されていない世界の事象そのものを“純粋経験的“に認識しているものと思われるのです

〈自分がツインレイと出会い、“真実の愛”に到達したことと、“純粋経験”を感じ続けることについて〉
自分の“純粋経験”については、noteで書いてきた以前の記事の一連の没入体験が当たると思いますが(絵画に一体的に観入る時、音楽に没入して聴き入る時など)

6年前に出会ったツインレイであるあの人とは程なく別離して、全く連絡も会うことができないサイレントとなり、あの人への“愛”の酷い葛藤の中、あの人へのエゴ、執着が全くなくなり、手放しすることができました
そして、最終的に“無条件の愛=真実の愛”に到達することができたのです

6年経った今も同じく全く連絡も会うこともない中、変わらず、あの人の名前が常時浮かび、胸から愛が湧き上がっています

正確には、名前が浮かぶ前に、何かを感知しているのですが
胸に感知した後、あの人の名前と“愛している”を思わず呟いてしまいますが、感知している瞬間が、まさに私が日常的に経験している“純粋経験”なのです
その時、西田の言う“知的直観”を行っていると言えるのです

〈“愛”と“純粋経験”について〉
“愛”は愛という言葉で表現はしますが
“愛”を感じる時、いつも言葉の愛で言い尽くせないことを歯痒く感じています(ツインレイのあの人への“愛”は仕方ないので、“大好き・かわいい・愛している”と結合させて表現していますがこれでも言足りません)

あの人への“愛”を始め、周囲の人への“愛”を直観する時、自分はいつも“純粋経験”していて、その時は物体的ではありませんが、あの人を始め対象となる人の観念と1つに結合、一体になっているのだと思います

〈宇宙=神は“純粋経験”するのか。カントの“物自体”との比較についてはどうか〉
先述した様に、宇宙=神は、私たちの様な言語を持たないとすれば、対象を認識する際は、何ら枠となる色眼鏡なしに、直観でそのままの姿で認識するものと思われます。瞬時に

これは西田の言う“純粋経験”と同等のものと思われます

ここでカントが説いた“物自体”という概念を取り上げますが、カントは、私たちが対象を認識するのには限界があり、対象そのものを認識することはできない、不可知であるとしました

一方、カントの“物自体”は、神は認知できると思われます

しかし、西田は“純粋経験”は上記の限界を超えて、主客合一して、主観客観を超えて対象を認識することができると言っています

私たちが“純粋経験”する際には、人間の知覚(5感)には限界はありますが、宇宙=神に近づいて、その対象の“実在”を認識すると言えると思います

〈トートロジーと“純粋経験”の関係について〉
トートロジーとは、恒真命題といいますが、常に真である命題です
例えば同語反復である、“人物名○○○○は○○○○である”という命題

当然と言えば当然ですが、この命題では○○○○という人が存在している事実は述べられていますが、それ以上の情報は得られません

その意味でウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において、トートロジーは無意味だと言っています

西田の“純粋経験”に照らした場合はどうでしょうか
“純粋経験”の状態というのは、言葉により解釈・解体される前の直観です
この時、実は私たちは対象から属性に関する情報をほとんど何も得ていません
対象の属性を言語により解釈・解体して理解していないからです
“あるものそのものが在る”という全体情報だけです

その意味で自分は、“純粋経験”とは、上記のトートロジーで表される状態と同種のものではないかと思うのです

〈スマホ使用ばかりでは“純粋経験”からは程遠いが、“純粋経験”は実は日常の身近な至るところにある〉
私たちの日常生活は“純粋経験”から程遠いところにあります

常にスマホをいじり続け、LINE、SNSで他人と言語のやりとりをしているからです
言語の使用する段階になっては、もはや“純粋経験”はなく、解釈・解体された世界ばかりだからです

しかし、今日夜道を歩いていて、街行く人、車、建物、景色その他“目に入るもの”を何気なく見ながら、ふとこんなことを思いました

属性も何もわからないないまま、“ただ認識する”人、車、建物、景色をダイレクトに言葉を仲介せずに受け入れ認識すること、これは“純粋経験”なのではないかと…

そうです
“純粋経験”は日常の何気ない全てのことで経験され得るのです

ものそのものの本当の“実在”を“純粋経験”したくなったら、視界などに入る、言葉の立ち現れる前の“存在”をぜひ感じてみてください

〈自分の意志ではなく、もっと違う力が自分の人生を変えて行く、ということについて〉
これは、『夜と霧』を著したフランクルの言葉「人間が人生の意味は何かと問うに先立って、人生のほうが人間に問いを発してきている。人間は、人生から問われている存在だ。」に近いと思います

“善”の実現、人格の実現のため(自分の言葉では魂の向上・進化)、各々の人々に必要な問いが、それぞれの人生で投げかけられて来るのだと思います

その人生から投げかけられた問いに対して、私たちは、自分の無意識を少しずつ深掘りし、宇宙と接続できる普遍的無意識(集合的無意識)に到達するため、応えていくのだと思うのです

〈柳宗悦の説いた“じかに見る”ということについて〉
自分は、美術館や博物館に作品を観に行くことが多いですが
その際は、ガイドは使わず、あまり前提知識も持たず、そのまま作品を見ることが多いです
その意味で、柳が言う“じかに見る”、作品そのままの良さを見る習慣となっていると思いますが
片や、自分の嗜好、好き嫌いが入ってしまうことがあり、“じかに見ていない”と思うところがあります
また、作品によっては、製作の背景、画家の経歴、時代背景も知っておいた方が良いと思われることもあります
でも、基本は柳の説くとおりだと思いますので、これからもそうして行こうと思います

次は最終回です(*´-`)💖


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