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16. 〈もつ〉者と〈もたざる〉者と
こんな匂いを、エレナは知っていた。
十年前、深夜にベッドの上で目覚めたとき,大好きなマホガニーの芳香は消え失せて、その代わりに肉が焦げた匂いが邸宅に立ち込めていた。
当時、いまよりも背の低かった彼女は、異変を感じてベッドの上を半ば転がるように滑り降りると、隣で眠っていたはずの女中を探して寝室のドアを開けた。
目の前の光景に、エレナは言葉を失った。
そしてすぐ、身体に容赦無い熱気を浴びることにな
13. カペラの追憶
カペラ・オリーヴェの部屋にエルが訪れたのは、午後の授業が終わった夕方のことだった。
早くもあの事件から一か月たち、殺気立っていた街の空気は徐々に緩まりつつある。カペラが重苦しい防弾チョッキをさっぱり脱いで、お気に入りの生成色のブラウスだけで登校できたのも、実に久しぶりのことに思われた。
しかし、穏やかになりつつあったカペラの神経を逆撫でしたのが、他ならぬエルクルド・エーフォイの訪問であった。彼
12. 守れなかった朝を迎えて
空気の透きとおる朝。雲ひとつない秋晴れの空にむかって硝煙が立ち昇っている。
エルは熾きがくすぶる公会場の真ん中に独りで立っていた。死体のほとんどは女性、子ども、老人だった。五十人は下らない数の人間が、わずか十数分の間に生命を奪われた。死体や瓦礫を運ぶ荷車の列が、まるで葬列の予行演習のように思えて、エルは目を逸らした。
「やっぱりここに居た」
後ろから声をかけられて、はっと顔を上げる。
「も
7. 天に近づく秘密
その日は夕暮れと同時に激しい夕立となった。
エルは図書館の仕事を終えると休む間もなく女子寮へ走った。寮の入り口にぽつんと明かりの灯る守衛室の前で、エレナ・ローゼンハイムは仁王のような顔をして傘を差していた。
「そこの暴漢。門より先は男子禁制よ」
白と黒を基調とするボウタイブラウスにネイビーのスカート。膨らんだブロンズの髪の毛が長く肩に垂れている。エレナが濡れた草地を大股で進んでいくのを、エルは
6.同族の誼(よしみ)
「調べてないってどういうことよ!」
エルは髪の毛を逆立てて怒る女性というものを初めて見た。エレナがカウンターを挟んでダビィに激しい抗議の声を上げている。後方の事務職員たちは困り顔で座っているが、トラブルに巻き込まれぬようわざと押し黙っていた。
「事件があった日に『裏の市』で買い物をした客のリストですけどね……。俺たちは新聞記者でもなければ都市庁でもないから、調べる方法が無いんですよ。それに市場
5.たぶん運命の出会い
乳白色の朝日がカーテンを柔らかく照らしている。薄い雲のヴェールに包まれた空の下を鳶がゆっくり旋回する。気温がぐっと下がったせいで、エルは毛布から這い出るのがとても億劫だった。
肌を引き締めるほど冷たい空気のなか、エルは汚れた下着を脱ぎ捨てた。角ばった細身のシルエットが暗やみにうごめく。肉体に刻まれた生々しい傷痕は、アラベスクにも似た幾何学模様を作っている。
清潔なシャツに着替えたあと、エルは家
4. ニアミスの二乗
たなびく雲の合間から、白沙を撒いたような星たちが瞬いている。
すっかり夜が更けた「裏の市」の石畳のうえを古びたランタンがひとつ揺れている。
明かりを持ち上げると、外套を羽織ったエレナ・ローゼンハイムの端正な顔が闇に浮かび上がった。ロングスカートの裾から冷え切った秋の夜風が忍びこんでくる。
「本当にこのあたりで間違いないの?」
エレナは前方を走るリゼルにむかって囁いた。リゼルはときたま石畳の表面
2. 知りたがりのエレナ
私立ミレトス学院は、五百年前の城砦都市ハレーの遺構を改修して作りあげた全寮制のマンモス校である。かつて栄えた王国の宮殿がそのまま講堂として生まれ変わり、この学校のシンボルとなっている。
附属図書館は講堂のとなりに建てられた三階建ての建物だ。空から眺めると、大きな楕円型のドームの隅に四角い枡をくっつけたような、不思議な構造をしているのがわかる。
中央のドームはかつて王国の円形劇場だったところで、