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水溶性の悪夢//「生存の迷宮」シモン・ストーレンハーグ////世界は接合され、ラビリンスが誕生する。

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シモン・ストーレンハーグ(Simon Stålenhag)のそれはシモン・ストーレンハーグのそれとしか呼ぶことができない。シモン・ストーレンハーグのそれはシモン・ストーレンハーグのそれでしかない。それに名前をつけてそれを呼んではいけない。シモン・ストーレンハーグと、それの美しさのために

シモン・ストーレンハーグ、その最新作、リスペクトとジェラシーを込めて

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No.1:シモン・ストーレンハーグとクリス・ヴァン・オールズバーグ/水溶性の悪夢と非水溶性の夢、あるいは、世界の表側と裏側のように

何かの誤りとしてクリス・ヴァン・オールズバーグ(Chris Van Allsburg)の絵本とそれを並べてしまうとそれは惨劇とも言うべき事件となる。クリス・ヴァン・オールズバーグのそれを日溜まりの午睡の中で観る夢、あるいは、暖かなたっぷりとした食事をした後の柔らかなベッドの中の深い眠りの中で漂う夢とすれば、シモン・ストーレンハーグのそれは長きに渡って陽射しから忘却された極夜の荒地の影の中で蠢く夢の断片、あるいは、深夜に擦り切れた毛布を体に包み硬いベッドの端に座る覚醒と睡眠の間を永遠に往復する者の悪夢となる。まるでそれは世界の表と裏のように互いの顔を合わせることができない。表側と裏側を無理に引き合わせようとすれば、惨劇となるだろう。それらが同じひとつの世界のありようを示すものであったとしても。

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非水溶性の色彩と水溶性の色彩、ひかりの中で浮遊する夢の時間と闇の中で浸水/水没する悪夢の空間、語りが紡ぎ撚り合わせる記憶が広がる場所とモノローグが積み木のように組み立てる回想の時間の流れ。溶けることのない色から希望と回復の夢が零れ落ち、溶けることしかできない色から喪失と絶望と脱出口と袋小路の悪夢が滲み出る。非水溶性の光の夢/水溶性の闇の夢。

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何から何までも二つは鋭く対立するのだが、唯一の共通としてクリス・ヴァン・オールズバーグのそれとシモン・ストーレンハーグのそれは何れも強い侵犯性を有しそれを手に取る者に不可逆的変容を要求する。何れもその前と後において同じであることを許されない。クリス・ヴァン・オールズバーグとシモン・ストーレンハーグのそれが何処へ人を運ぶことになるのか、その場所が大きく違っていても人はその場所を受け入れるしかない。色彩の場所/場所の色彩。シモン・ストーレンハーグとクリス・ヴァン・オールズバーグそれらは全く異なったものだが、わたしの中で昼の時間と夜の時間として、同じひとつの世界/現実の相貌として、わたしの前にその裸形の姿を顕わす。

No.2:〈自切〉と接合、あるいは、欠損したダイアローグ/モノローグが錯綜し形成する、水溶性の肉質的接合欲望のラビリンス

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シモン・ストーレンハーグのそれは錯綜するモノローグのラビリンスであり欠損したダイアローグであり接合しようとのたうつ水溶性の肉質的欲望だ。

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物語の発端に「アシナシトカゲ」の〈自切(じせつ)〉のエピソードが挿入される。生体/構造の防衛機構のひとつ〈自切〉。自分の尻尾を切り離して危険から逃げるという方法。自分の一部を破損し離脱させ、その隙に本体が逃走する。自分自身の身体を切断して自分自身を守る〈自切〉。その痛みを前提とし必然とした闘争/逃走が、物語の核に存在し物語の流れを駆動させる。

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「自分自身に対する暴力行為をして、自分自身の身体を切断したのよ。/そうやってそいつは逃げおおせた。」                 (「生存の迷宮」シモン・ストーレンハーグP5より引用)

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だが、しかし、シモン・ストーレンハーグのそれは〈自切〉と真逆のかたちの〈接合〉によって、わたしたちの世界の中で生存し生き延びようとする。その水溶性の肉質を持つそれは何かの部分となり何かの身体の一部分となり何かと融合することを欲望している。まるで〈自切〉によって切断した自分の部分を取り戻すかのように、それは暴力的に接合する。〈自切〉によって破壊し喪失した全てを悔恨するかのように。〈接合〉する肉質の悪夢として

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シモン・ストーレンハーグの平面に閉じ込められたそれは世界の中に放たれ水の中に溶解し拡散し接合しようとする。接合される、あらゆるものたちがシモン・ストーレンハーグのそれによって。滲み出るようにして溢れ出し、それを手に取る者の身体と接合する/注入され不可分のものとなる。流入、同時に、わたしたちの世界もまた水溶性の現実/夢となってシモン・ストーレンハーグのそれへと流入してゆく。継ぎ接ぎの繋ぎ目が消え去り寄せ集めで作られたはずの世界が一体化されひとつの肉塊となって行く。接合されるシモン・ストーレンハーグの世界/フィクションとわたしたちの世界/現実。

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物語/出来事の全貌を俯瞰することはあきらめた方がいい。あるいは、物語から何かしらの整合した教訓的な事柄/メタファーを見つけ出すことも。これは欠損したダイアローグ/モノローグのラビリンスなのだ。シモン・ストーレンハーグのそれがモノローグの構造体であることはその構造体に内在する論理の論理的決定だ。ダイアローグ/物語から追放されたものたちの反逆/復讐として、世界と接合しようとのたうつモノローグ。わたしたちは彼ら/彼女らのモノローグの中に組み込まれラビリンスの一部となって行く。生存の。

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No.3:ラビリンスの中の出口/シモン・ストーレンハーグの物語は終わらない。あるいは、許されざる〈やるしかないこと〉/「許しなんか必要ない」

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シモン・ストーレンハーグのそれの結末の不安定性/未完成性。〈接合〉する肉質の悪夢であるシモン・ストーレンハーグのそれは論理的必然として完結することはない。完了する/させることのできない悪夢。シモン・ストーレンハーグのそれは終わることがない/できない。何度も何度もかたちと姿を変更しそれはわたしたちの中に接合し侵入しわたしたちそのものになろうとする

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シモン・ストーレンハーグのそれの中に出口/脱出口/救済は存在するのか?
シモン・ストーレンハーグのラビリンスの中に、それらは存在し得るのか?
シモン・ストーレンハーグのそれそのものであるわたしたちの世界/現実に、

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そんなもの/ことあろうはずがない。そんなもの/ことできるはずもない。わたしたちそのものであるシモン・ストーレンハーグのそれから逃れるということは、わたしたちがわたしたちでなくなること以外にあり得ないからだ。わたしたちの世界/現実がわたしたちの世界/現実以外になりようがないように。わたしたちはわたしたち以外の何処へも行くなどできない。わたしたちはわたしたちの世界/現実の外側に出ることはできない。そのラビリンスがわたしたちの世界/現実そのものであるのならば出口/脱出口はない(はずだ)何処にも。外側へと開かれたそのドアの向こう側も、またわたしたちの世界/現実でしかない。外側は存在しない。ラビリンスには内側しか存在しない。

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「わたしたちのやったことは、正しくない。でも、ある行動がまちがっているからといって、それを実施しないでいいことにはならない。それしか選択肢がないなら、やるしかない。//他に出口がないのであれば。」    (「生存の迷宮」シモン・ストーレンハーグ P115より引用)
「でも、許しなんか必要ない。わたしたちは、やるべきことをやった。ちょうどアシナシトカゲのように。」                  (「生存の迷宮」シモン・ストーレンハーグ P117より引用)

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No.4:日本の漫画の最先端の向こう側としてのシモン・ストーレンハーグのそれ、あるいは、日本の漫画表現以後

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シモン・ストーレンハーグのそれを日本の漫画表現以前のものと受け止める人もいるのかもしれない。最先端の日本の漫画家たちが自家薬籠中のものとした内的世界と外的世界の相互作用を映像と言葉の結合体として表現する漫画技法(Manga technology)によって、シモン・ストーレンハーグが表現しようとする内容など「いともたやすく」表現してしまう、と思うのかもしれない。「いともたやすく」だ。それももっとさらに巧妙に高度に精緻に。

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しかし、それは誤りだ。シモン・ストーレンハーグのそれは現在の日本の漫画表現以前ではない。それは現在の日本の漫画表現以後だ。それは映像と言葉の結合体である漫画から映像と言葉を分離し、言葉が内蔵された映像と映像が内蔵された言葉として、再度、組み立て直され映像と言葉の結合体としての漫画の、その先に放出され位置している〈映像的/言葉的なるもの〉だ。

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それは漫画でも小説でも絵本でもない。漫画が漫画であるために小説が小説であるために絵本が絵本であるために幾つかの大切な事柄が放棄される。シモン・ストーレンハーグはそれを拾う。その棄てられたものたちを拾う。拾って拾って拾い捲る。漫画が漫画であるために映像と言葉の結合からこぼれる時間と空間と色彩を拾い、小説が小説であるために断念された映像をあきらめることなく描き出し、絵本が絵本であるために手際よく分担された映像と言葉の役割を再び混沌の中に放り込む。言葉と映像が、再び、遭遇する。

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シモン・ストーレンハーグのそれの中で言葉と映像が互いに接合し合い、言葉が映像の中に内包され映像が言葉の中に内包される。漫画が漫画であることを止め小説が小説であることを止め絵本が絵本であることを止める。シモン・ストーレンハーグの中で言葉と映像の統合体がアップデートされ、シモン・ストーレンハーグのそれが現在の日本の漫画表現の向こう側に出現する

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No.5:日本漫画表現の現在に停滞する者たちへ、あるいは、シモン・ストーレンハーグ、最新作、リスペクトとジェラシーを込めて

日本漫画表現の現在の中で停滞/滞留する者たちへ。

シモン・ストーレンハーグのそれの美しさに戦慄/感嘆すると同時に、漫画表現以後を現在の日本から誕生させることができなかったことを、わたしたちは痛恨の極みとしてそれを刮目しなければならない。日本漫画と日本アニメーションを礼賛し耽溺し発熱する無知と傲慢のその顔を冷たい水で洗い流し、今一度、世界/現実を描写しなければならない。文学、映画、音楽、演劇、美術など、その他のあらゆる表現形式と同じように、漫画が人間の営みの全てを描くことが出来るということを投げ掛けられる嘲笑と侮蔑の石礫の中で、血みどろになって実践してみせた日本の先駆的漫画家たちのために。その〈映像的/言葉的なるもの〉に今再び、向き合い覚醒しなければならない

シモン・ストーレンハーグ、その最新作、リスペクトとジェラシーを込めて

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