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随筆(2023/3/1):「腹を割って話せない」問題がある時に、やるべきは「腹を割って話す」ことであって、「腹を割って話す価値がない」と判断して「腹を割って話さず耐える」ことではない

1.『妻が口をきいてくれません』

(これはこの漫画を褒める記事ではありません。それは2.で全部終わります。
それ以降は、これを面白く読んだ方にとっては、読んでいて胸が悪くなる内容になると思います。
そういう方は引き返して欲しいのです。要旨は章題だけでほぼ分かるようにしてあります。
なおもその上で読むなら、「私はあらかじめ警告しました」。あなたは胸が悪くなることを知ってて自ら読みました。分かっていて自らやったことの責任を他人に帰属させるの、やめてほしいのです)

***

読んだらおそらく不愉快であろうオーラを放つ漫画『妻が口をきいてくれません』広告があまりにも多く、鬱陶しいので、
「どういう話かあらすじを聞いて、「ああ、こういうもんね、ふーん」と心理的にやりすごそう」
という動機がありました。(なんて不純な動機だ)

学ぶところは多かったですが、やはり不愉快であることはよく分かりました。

2.愛する配偶者であろうが、二等人類に見える、というシチュエーションのリスト

学ぶところは非常に有益で、

  • 自分の生活を回せないやつは、生物として異常

  • 自分の生計を把握していないやつは、生物として異常

  • 他人を助けないのになおも好かれて敬意を以て扱われたいと思っているやつは、社会的生物として異常

  • 他人をDISるのになおも好かれて敬意を以て扱われたいと思っているやつは、社会的生物として異常

  • 正当性イキリマウントをして(つまり、ほぼ自動的に相手を邪悪バカザコ扱いして)くるのになおも好かれて敬意を以て扱われたいと思っているやつは、社会的生物として異常

  • 他人におもてなしをしていないのになおも好かれて敬意を以て扱われたいと思っているやつは、社会的生物として異常

  • 上記をもってしてもなおも自分が異常じゃないと思ってるやつは、端的に異常

  • 異常者でありながらなおも好かれて敬意を以て扱われたいと思っているやつは、病的に異常であり、好きも敬意もガリガリ削れて当然であり、まして信頼などなく、全てそこから話は出発する

という、それらそのものは個々で言えば「まあそう思うし、その感覚は『健常』だよなあ」というものです。
この漫画で得るべきところはそこで、それさえ分かれば、後の記事は全部読まなくていいくらいですし、この漫画も読まなくていいくらいです。

3.そもそも二等人類扱い自体が問題外なので、報復手段であろうと、それを自分がやることが正当化されたりはしない

なお、分業社会人権ということは見なかったことにします。

分業社会の話をすると、分業によって、あることはできても、別のことができない人はたくさんいます。
「全部できていろよ。少なくとも生存に関することは。
それができないなら死んでろよ。
健常者のいい大人が抜け抜けとそこをアウトソーシングしてるんじゃあないよ」

こう言いたくなる人もいるかもしれませんが、まずい話です。
だって、それは採集漁労狩猟や、農耕牧畜ができない人の生存の正当性を認めない理屈だからです。
自給自足主義的農本主義者とかに言わせれば
「自分のおまんまくらい自分で調達しろ。田畑を耕せと言っとるんだ。
何? できない??? 死ね!!!!!!!!!
田畑を耕せない無能は死灰にして肥料とか石鹸とかに加工した方がお得」

ということになってしまいますし(ドイツカンボジアで部分的にはあった話でしたね)、そうなると都市生活者は自動的にほぼ全員虐殺されて肥料にされてしまいます。
端的に、メチャクチャ嫌ですし、死ぬ程困ります。最悪本当に死ぬやつだからな。

人権の話をすると、
〇〇ができない無能リソースにとって有害だから二等人類
「大事なのは社会全体と、社会全体を支える資源と、それを生産し維持する人材「だけ」であり、なんなら個々の人間は、それを消耗する、できるだけ死んだ方が世のため人のためである、有害な寄生虫である」
消費邪悪だし、生産雇用のみならず消費を組み込んでいる経済異常で穢らわしい
という素朴なある種の保守主義者のロジックは、経営ということをやったらどうしたって生えて来るものですが(最後のは商売をやっていたら口が裂けても言えなくなるとは思いますが)、
「そういった二等人類は死灰にして肥料とか石鹸とかに加工した方がお得」
理論に容易に化けるので、やはり都市生活者が自動的にほぼ全員虐殺されて肥料にされてしまうリスクに繋がる訳です。

日本人の少なくない層は、一時期ナチスやポルポトなどが好きだったし、その蛮行に異様に甘かったでしょ?
だとしたら、日本においても、彼らが支持される下地はありうる。ということだし、よって何も安心ではない。

そして今でも、少なくとも「無能は二等人類」という発想が好きな人、たくさんいるでしょ?
自分が肥料にされる側だと思ってないからですね。
なぜ
「有能な連中がこちらを肥料と見なしてはこない」
などと信じられるのか?
何かトラブルがあったら、ほぼ確実に
「何だこの無能。二等人類。死灰。肥料」
と思うでしょうし、許されるなら(現にこういう発想が好きな支持層はかなりいるし、下手すると死灰にされる側自体がそうなので)「死灰化、やる」でしょうね。本当に恐ろしいことですよ。

人権のうち、『法の下の平等』すなわち
「全ての人が法的なあるボーダーラインをすべて持つ」
ということ
は、
「二等人類なのでいかなる行為も許容される」
という差別を防ぐために設けられた、人権規定の中でも1,2を争う重要な規約
です。じゃあ「死灰化の支持」なんか以ての外なんだよな。

***

というか、人類が平穏無事に生きてこうと思っていたら、「敵を減らす」ことは基本戦術です。
「敵に備えたり、敵と戦ったり、敵を滅ぼしたりしたい」ということをしたら、それが貫徹されるまではおよそ平穏無事ではありえなくなりますし、社会のリソースは基本的に壊滅的に損なわれます。
かなり近い距離で、こんなことをしたら、その社会の中のものは、リソースや平穏無事も含め、粗方破壊されてしまいます。
それで目的を果たして、本当にスッキリ解決するか? ボロボロになるのでは? ボロボロにならないで、なおもスッキリするためなら、こんな手を取ってはいけないのでは?
だから、近い距離の人間関係や場を真剣に考えると、「近い距離での対立を避ける」ということと、「対立が生じる前に擦り合せを行う」ということは、どうしたって避けられません。

***

この漫画では、夫妻共に、「対立が生じる前に擦り合せを行う」ということをしてこなかった、というより、舐めていた旨描かれています。

妻の話をそこまで真剣な問題だとは考えていないし、
「そもそも妻は、クレームが真剣であるかないかを問わず常に真剣であるがごとく見せかけて、聴くリソースを都合全無視で一貫して吐き出させようとする重要度ロンダリング人間だ。信頼に値しない」
というふうに考え、しかもそれを示していたことが示されます。
これそのものは、本当にそうかどうかは全く関係のないレベルで、これ自体が一発アウトレベルの極めて侮辱的な姿勢であります。
「お前は侮辱されても仕方ないから侮辱されろ」
というタイプの二等人類扱いを通していたら、対立が避けられる訳がない。本当にそれで人間関係を真面目に考えているつもりなのか?

***

で、妻の話ですが、夫が
「この重要度ロンダリング人間が信頼に値しないんだよ」
という姿勢を示すのが、その時点で一発アウトの侮辱であるということ
と、妻が
「重要度ロンダリングをして、相手の都合と関係なく傾聴のリソースを吐き出させようとした」
のがその一つの核心的な原因であるということ
は、ふつうに両立します。

もちろんもう一つの核心は、夫がそもそも妻の重要度を一貫して低く見ていた、舐めていたからなのです。これが容認されないのは当たり前です。
で、容認されないからといえ、世界の善意がなんか咎無く苦しむ自分のために解決してくれて当たり前、などという甘い話はない。放っておけばそのまま拗れる。実際のところとしては。

***

で、これには解決手段がふつうあります。
バカみたいに見える王道のやつが。
だからといって、これをやらなかったら、そりゃあ
「これは殊更重要であり、多少大きめのリソースを焼いてでも傾聴せねばならぬ」
とは思われまい。そういうやつです。
妻がそれをしなかったことが、大きな問題の要である。という話をします。
(それをしてたらこの漫画が成立しないんだけどな)

あらかじめ言うと、
「クレームの重要度が極めて高いものは、特に改まって、真剣な言い方でクレームを言う」
ということに、失敗し続けた、というよりその姿勢そのものがなかった、ということです。

4.とはいえ、二等人類扱いはされるものであり、されたくないなら、自分「が」備えなければならない

さて。
上の話をした上で、なお、
「うるせえなあ。無能が一等人類みたいに扱われようとすんなこの二等人類」
という話はとてつもなく強いものです。

本当に言いたくありませんが、対人的・対社会的な価値観、倫理観とは、由来から言っても本質的にこれです。
倫理観は一般的に歓迎されているものであり、ある程度倫理的な人にこそ、この感覚は根強くあるため、この手の思想は広く受け入れられやすいものです。
人権はいざしらず、倫理観というもののメリットは、基本的に倫理的な一等人類に与えられるもので、二等人類向けに与えられることはあまりありません。
あったとしてもそれは「恩恵」であり、あると有難いが、ないのが当たり前であり、奪われるのはごく自然なことであり、生殺与奪の権を人が握ることで人を支配できる、そういう手段でもあるからです。
(だから、この問題が露骨に出て来るケア倫理は、法制度化しないとどんどん毒親めいて有害になります。
というか、法制度化してもなお、役所が税と行政サービスの会計上の理由で市民の生殺与奪を左右すると、血税を節約して大事にする役人の鑑として賞賛される、というものすごい話が後を絶ちません。
倫理、難しいですね)

倫理よりも人権の輩である公僕の私が、こういう倫理の有害性に屈する話を補強するのは本当に不愉快極まりないのです。

が、そうは言っても人の倫理観に疑念を抱かせることは相当困難で、しかもこれは自宅訪問布教親子の得意とするところです。ふつうのテンションの人が、ふつうにやると、やってられない。

じゃあ、自分が適応することをサボってはならない。

5.そのためにも、「特別に改まって」「大事な話をしなければならない」

とはいえ、実は、人の倫理観に疑念を抱かせ、また、うまく行っていない大事な話をする、非常に初歩的な手段があります。

何か。

要は、
「今回、特に改まって、大事な話があります」
という手が効きます。(さっき触れた通りですが)

というか、改まって大事な話がしたい、あるいは、相手からいい加減でない話をさせたいのなら、これこそが一番率直なやり方ですし、正道でしょう。
相手に信頼があろうがなかろうが、とにかくまずやるべき基本形の手です。

それをしなかったのだとしたら、それではごく当たり前に、話はまるで進まないでしょう。

***

それに、これなら相手からの
「これは改まってすべき大事な話か、そうでないどうでもいい話か」
という反応
が直ちに帰ってきます(表情と言い回しで)。そこはもちろん見ましょう。
(基本形を打つと、相手の出方が分かるのも、大きなメリットです。
というより、相手の出方も分からないのに、基本形を打たず、より適切な手を打とうとするの、まず出来ることではありません。
出方を見ることは極めて重要であり、基本形はその定番の問い合わせです。これをする、ということです)

「どうでもいい話」と思ってそうなら、
「これは本当に大事な話なんで、聞いてください、と言っているのです」
と言いたくなるでしょう
し、言えばいいのです。

***

で、大事な話をすると言ったからには、「言いたいこと全て」ではなく、「とにかく優先度の高いニーズ」の話を、「上位3点以外にもあることはあらかじめ伝えた上で、とりあえず上位3点だけ」して下さい。
ふつう、人間は、大事な話を3点以上聞くと、その重要性に「果たして本当に重要か?」と首をひねり出すようになります。
自分が聞く側だったらこの辺の感覚はだいたい分かるでしょう。そういうことです。

もちろんこれには要約や言い回しや、何よりちゃんと喋り切る勇気が要ります。
まあ、メチャクチャ疲れるし、自然な喋り方にならないし、嫌ですよ。

でも、この絞り込みをしないと、それは
「つまり、大事な話じゃなくて、言いたいこと全てを聞け、ということではないか。嘘つき!」
とうんざりされても、何もかもしょうがないところです。
現にここはしばしば極めて大きなトラブルの元です。だってこれは結果的に嘘そのものである訳だし、それでおもてなしのカロリーを吐き出させているのだから。そりゃあトラブルにもなろうというものです。

***

「言いたいこと全てを聞く。という、しかも本人が明瞭に求めているサービスを、理由はともかくとにかく断ったやつに、おもてなしの精神がある訳がない。あってもそれはおそろしく軽薄なものに過ぎない。
おもてなしの精神がない盗人猛々しく愚劣な二等人類との交際を余儀なくされているから、こちらは不愉快だし、そんなやつへの敬意や愛や人間扱いなんかガリガリ減って当たり前だと思え。
そう思えないやつ、やはり異常な二等人類でしかないではないか」?

まあ、そう思うのは自然なことです。
で、じゃあ、

「「黙れ。その問題はお前が異常な二等人類だから生じたものであり、お前が悪いのであり、お前には傷つく資格はない」
という侮辱を相槌の基本形とするやつのコミュニケーション、まともなコミュニケーションではない。
そんなやつの言う問題解決は
「一発〆てから言うことを聞かせる」
文脈の典型的な例であり、自由意志を叩き潰してから責任だけ負わせて命令者は責任を取らない、というインチキな命令としてはたらく。
現にそういう結果しか出力されてないではないか。何が違うのか? 外形的に区別できない以上、見る側は同じと判断するしかないではないか?
で、インチキな命令にも等しいことを、善意で、何ならおもてなしでやる。という倫理観、本当に異常であり、自分はそれに付き合わされたくない」

という話を、まずちゃんとしましょう。
たいていこの辺が問題であるように聞こえますし、私もこの辺で問題にぶち当たることが多かったですね。
何なら、この話自体を、初っ端の上位3点にあらかじめ含めておく方が良いくらいです。

6.改まって大事な話をしないと、どうなるか

それでダメだった時に、初めて作中のように、無視に正当性が伴います。
そうでないなら、正当化、ありません。

***

で、「そのプロセス抜きで」妻が夫を無視してたんですよ。この漫画。
ここが私の評価の一番ツラいところです。

大事な話だと受け止めずに、話を聞かない相手には「改まって大事な話だと念を押して、大事な話をする」のが、言行一致に鑑みて最も自然な最初の手段である。
言行一致はコミュニケーションの基本であり、その基本的なコミュニケーションができていないのに結婚したこと自体がまず信じがたい。
水臭いのは各人の自由だが、水臭い関係しか結べていない「のに」深い仲になること自体、おそろしく理解に苦しむ。
腹を割れない相手と、単に惚れた腫れたで結婚した? じゃあ腹を割れない浅い関係の夫婦になるでしょうね。そりゃあそうでしょうよ。当たり前だよ。

***

妻のやる気も信頼もへし折れてるから、要望を「これは改まった大事な話である」と伝えることすら出来ないのが良くない?

気持ちとしては、怒るのも滅入るのも分かります。
「腹を割って話しても、二等人類を見るような目でいい加減に扱われたことに、ボディーブローのようなダメージを受け、やる気はぐしゃぐしゃになる」
そこは、そうでしょう。私も多々ある。

で、
「腹を割る関係を結べていなかった」ら、それは「そもそも、そんな関係結んでいなかった」んだから、「当たり前」です。
そこをちゃんとやって、結果としてちゃんとできてるかどうかも確認して、関係を結んでから、そこからの話じゃないでしょうか。決してこの逆ではない。
「関係のなさで困ってる」なら、「関係がないから関係を結ぶ」のが解決方法の指針でしょう。
そこで、「関係がない時点で、解決する値打ちもなく、関わり合いにすらなりたくないから、関係を結ばない」という発想をしてしまうの、そのままやってる限り、問題に苦しみ続けて消耗するだけです。

***

「解決する値打ちがない?」
問題は残っていて苦しんでいるのに?
じゃあその苦しみの消去こそが、問題を解決する値打ちそのものですね。値打ちというか、決定的な有難味です。これこそが全てを左右する。だって今その苦しみで己が左右されているのですから。たとえ不完全であろうとも(たいてい不完全なレベルしか期待できませんが)、これを回復することは、ほぼ一切の事情に優先する。
そしてその苦しみは、問題そのものに関わり合いになりたくなかろうが、問題がそこにある限り、何ら変わらず残る。
だって、問題は、ふつう、残っている限り、勝手に関わってくるのだから。
じゃあやはり、関わり合いになりたくなかろうが、気合が出てきた時点で、問題をなくすのが一番だ。

「耐える」?
耐えるのに意味があるのは、消耗しても後で持ち堪えられる時だけであり、そうでないなら持ち堪えられません。
大きな破局が待ち受けている、というより、大きな破局「を」待ち受けている、そういうムーブです。

7.世間話モードとマジ話モードを識別可能に「する」。「しないままで進めない」。これをするかしないかは人間関係において決定的な違いをもたらす

とてつもなく嫌な話をします。
世間話をして「困ってるのだよな」と言ってたら、相手が世間話らしく相槌を打つようなことをせず、マジモードで問題解決をすることがあり、クソうざったいことがあります。
全く逆に、マジ話をしているときに、相手がこれを世間話とみなし、いい加減な応対しかしないのでメチャクチャナメられたような気分になることがあります(この漫画の夫が妻にやっていたように)。

さらにますます不愉快な話をします。
相手が何か困りごとを口にしたとして、聞いた側はふつう、世間話かマジ話かによってモードを相槌モードか解決支援モードに切り替えねばならない訳です。
「それ、世間話ですか? それともマジ話ですか?」
と訊くことがあるかもしれません。
(言うまでもない話ですが、察するより訊いた方が確実ですからね。
それに、「察してほしい」という話は、コミュニケーションにおいて一般に話者がやっていい態度ではありません。むしろ、なぜいいと思われているのか? この辺の問題はすぐ後でします)

話者はふつう、自分の言ってることが世間話かマジ話か、よく分かってますし、相手がそこを分かってないと、「そんな当たり前のことも分からないのか」と、ものすごいバカ丸出しに見える訳です。
(もちろん、話者にとっては当たり前ですが、聞き手にとっては何ら当たり前ではありません
何なら、万一話者本人が分かってなくても、相手が理解できていないことは、やはり何ら変わりはありません。
「は? そんなことも読めないのか?? コミュ障か???」
くらいの顔には、まあなるわけです。
(話者本人が自分で分かってないなら、他人の理解できていないことを、非難しないでほしいなあ。無理だよ。それは)

一般に、コミュニケーションが通用しなかった場合、「話のモードと一致していない」か、「共通の知識がない」からそうなるのです。
前者は聴く側の、後者は話す側の比重が大きくなります。
聴く側は、話された話のモードは判断せねばならない。
話す側は、相手の分からない話を延々と続けてはならず、分かるような説明は交えなければならない。

そこで
「話のモードを確認したやつは、バカっぽく見えるから、二等人類として、侮辱して当然」
と、説明しない人から言われたら、まあ
「説明しないで、こちらの分からない話を、分からないことは承知の上で延々と人に喋る、そういう人じゃん。
そんな人にコミュ障扱いされ、本人はコミュニケーションの達人みたいなマウント顔してるの、何も納得いかないが…?」

とはなろうものです。

そして、マウントしているということは自動的に威圧を兼ねますので、マウントされた側は引き下がるのです。
内心
「どっちもどっちの相手から、コミュ障呼ばわりされるの、クソみたいな話だなあ」
と思いながら。

これは、とんでもなく恐ろしい話です。
マウントを取ると、立場はふつう王様と大臣くらいに変わります。もちろん取る側が王様で、取られた側が大臣です。
当然ながら、大臣は王様に「王様は裸だ」とこっそり忠告してはくれないのです。
するときはマウントが無価値になった時で、その時は王様はクーデターの最中で、忠告どころか処刑の危機にあると言えます。

だから、マジ話であることの明示として、
「折り入ってお話が」
とあらかじめ言っておいて、その時の話では世間話をせず、特に重要な話のみに絞る。ということが、極めて大事になってきます。
これをするというだけで、処刑の危機は、激減するでしょうね。

「自分は王様を気取ったつもりはない」?
ならばなおさら処刑されたくないではないですか。

これは、今日からでもできる工夫です。リスク回避の効果も大きい。備えましょう。

8.目的を見失って手段を最優先目標にすることは、ある。酷い話であるが、それじゃ目的の達成はできない(作中でもそうだったし)

そうそう、この漫画はサスペンス漫画である以上、
「ちゃんとこれがやれていたら、問題は未然に防げただろうが、サスペンスにもならないからつまらないので、やれない設定にしてある」
のです。(子供の聞き分けが良かったのも、漫画の軸がブレないために必要なところです)

が、現実の話をすると、問題を未然に防ぐなら、ここは必要な手段です。
必要な手段を取らずに目的が達成されるような話は、ふつうありません。

助けてもらうのが人道として当たり前であると思ったしても、聞こえるように届けるには、やはり届け方が要ります。
下手すると、喚きたいように喚いたら、逆に喚いた側が通報されることすらあるので、ここは本当に大事な話です。
(役所仕事をしていると、脅しに見せかけて懇願する市民も、懇願に見せかけて脅す市民も、よくいらっしゃいます。
残念ながら、彼らがもし暴力・威嚇・強請等の圧力に訴えたら、直ちに警察を呼ぶしかありません。
彼らのやってることが、実質的には懇願であっても、暴力・威嚇・強請の時点で一発アウトです)

***

改まって大事な話をする。
それが、相手が「これは改まった大事な話なのだな」と思えている形式であるか確認する。
ダメそうなら「これは本当に改まった大事な話であり、重く受け止めるべきだ」と念を押す。
そして、そういう前置きであるからには、どうしても、という上位3点に絞り、ニーズやメリットなどの理由もつけて、要点のみ言う。
「大事な相手ならばおもてなしの精神を持ってほしい」ということと、「その具体的な手として、言いたいこと全部を聞いてほしい」のなら、それはその上位3点の2つに含め、残りの1枠に今回の最重要なニーズを盛る。
これでなおも効いてない場合に限り、次の手を採る。

***

コミュニーケーション人間関係の要で、当然深い関係には腹を割ったコミュニーケーションが要ります。
それをできてないなら、する。
できてないからやらない。というの、本当に良くない。何もかも悪く効くから。
相手が邪悪バカザコだから自分ができないのもやらないのも仕方ない。という話は、別に成立しない。
そういうときこそなおさら「だからこれは本当に大事な話なのだ。分かるか。背筋を正して聞いてくれ」と念を押して、ちゃんとやらねばならない。
暴力も威嚇も強請も圧力も、実際には貫徹不能な矛盾した要求(ダブルバインド)もいけない。
無視(これが矛盾した要求の手段として機能していること自体は、この漫画を読めば直ちに分かるでしょう。そうでないならこの漫画は成立しないようになってもいます)を、腹を割った話より先にやる時点で、「取るべき手の順序が違う」としか言えない。

***

おそろしく虚しいことを言うと、
「やりたいことのためには、効く手があり、それをやる。
これをひっくり返して、目的のための手段を最優先目標にして、やりたい手でやると、やってる本人がやりたいことを達成できずに終わる。それを目指してどうする」

ということなのです。

妻の目的は、夫にニーズを理解させて言動と態度を変えてもらうことであり、手段こらしめることでした。当然ながらこれは逆ではありません。
しかし、妻は結局、手段を最優先目標にして、挙げ句、本来の目的を自ら実現できなくしていました。
何の話か?
妻はとうとう、夫にどうなってほしいか、「これは大事な話だから、よく聞け」とは言いませんでした。それについては断固黙っていたのだから、出来る訳がない。
そして、夫がこらしめられて苦しみ抜いても、妻は満足しませんでした。当たり前です。本来の目的をやってないのだから。

事実、目的と手段が混乱して、何でこんなことになってるのか自分でも分からなくなってきたことは、作中でもはっきり描写されています。

本来、ここでこらしめた「後で」もう一度、今度こそ
「よく聞け。今から大事な話をする。
お前が下らないと一蹴した、しかし私にとっては一蹴されるべきではない大事な話だ。
大事な話のうちには、「お前は一蹴してはならなかった」ということも当然含まれる。
これらは、家庭を割ろうがなんだろうが、やるべきことだった。
というか、そもそもこれ抜きで生きていてはおかしいのだし、人と付き合うのはもっとおかしい、というレベルの話だ。
それが解決されない限り、つまりお前がこれを大事だと思わない限り、私はお前を、やはり同じ人間と認識できない。
え? 下らない? 本当に思い知らねーなお前。分かるまでやる。分かりましたか?」

と言って、言動と態度を刷り込んだら、これは洗脳としてはほぼ高確率で成功したでしょう(私はこれを是認しませんが)。
しかし、こらしめた「後でも」刷り込みすらしなかったのです。無駄!

クライマックスについては説明しませんが、妻の努力とは完全に別のところから、というか夫の偶然のトンチキな行動から、「一応の」解決が訪れました。
そして、妻はなおも「その後も」説明せず、いつでもぶち壊しにできるように備えるのだった。という終わり方をします。

目的をしないのか???
一応解決したように見えるが、何も解決していないじゃん???
バカげているのでは???

9.「こいつは二等人類だから人間関係を二等人類向け支配-被支配モードに切り替える」という選択肢、「ほぼ全ての」人間関係を破壊することになる。やめましょう

ここからさらに、今まで慎重に避けてきたことを、します。
何か。

「妻のやってこなかった、本当はこれをやらねば解決しない話」は、しました。
無能ザコ扱いとして腹を立てられたのだとしたら、本当に申し訳ありません。
やれなかったのは事実だと思いますが、それをもってザコとは思いません。
やれないのはよくあることです。

そして、極めて重要で、しかも全く守られていない話ですが、「人のやったことをとやかくは言えても、人をとやかくは言えない」のです。
道徳倫理実践の話で、存在の話ではない。と倫理学者はたいてい言うでしょう。ここはほぼ共有されている認識です。
(そんなん知るか、と思われたかもしれません。だとしたら、「そうだ」ということを覚えて下さい。
やったことを扱うので、やった人をとやかく言うのは、本当は道徳倫理とは近いが違う話が含まれて来ます。
平たく言うと、制裁とかですね。これらが道徳倫理に近いが同一でないことは分かるでしょう。子供にお仕置きをする親が常に正しい? そんな訳あるか。という話です)。

***

今からやるのは、「妻のやった、本当はこれをやったら解決がこじれる話」です。
つまり、「悪者とはしないが、悪いことはしてますね。やめましょう」という話です。
ほら腹が立つでしょう。こんな記事書いてるやつ、生かしておけませんよね。
で、誰が殺されてやるものか。断る。宜しいでしょうか。

***

で、何が言いたいのかというと。

さっきから、
「二等人類扱い、ダメ」
という話を口酸っぱくしています。

当然ながら、
「なぜだ?
そんなことをしてメリットと正当性があるようには到底思えぬ。
ニーチェの言う、弱者が「自分こそが正しい」と言いながら正当性を捏造しようとする居直り強盗の態度、ルサンチマンそのものではないか。
うるせえから黙って言うことだけ聞いてろよ。お前ら、人の話すら聞けない、というか、コミュニケーション能力のない二等人類が、盗人猛々しくも自分に一人前の人間扱いを抜け抜けと要求してくるんじゃあないよ」

くらいのことは、思う人も多いでしょう。

***

さて、それを踏まえて、酷いことを書きます。

上の理屈のまま、
「こいつは二等人類だから人間関係を二等人類向け支配-被支配モードに切り替える」

ということを選択肢に入れる人がいたとします。
そうした場合、その人の人間関係は、その後どうなるか。ということです。

ふつう、その人の世界観や価値観で受け入れられない人が、「ほぼ全て」二等人類扱いされることになります。
それを止める動機も基準も存在しません。
(そもそも、人間扱いの基準は、憲法や民法や刑法のデリケートな議論領域でもあります。
フワフワした倫理で扱うと、ふつうは法より曖昧に「こいつは人間じゃない」判定が出るものです。
一番苛烈には、村が、法としては未整理状態の、倫理的価値観のカタログの延長上に過ぎない掟で、八分(仲間外れ)にした人間は人間扱いされませんが、今そんなことを肯定する人はあまりいないでしょう。
倫理で人間扱いを左右してはいけないのです

だから、そういう人は、自分の世界観や価値観と異なる人との「ほぼ全ての」人間関係を、一律、支配-被支配モードに切り替えることになる。
「これすらわからねー、やれねーやつに、人間扱いもくそもあるか!
いっちょ前みたいな面してガタガタ言うな! うるせー! 黙れ! いいからやれっつってんだよ!
できない? そして、嫌だ? ふーん。もういい。お前はやはり人間じゃない。いないものとして扱う」
この漫画の場合、真ん中をすっ飛ばして、結果的に最後の状態になってしまいました。

***

さて。
恐ろしい話をします。
これを突き詰めると、ふつうの、必要に応じて話し合う人間関係が、みるみるうちに出来なくなります。
何かトラブルがあった時に、トラブルに関わる人と必要に応じて話し合うことを、そもそもしなくなるからです。

だって、「トラブルに関わる」人は、高確率で気に食わなく見えるものだし、じゃあかなり早い段階で「口もききたくねえ」になりますね。

***

この漫画だと、子供は母の味方になってくれていました。
運が良かったですね。
ふつう、上の構造は、子育てに露骨に出るものです。そうなったら毒親問題そのものですね。
この漫画では、子供は分かってくれて良かったですね。物分りが良い子だった。
もしそうでなかったら? この漫画はもう、夫婦喧嘩を通り越して、家庭内戦争になっていたでしょう。よくある話です(が、そうなったら漫画のテーマはブレてしまいます)。

***

あと、かなりキツイ話になりますが、愚痴を聞いてくれる友達が、
「あいつ、自分の毒話を話すだけで、まともな話はもう出来なくなってきてるよな。
こちらはカロリーを持ち出しにして聞いてやってるのだが、甘えられているし、当たり前みたいな面されてるし、悪いとも思ってなさそうだよなあ。
まともな話不能人(できんちゅ)に、感情の捌け口として道具扱いされてるの、二等人類扱いされてるなあ。嫌だなあ。舐められてるなあ。クソウザイなあ」
と、みるみる離れていく話がよくあります。

もっとキツイ時は、最後のところは
「まともな話不能人(できんちゅ)の二等人類に」
になります(良くないことですが)。
自分がどんどんまともな人扱いされなくなる。二等人類扱いされるようになる。

人の話を聞く人は、カロリーを費やして、それをやっていることがあります。(実際、ありますよね。しばしば)
そういう人は有難いのですが、またこの手の人は、カロリーを費やして行われる行為を当たり前みたいに受け取られて、挙げ句
「やってくださいよ。やくめでしょ」
という扱いをされることを、心底忌み嫌っています。
(私もここはブチブチブチブチギレポイントです)
それは、味方扱いであろうとも、断固として道具扱い、二等人類扱いだからです。

敵どころか味方をも二等人類扱いする人味方で居続けられる人は、あまりいません。不愉快だし危険だから、ふつうに去っていくでしょう。
ある人が、二等人類扱いを選択肢として採用した結果、これになっていく場面を、しばしば見てきました。実に嫌なものです。世界残酷物語と言ってもいい。そして、心底、関わり合いになりたくない。
そういう路線に入るの、やめた方がいいですよ。マジで。

10.「二等人類相手にやっていいと思われていること」は、実際にはやったら一発アウトである。そういうことをしてはならない

さっき、ちょろっと、罰するが正しいとは限らない親の話をしたので、どうであると「正しくない罰」とされるのか、の話もしたいと思います。

でもこれは簡単です。
道徳倫理において、には2つの意味があり、基本的にそれぞれ排他的です。
「「これをやったらダメだ、やめよう」と思い知らせる。このとき生命身体機能をダイレクトに破壊したりなどはしない」
か、
「やれないように生命身体機能をダイレクトに破壊する」
かです。
しかも後者の罰は今やほぼ法的に許されなくなっています。
警察官や刑務官が被疑者や受刑者を殴ると、昔は知りませんが、今は明るみに出たら一発実刑でしょう。
特別公務員暴行陵虐罪は有名無実という訳ではなく、なんと運用されます(信じられないと思いますが)。

んで、じゃあ、前者が残るのです。

***

つまり?
「「これをやったらダメだ、やめよう」と思い知らせる」
時に、
「何をやったらダメか、そもそも教えない」
と、これはダメです。何も思い知りようがない。

身に覚えがあるかもしれません。
これをやると、相手はいたたまれなくなり、当初は自主的に考えて先方の考える正解に沿おうとします。
しかも、これをそのままにしておくと、ある日相手は全く逆に、先方の意向を二度と全く聞かなくなります。

当たり前なんですよね。
「正解は自分で気付け。先方は教えない。理解できないヒントしか出ていない。説明ももうない。つまりはノーヒントである。
思考しても正しい保証は全くない。ヒントも説明ももうないんだから。
そして10パターン知恵熱を出して考えて全部空振りしてバテて、20パターン知恵熱を出して考えて全部空振りしてバテて、それがおそらく一生続く。
こうなると、それは事実上、当面継続可能ではあるが、達成はおそらく不可能な工程になっている。
自分のやったことは全部不正解にされるし、これからも不正解にされるであろう。
じゃあ、うんざりだ。正解まで付き合ってられない」

そういうことです。

「自分でノーヒントで気づかせる」パターン、なぜか良さそうに見えるらしいが、「これは改まった大事な話である」パターンより、はるかに非効率的になる。当たり前で、何度も言いますが、答もヒントも示されないからです。
また、理解が深まる可能性も低い。いきなり深く分かるという頓悟、禅でも一般にハードルの高いやつです。禅僧でない人にそんなことが可能な訳がないんだよな。
そういう風にして、相手の思考リソースを他人が無駄に消耗するなよな、と言いたい。本当に無駄で無意味な遠回りなんだから。

***

そして、相手の思考リソースを他人が無駄に消耗すると、相手の思考リソースは枯渇し、思考は追い詰められる。他人に。
そしてそれは
「相手の思考リソースを他人に無駄に消耗されて意に沿わない他人の意を汲んだ言動をする」
という意味では、実は暴力や威嚇や強請ほぼ同じ効果がある。
(この場合、他人の意向は察するしかないのだから、他人の意を汲むことは事実上不可能である分、なおたちが悪い
これは、平たく言うと、毒親による子供の調教とかの手管ですよ。

***

「しょうがないでしょう。こいつは二等人類なのだから」

そういう話がしたいのなら、前半の方でも言いましたが、「違います」。
「二等人類相手にやっていいと思われていること」は、実際にはやったら一発アウトです。
そういうことをしてはならない。

暴力、威嚇、強請、圧力、貫徹不能な(それゆえに罪悪感を煽る)矛盾した要求。
これらには「相手の自由意志を歪めてこちらの意を汲ませようとする」というところで共通点があります。
そもそも、繰り返しになりますが、自由意志とかの広く一般に備わる人間の性質に対する、
「こいつの人間の性質は二等人類だから侵害されて良い」
という二等人類扱いは、この時点でもう人間が人間にしてよい扱いではありません。
まして、「二等人類にしか見えない」という理由で支配-被支配関係をする
の、なんなら「支配したいがために相手を二等人類扱いする」モラハラ関係とは違うとはいえ、実際に行われていることは同じであり、掛け値無しの「悪いこと」です。
やめましょう。

***

そんな読書体験をしました。
あーーー不愉快だった。やっぱりなあ。
これでスッキリする人、たくさんいるんだよな。
こらしめたいが解決はしたくないなら、これでもいいのか?
なーーーんも良くないが?
私はこれ、端的にバカげていると思うの。

はい! 終わり終わり! 次!


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