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『夜尿』



『夜尿』


算数の授業中、凌の後ろの席に座っている宮下君が突然、おもらしをした。
宮下君は口をへの字に曲げ、顔を真っ赤にして、股間を押さえつけているものの、小便はとまることなく、床にじょぼじょぼと流れ落ちた。


異様な雰囲気で教室がざわめいた。
女子が黄色い声を出して騒ぎ出した。
男子も頓狂な声を出して騒ぎ立てた。
凌は、はっとして、宮下君の顔から目をそらした。
他人が人前でおもらしをするところをはじめて目の当たりにして驚愕したのだ。しかも、それが毎日一緒に下校している友達だった。凌の机から分度器が床に落ちた。それを拾うときに指が震えた。



窓際の席にいる海来ちゃんが宮下君のことを見ている。宮下君が密かに想いを寄せる女子である。
海来ちゃんは他の女子と一緒に失笑しながら、狼狽する宮下君を見ていた。前の席の女子に何か耳打ちしながら、意地悪な目をしてちらちらと観察した。
宮下君は先生に言われてトイレへ行った。顔を赤らめ、背中を丸めて、皆にげらげら笑われながら。


凌は宮下君が気の毒でいたたまれなかった。
全く笑えなかった。なぜなら、宮下君とは仲が良いし、海来ちゃんのことも恋愛相談されていたので、宮下君の心中を察すると、あまりにも憐れであり、悲しく、かわいそうな思いが胸を去来した。



小学四年生の尿失禁は昼間の珍事として、その日のうちに学年中に広がり、皆の笑い物にされた。
そして、ついたあだ名が「アンモニア」である。
子どものユーモアは単純で、残酷で、恐ろしい。
翌日から宮下君はクラスの男子にいじめられた。
無論、凌と宮下君の付き合いは何も変わらなかったが、宮下君は学校を休みがちになっていった。


ある日の夜中、凌は目を覚ました。
すると、股間が生温かい。凌は、はっとして、布団から飛び起きると、案の定、おねしょをしていた。
部屋の電気をつけると、パンツがびしょびしょであり、シーツの真ん中には楕円形のレモンイエローの染みができていた。しかも、そこから生温かい小便の臭気がして、胸がむせ返りそうになった。

ああ、またやっちゃった……

とつぶやいて、肩を落とした凌は、
黒くて丸い染みのある天井を見上げて涙ぐんだ。


凌は毎晩のように、おねしょをしている。
小学校に入ってもおねしょが治らず、それは小学四年生になった今でも治る気配がなかった。
夕飯時に飲み物をあまり飲まず、寝る前は一切の水分を絶っているのにもかかわらず、なぜだかおねしょをしてしまう。そして、汚した布団を見て虚しい気持ちになり、自分のことを嫌悪するのである。


自分は十分に気をつけているはずなのに、なぜ、こんなにおねしょばかりしちゃうのだろう…
このまま学年が上がっていっても、おねしょが治らないのかもしれない。
小学六年生になると、修学旅行がある。
一泊二日で他県へいく。
そのとき、宿泊先の旅館やホテルで自分だけがおねしょをするのではないかと考えると、いても立っていられなくなり、今から憂鬱になっていた。
そうやって、日々、おねしょの不安と苦しみに煩悶しているのだ。



また、明日の朝、父と母におねしょをしたことがばれて、二人から叱られることに慄いていた。
殊に、父は凌に対して厳しい。
おねしょをするたびに、目を剥いて激昂し、


凌!小学四年にもなって、何をやってんだ?
幼稚園児じゃないんだぞ。
いや、幼稚園児でもこんなにしょっちゅうおねしょをしないな。お前は幼稚園児以下だ。
いい加減にしろ!病院に行くか?
膀胱が悪いのかもしれん。


などと言いながら、凌の頭を平手で叩いた。
そして、凌は泣きそうになりながら、
母の顔を見ると、白粉をつけたような病的に白い顔をした母は、あきれたように冷然と、


一体、何回言ったらわかるのよ?
そのパンツとパジャマと蒲団は誰が洗濯すると思ってんの?
蒲団にも小便臭が染みついているじゃない。
天日干ししなきゃいけないし、
もう、たいへんなんだから!
本当に汚いったら、ありゃしない!


と声を荒げて父に加勢し、凌を攻撃してくるのだ。毎回のそれが、凌にはたえられなかった。
凌は絶望を感じた。この世界から消えてしまいたくなる瞬間だった。だから、おねしょを早く卒業したいが、どんなに気をつけても、結局、おねしょからは逃れることができなかった。どうすればいいのだろう。解決方法が見つからない。やはり、病気へ行くしかないのか。怖いので行きたくなかった。


ある日の給食の時間、互いの机を向かい合わせにしてくっつけて、六人でひとつの班をつくり、皆で給食を食べていた。凌と宮下君は同じ班である。
すると、他の班のある男子がカレーのおかわりをするときに宮下君の背後を通った。彼はトレイに乗せた器にあふれるほどのカレーをよそうと、席に戻るときに彼はふたたび宮下君の背後を通った。
そのとき、宮下君はパックの牛乳を飲んでいた。トレイを持った彼は、宮下君の痩せた背中にわざとぶつかった。宮下君は口から牛乳を吐き出した。吐き出した牛乳がだらだらと服や机上にこぼれた。



宮下君と同じ班の女子たちは、「きゃあ、汚い!」と悲鳴を上げた。同時に、宮下君の頭上からカレーの器が降ってきて、宮下君の顔はカレーまみれになった。無論、カレーの器をひっくり返すところまでがその男子のあくどい目論見だったのである。
その瞬間、クラスメイトのほとんどの人がげらげらと笑った。殊に宮下君をいじめている一部の男子たちは手を叩いて爆笑した。「アンモニアカレー!」などと揶揄する声がどこかから聞こえてきた。窓際の席にいる海来ちゃんも口を押さえて笑っていた。そんな周りの雰囲気に流されて、凌も宮下君のカレーまみれの顔を見て笑ってしまった。しかし、笑ってからすぐに、白目を剥くような不快感が胸に押し寄せてきた。宮下君は悲しそうな顔をしていた。それを見た凌は、自分が恥ずかしいことをしている愚劣な人間だと思った。目の前にいる友達の宮下君を自分は見殺しにしたのだ。自分も一部の男子たちのいじめに加担したようなものだ。凌は後悔した。




すると、宮下君がつと席を立ち上がり、カレーまみれの顔を真っ赤にさせて、近くにいるその男子に掴み掛かった。わめきながら髪の毛を引っ張り、顔を殴ろうとしている。狼狽した男子は、そんなつもりはなかった、と言い訳をしながら抵抗している。教室が静まり返った。すぐに担任の先生が二人の喧嘩を止めたので事態は収束したが、宮下君の怒りはおさまらず、食べかけの給食をトレイごと手荒にひっくり返して、教室を出ていった。皆が呆然としていた。その後、凌は先生に言われて、男子トイレで顔を洗っている宮下君に体操着を持っていった。



宮下君は髪の毛と顔がびしょ濡れになっており、カレー臭い顔をゆがめて、「凌君、持ってきてくれてありがとう…」と言ってはにかんだ。それが如何にも凌に対して気を遣った笑い方だった。目が真っ赤だった。凌はそれ以上、宮下君の顔を見ることができずに踵を返してトイレを出た。胸がもやもやし、下腹で回虫が蠢いているような異物感を覚えていた。


その日の夜中、凌は目を覚ました。
昼間の学校のトイレで、宮下君が敵愾心を燃やした険しい顔をして、凌のことをにらんでいる、という悪夢を見た。全身が汗でぐっしょりと濡れており、パンツも濡れていた。凌は、はっとすると、やはりその夜もおねしょをしていた。しかも、凌の体は股に挟んだ枕ごと蒲団の中で反転していた。
凌はおねしょもするが、寝相も悪いのである。


あーあ、またやっちゃった……


と思いながらパンツを脱ぎ、股間を丸出しの状態で、電気を点けずに畳の上であぐらをかいていた。
家の中はおそろしいほど深閑としていて、部屋の襖を開けると、廊下も真っ暗であり、廊下を隔てて斜向かいにある台所の少しゆるんだ水道栓から垂れる水滴のぽたぽたという音しか聞こえこなかった。
家族の気配を感じない。本当はこの家には自分ひとりしかいないのでないかと思うような不安と孤独を感じて、心細くなった。涙が出そうになった。


そのとき、家の外から鋸や斧で木を伐る音がしてきて、やがて、大木が付近の立木と触れ合いながら倒れかかる大きな音が響き渡った。それは夜中、家の裏山でたまに起こる不思議な現象なのである。
それを郷里では、「天狗の空木返し」と言う。
翌日、その音がした辺りに様子を見に行ってみても、何も変わったことがないのだ。



天狗の空木返しを聞いた凌は、鼻の頭にじわっと汗をかいた。この夜中の音にまだ慣れていない。
凌は濡れたパンツをつまんで、部屋を出た。
廊下の板張りの床が冷たかった。電気を点けると、家族の誰かが起きてきて、おねしょをしたことがばれそうなので、電気を点けずに廊下を歩いた。
素足の凌は、真っ暗な廊下を歩くひたひたという自分の足音が、まるで自分に近づいてくる誰かの足音であるかのような奇妙な錯覚を感じながら、パンツをどこに捨てようかと悩んでいた。股間を丸出しにしているせいで風邪をひきそうになり、廊下の中途で歯が抜けそうなほどの大きなくしゃみが出た。


おねしょは女の子より男の子の方が多いらしい。
しかも、長男に多いという。おねしょをする子どもの五割が長男であり、おねしょ率が一番低いのが、長女だというのだ。これは不可思議な統計である。
また、おねしょが治らない子どもは発達がゆっくりめで、年齢に比べて幼い感じの子が多いそうだ。


結局、凌のおねしょは小学校を卒業する直前まで、とうとう治らなかった。危惧していた六年生の修学旅行のときは、当日の朝から水を一滴も飲まなかったせいからか、皆の前でのおねしょはまぬがれた。中学に入ると、いつの間にか、おねしょが治っていたが、凌は自分が小学六年生までおねしょをしていたということは家族以外の誰にも言わなかった。



あの時分から二十年くらいが経った。
元々、膀胱のサイズが他の人に比べて小さいのか何なのかはわからぬが、凌は多尿であり、日常的に頻繁にトイレに行きたくなる体質は変わっていない。
しかし、あの時分のようにおねしょをして腐心し、精神的に負担になることがないことは確かだ。


早朝、凌は仕事へ行くために街中の歓楽街を歩いていた。すると、シャッターが降りた飲食店の前で二十くらいの男が体をくの字に曲げて酔いつぶれており、地面で爆睡していた。男の右手にはペットボトルのコーラが握られている。よく見ると、男の股間が濡れていた。白いズボンをはいているから、余計に濡れている箇所が目立っていた。のみならず、尻は焦茶色に染まっている。糞まで漏らしていた。


凌はそれを近くで見て、
あーあ、派手にやっちまってんな……
と思い、失笑したが、その男の醜態を見たとき、
昔の自分のおねしょのことをふと思い出したのだ。



宮下君とは小学校を卒業してから、一度も会っていない。中学でばらばらになったということもあるが、それよりも宮下君の両親が離婚し、母親とどこかへ引っ越したということが大きかった。今では、どこで何をしているのかさえ皆目わからない。


          〜了〜



愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。

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