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湯浅政明監督 『犬王』 : 〈敗れ去る者〉への共感と哀悼

映画評:湯浅政明監督『犬王』

私の好きな、湯浅政明監督の新作である。
と言っても、「ミュージカル・アニメーション」ということを前面に出して宣伝されていたから、湯浅作品だということに気づくのに、けっこう時間がかかった。

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湯浅政明監督と言えば、劇場用長編としては『マインド・ゲーム』『夜は短し歩けよ乙女』『夜明け告げるルーのうた』『きみと、波にのれたら』、そして本作『犬王』ということになって、監督として注目されたのは、たぶんオリジナル作品である『夜明け告げるルーのうた』からだろう。
そのほか、シリーズ作品としては、『夜は短し歩けよ乙女』と同じ原作者、人気作家・森見登美彦の『四畳半神話大系』があり、実写映画にもなったヒットマンガをアニメ化した『ピンポン THE ANIMATION』があり、また同じく実写映画にもなった人気マンガをアニメ化した『映像研には手を出すな!』などがある。

だが、私にとっての湯浅政明とは、OVA作品『DEVILMAN crybaby』の監督であった。

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さて、待望の新作『犬王』一一と言いたいところだが、じつは、そうでもなかった。だから、なかなか湯浅作品だとは気づかなかったのだ。
なぜ、待望していなかったのかというと、前の劇場用長編『きみと、波にのれたら』が、イマイチだったからである。

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湯浅監督は、間違いなく優れたアニメ監督なのだが、だからと言って、傑作ばかりが作れるわけではない。それは当然なのだが、『きみ波』には期待してたので、そのぶん期待外れ感が大きかったのだ。
私が思うに、湯浅監督は、一般的に求められている「青春悲恋映画」は、苦手なんじゃないだろうか。『きみ波』は、いささか妙なズレ方をした恋愛映画で「なんでこうするかな?」という感じが残ったのである。

で、今回の『犬王』だが、前述のとおり「ミュージカル・アニメーション」ということで、そもそもあまり「音楽」や「ミュージカル」に興味のない私だから、初めから期待はしていなかったのだが、いちおう観ておこうという感じで観に行った。当日は、幾原邦彦監督の『劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』 [前編]君の列車は生存戦略』の、大阪での上映が最終日だったので、それを観に行くついでに観てこようと考えたのだ(湯浅監督、申し訳ない)。

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『犬王』は、古川日出男が書いた小説『平家物語 犬王の巻』を原作として、実在の猿楽師・犬王を、人々を熱狂させた「ポップスターとして」華やかに逞しく描く作品となっている。

『室町の京の都、猿楽の一座に生まれた異形の子、犬王。周囲に疎まれ、その顔は瓢箪の面で隠された。
ある日犬王は、平家の呪いで盲目になった琵琶法師の少年・友魚と出会う。名よりも先に、歌と舞を交わす二人。 友魚は琵琶の弦を弾き、犬王は足を踏み鳴らす。一瞬にして拡がる、二人だけの呼吸、二人だけの世界。
「ここから始まるんだ俺たちは!」
壮絶な運命すら楽しみ、力強い舞で自らの人生を切り拓く犬王。呪いの真相を求め、琵琶を掻き鳴らし異界と共振する友魚。乱世を生き抜くためのバディとなった二人は、お互いの才能を開花させ、唯一無二のエンターテイナーとして人々を熱狂させていく。頂点を極めた二人を待ち受けるものとは――?
歴史に隠された実在の能楽師=ポップスター・犬王と友魚から生まれた、時を超えた友情の物語。』

「犬王のオフィシャルサイト」の「STORY」より)

犬王は、猿楽師の家に生まれた三男で、彼の父親は、猿楽師の頂点に立ちたいという執念に取り憑かれた男だった。ところが、時の権力者・足利義満は、美少年・鬼夜叉(のちの世阿弥)の優美な舞に魅せられており、このままでは、犬王の父が担った猿楽の伝統は絶たれてしまう。そう焦っていた。

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そこで、彼は「魔物の憑いた禁断の面」に「俺に、まだ誰も知らない、新しい平家の物語を教えてくれ」と依頼し、魔物はその代わりに、まだ男の妻の胎内にいた犬王の体をもらい受けるという契約を結んだ。そのため、犬王は化け物のような歪んだ体で生まれてくることになった。

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さて、ここで犬王の父親が、魔物に「俺に、まだ誰も知らない、新しい平家の物語を教えてくれ」と依頼するのは、どういうことなのか。それは当時「平家物語」を舞う猿楽が大ヒットしており、その知られざる「新作ネタ」を手にして舞えば、大成功は間違いなし、と考えられていたからである。

で、「異形」として生まれてきた犬王は、親から名前さえ与えられず、しかし飼い犬同様の食べ物だけは与えられ、衣服でその醜い全身を隠して成長していた。「犬王」といういう名前は、自分でつけた名前である。
しかし、そんな育ち方をした犬王だが、性格は天真爛漫で活動的である。運動神経も人並み以上に優れていたから、その異形の体を生かした「ブレイクダンス」のような舞を勝手に編み出して踊り、街中を駆け回っては、自由気ままに生きていた。

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そんな折、犬王は、京の都にやってきた、琵琶法師の少年「友魚」と知り合い、やがて二人は新しいパフォーマンスを作り上げ、それが京の都で大評判となる。

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そして驚くことに、そのパフォーマンスが最高潮に達した時、魔物に奪われた犬王の体の一部が戻ってくる、という奇跡が起こった。
つまり、パフォーマンスを続けていく中で、犬王は美しい人間の体を取り戻すとともに、芸能人としての評判をますます高めていくのである。そして、ついには、足利義満の御前で舞うことになり、最後はその舞台で「人間の顔」を取り戻して、誰にも恥じることのない猿楽師になるのである。

ここで、犬王の出生の秘密が、手塚治虫のマンガ『どろろ』の百鬼丸の設定を踏まえたものであるというのは、『どろろ』を知っている人なら、誰でも容易に気づくことだろう。

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百鬼丸の場合は、父親が権力を得るために、息子・百鬼丸の体を魔物に売り渡し、ヒルコのような体で川に流されて捨てられた百鬼丸は、彼を拾ってくれた医師によって、作られた体を与えられた(わかる人は『ブラックジャック』のピノコを思い出すといい)。そして、成長した百鬼丸は、自分の体を取り戻すべく旅に出、そこで孤児の少年(?)どろろと知り合って、二人で妖怪退治の旅を続ける、という、そんな物語が『どろろ』である。


(※ 以下、本作のネタばらしを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください)


さて、犬王は友魚と知り合うことで「舞踏家」として大成功するわけだが、しかし、犬王の社会的成功が頂点に達した時、時の権力者である足利義満は突然『平家物語』の新作を禁止し、政治的に統一された『平家物語』の「聖典」を作って、それ以外は禁止すると命じた。
要は、「過度な解釈」「過度な自由」は「危険だ」という権力者の発想に立って、文化を管理しようとしたのである。

そこで、せっかく「自分たちの新しい芸術」を生み出したのに、それを禁じられるなんて納得がいかないと、友魚は徹底的に抵抗するが、役人たちは彼に「犬王はその方針に承服したぞ」と伝え、友魚を驚かせる。その頃すでに、犬王は義満お抱えの猿楽師になっていたのである。

もちろん、犬王とて、自由に踊りたかったのだが、時の権力者に逆らうことはできないし、せっかく得た立場を捨てることなど出来なかったのだ。
だが、友魚は一人、徹底的に抵抗し、そして殺されてしまう。
親友だった二人は、こうして永遠に引き裂かれてしまうのである。

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本作は「ミュージカル・アニメーション」というだけあって、何と言っても見せ場は「コンサート」のシーンである

歴史的に言えば、もちろん犬王や友魚が、どんなに「新しい」といっても、それは無論「猿楽師」と「琵琶法師」の「芸」として、新しいだけであって、今の目でそれを見れば、何が新しいのかわからない、「古いもの」にしか見えないだろう。
だが、それでは現代の観客に見せる映画にはならないので、犬王の舞は、猿楽というよりも、ブレイクダンスやヒップポップダンス、あるいはバレエなどの要素をすべて自由に取り込んだ、「自由」で「大仕掛けな」ストリートダンスのパフォーマンスとして表現され、友魚の演奏はロック歌手のそれとして表現される。

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そんなわけで、犬王が四条の河原で集まった民衆たちに見せるパフォーマンスも、将軍義満の前で見せるパフォーマンスも、宙吊り芸で有名な市川猿之助の前衛歌舞伎にバレエなどの各種舞踏をすべて取り込み、さらに劇団四季もかくやという仕掛けのある、ド派手な舞台として描かれている。
一一だが、私は、この「ミュージカル部分」には、まったく感心しなかった。

ここに最大の労力を注ぎ込んだ作品であるのは間違いないから、それに圧倒されて「よかった」と思ってしまう観客もいるだろう。だが私に言わせれば、これはわざわざアニメにするようなものではなく、むしろそのまま人間の肉体によって演じられてこそ、その価値を有するものでしかなかった。
これはどう見ても、二次元のアニメでは勝ち目のない「肉体のパフォーマンス」を、無理にアニメに移そうとして、その限界を見せつけることにしかなっていなかったと、そう評価するのだ。

ただし、成人した犬王の声を担当した、ロンクバンド「女王蜂」のボーカル・アヴちゃんの歌声は、問答無用に素晴らしかった。
だが、その前座ともなる、森山未來演ずるところの友魚の歌は、正直言って、いただけなかった。
友魚の歌を聴いて、「ミュージカル・アニメーション」を謳っているのに、ダンスの部分では、人間の肉体には及ばず、歌の部分が「この程度ではどうしようもない」と諦めかけた時、名前も知らなかったアヴちゃんの歌声に、私は圧倒されたのである。「こいつはすごい」と。

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(森山未來・アヴちゃん・湯浅政明監督)

したがって、ここまでだったら、アヴちゃんの歌声にしか魅力のない、「失敗作」ということになってしまっていただろう。
だが、最後の最後で、この物語は湯浅監督ならではの作品になっていた。

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どういうことか。

「自由」を求め続けた友魚は殺され、親友だったはずの犬王は、やむを得なかったとはいうものの、結局は権力者の子飼いの猿楽師として栄達し、そのかわりに「自由」を捨てて、「普通の猿楽師」になった。足利義満が犬王に求めたのは、そんなものでしかなく、彼個人の趣味は、美少年の鬼夜叉にしかなかったのである。

つまり、犬王は、親友である友魚を裏切ったのであり、その罰であろう、彼は歴史に名を残すような存在ではなくなって、鬼夜叉こと世阿弥の方が、歴史にその名を刻むことになる。

一一つまり、これは、どうしようもなく「救いのないバッドエンド」と見えたのだ。

だが、ここで物語はいっきに「現代」へと飛んで、そこに琵琶をかき鳴らす友魚が登場する。彼は「幽霊」なのか?

その説明はなされていないが、普通に解釈すれば「恨みを残し、死ぬに死に切れなかった友魚の霊」とでも呼ぶべきものであろう。まさに「平家の遺恨の物語」を謡う「琵琶法師の亡霊」といったところだ。

ところがここに、成人した犬王(の霊)が現れて、懐かしそうに友魚に呼びかける。
そして、向かい合った二人は、いつの間にか初めて出会った時の子供の姿に戻って、手を取り合って笑いながら、夜空の中へと駆け昇っていき、この物語は終わるのである。

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一一さて、このラストシーンは、何を意味するのであろうか?

これも普通に考えれば、ずいぶんご都合主義的な、取って付けたような「救い」としての、無理やりな「ハッピーエンド」ということになるだろう。

実際のところ、犬王は権力者の子飼いとなることで「自由」を捨てて、友魚を裏切ったまま、歴史の闇へと消えていった「敗者」であり、友魚は「自由」を手放さなかったために、権力者によって虫けらのように惨殺された、哀れな被害者である。
だから、来世だか、転生の果てだか、天国だか、それがどこであろうと、いずれにしろ、再開した二人は、ともに死んだのだから「すべてを許し合い、子供の頃に戻って幸せに成仏した」一一というのでは、宗教的にはありかもしれないが、物語としては、いくらなんでも「そんなのありか」というオチにしかならないだろう。

しかし、私には、このラストシーンに賭けた、湯浅監督の想いがわかるような気がして、思わず感動の涙を流してしまった。一一これはまさに『DEVILMAN crybaby』と同じではないかと。

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『DEVILMAN crybaby』は、牧村ミキを愛し、そして人間の側についてデーモン族と戦った「半人半魔」のデビルマンが、最後は人間にまで裏切られ、その絶望的なデーモン族との戦いの末に、彼の理解者であった、飛鳥了こと堕天使サタンに見守られながら死ぬところで終わる。つまり、デビルマンの生と死もまた、報われない「敗者」の生と死だったと言えるのである。

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そして、この作品に終始響き続けていたのは、子供の頃の、心の優しい少年・不動明の鳴き声であった。一一これは一体、何を意味しているのであろう。

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私が思うには、湯浅監督が描きたかったのは「正義が勝つわけではない」「善人に幸せが訪れるというわけでもない」という当たり前な、しかし悲しい現実認識と、その悲しい現実の中で、敗れ去っていく者たちへの「共感と哀悼」の念ではないだろうか。
湯浅監督が描くのは、いつでも「勝者」の側ではなく、また「勝者となる弱者」ですらなく、無念を呑んで敗れ去っていく者たちへの、哀悼なのではないだろうか。

https---hiddenremote.com-files-2021-09-「DEVILMAN-crybaby」_2_デビルマンのコピー

そう考えれば、友魚は無論、権力に屈して、大事なものを手放さなければならなかった犬王もまた、哀れな敗者だったと言えるだろう。その意味で、友魚と犬王の間においては、「自由を捨てた」裏切りなど、本質的な問題にはならない。二人はともに「敗者としての弱者」なのである。

このように二人は、決して、恨み恨まれなければならない関係ではないのだから、彼らの魂が、この世の束縛から解放された時、彼らの魂が無垢な子供に戻って「自由」を手にするというこのラストは、決して理不尽なものとは言えないのではないだろうか。
少なくとも、湯浅監督はそのように考える人だからこそ、このようなラストをつけることができたのではないだろうか。

私は、まだ湯浅監督の作品を『DEVILMAN crybaby』『きみと、波にのれたら』、そして本作『犬王』くらいしか観ていないが、『犬王』を観ることで、『きみと、波にのれたら』の「青春悲恋映画」らしくない、妙にズレた部分が、何を意味していたのかが理解できたように思え、この3作が繋がった、と思えた。

『きみと、波にのれたら』の「青春悲恋映画」らしくない、妙にズレた部分とは、これもまた「敗者」の物語という側面にあったのではないだろうか。
死んでしまうことによって、恋人の元を去らねばならない青年の物語は、よくある「余命幾ばくもない少女のために、少年が全力を尽くす物語」とは、男女の立場の単なる逆転というわけではなく、「死んでいく方の青年」が「少女のために奮闘する物語」ではなかったか。その意味で、この青年は、最後は敗れるしかない戦いを戦いきって、敗れていった魂だと言えるだろう。
どうして、彼はこんな運命に捉われてしまったのか。死んで消えてしまう彼には、およそ「救い」というものはないのである。

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一一だが、それが「死」というものであれば、湯浅監督はそこを誤魔化して、綺麗事の感動物語に落とし込みたくはなかったのだろう。だから、この物語は「青春悲恋映画」らしくない、妙にズレた作品になったのであろう。少なくとも、監督にとっては、そこは妥協できない「敗者への哀悼」表現だったのではないだろうか。

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そんなわけで、本作『犬王』は、普通に観れば、「傑作」とは言いがたい、およそ「カタルシス」のカケラもない、救いのない物語として締めくくられている。ラストの部分は、多くの人にとって、取って付けたような「救い」だと感じられるだろう。
だが、そこには、湯浅監督がその本質に抱える、「敗者への哀悼」の想いが込められており、私はそこに感動したのだと思う。

そして湯浅監督の、この「妥協のない敗北」とは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』における、次兄イワンの「もしも人間が救われるための代償として、この世において、罪もない子供たちの涙が必要だと言うのなら、私はそんな天国など、こちらから願い下げだから、謹んで天国への入場券はお返しするよ」という言葉と、まったく同じものなのではないだろうか。

つまり、通俗的な「感動」のために、この世における「子供たちの鳴き声」を無かったことにしなければならないというのであれば、自分は喜んで「通俗的感動」を捨て、敗者とともに滅びよう。一一それが、湯浅政明監督の根底にある、想いなのではないだろうか。

友魚と犬王は、きっと、デビルマン(不動明)とサタン(飛鳥了)の生まれ変わりだったのであろう。

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(2022年6月11日)

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