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ジグムント・バウマン 『近代とホロコースト〔完全版〕』 : なんとも知れない 〈今〉を生きる

書評:ジグムント・バウマン『近代とホロコースト〔完全版〕』(ちくま学芸文庫)

本書の具体的な内容については、先行のレビュアーである「無気力」氏の紹介に尽きていると言ってもいいだろう。だから私は、本書を「どう読むべきか(どう生かすべきか)」について考えてみたいと思う。

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(アイヒマン裁判)

「ホロコーストとは、ユダヤ人差別というキリスト教世界特有の歴史に由来するものであり、決して普遍的な現象ではない」一一そんなふうに単純に考えるのは間違いだと、バウマンは言う。

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なぜなら、宗教的な民族差別といったものは、世界のどこででも見られることだし、キリスト教圏においても、これまでは、ユダヤ人との共存がそれなりになされてきて、ホロコーストのような「組織だった虐殺」など発生しなかったからだ。

ナチスによって行われた「組織だった大量虐殺」は、近代ならではの「官僚制と技術革新」があって、初めて可能であったという点を、決して看過してはならない。ホロコーストは、一部の人が「感情的な憎悪」において為してきたような、比較的小規模で散発的な虐殺行為などではなく、「近代的な合理性」に裏打ちされ「ルーチンワーク」の形式に落とし込まれた「作業」であったからこそ、それは粛々と遂行されもしたのである。

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(絶滅収容所へと移送されるユダヤ人)

私たちは、新しい「技術」を与えられ、それに支えられて「合理的に生み出されるもの」であるならば、その「当たり前の価値創造」に「感情的になる」ことはしにくい。それは「自明な事実」として、すでに「感情的になる契機」が、奪われてしまうからである。

このように考えていくと、「ホロコースト」を「今の私たち」と無縁なものとして考えるわけにはいかない、ということに気づくだろう。言い換えれば「ホロコーストは、今も生きている」のである。一一ただし、ナチスとそれと、全く同じではないだろうから、それはタチが悪く、たいがいは不可視化されているのである。

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(本書著者 ジクムント・バウマン)

たとえば、ナチスによる「官僚制と革新的技術」の利用は、現在においても進歩しているのだが、それは具体的にどのようなものであろう。
たとえば、それが「インターネット環境」である。

私たちは「インターネット環境」において、他者とのつながりを「間接化」されながらも、かえってそれを「便利」なものとして喜んで受け入れているし、そこでのコミュニケーションを、すでに自然なものとしている。

けれども、私たちは、そのことによって「他者」に対し、無意識のうちに感じる「同じ人間」として「肌感覚」、「身近なユダヤ人」的な感覚を失っている。
だから、ネットを介してなら、非人間的になれる人は、決して少なくない。と言うよりも、すべての人が必然的にそうなっている。ただ、その人が過剰に攻撃的にならないとすれば、それは自分の方が害されることを恐れるからであって、その不安さえクリアできれば、ネットの向こうの人間を「殺したって、別に平気」なのだ。

これは、かく言う私の実感である。
具体的に言えば、私はネット上で「ネット右翼=ネトウヨ」とよくケンカするが、その時に、相手が私の言葉に傷ついて自殺しても、ぜんぜん平気である。
もちろん、相手が自殺しても、こちらにはわからない場合が大半だということもあるが、仮にその死が伝えられても、私はさほどの痛痒も感じないだろう。所詮、それは一つの「情報」でしかないし、もとより覚悟の上で「自覚的にやっている」ことだからだ。私の場合は「こんなことになるとは思わなかった」などという間抜けなセリフなど吐けない立場なのだ。

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(ヘイトデモを繰り返した在特会の初代会長 桜井誠

こうした「ネット環境」は、もちろん現代的な技術革新の「一例」に過ぎない。例えば、「監視カメラ」や「マイナンバー制度」あるいは「スマホ」といったものによって、私たちに実存の大部分は相互的な「情報」でしかなくなっており、すでに「身近なユダヤ人」的な肌感覚の多くを失っているだろう。したがって、そんな私たちが、ナチス以上に冷酷に「統計的正義」を行使しても、何の不思議はないし、多分、すでにそれを行使しているであろう。

例えば、「経済的二極化」「貧困層の拡大」などと深刻ぶって論じたところで、私たちは自分自身がその憂き目を見ないかぎり、その「非人間性」を実感することは困難だろう。
「それは良くないよね。許されないことだ」などと言っても、それは理屈であって、例えば「トロッコ問題」的に、「100人を救うためには、1人に死んでもらうのも仕方がない」と、容易に考えることだろう(伝染病者の隔離、臓器移植、遺伝子操作など)。頑強に「いや、それは許されない」と言い張って「お前は馬鹿か」「仕方がないだろう」「文句を言うのなら対案を出せ」などと周囲から責められて、それでも「ダメなものはダメだ」と言い張れる人は少ないだろうし、「その根拠は、俺の美意識だ」と言い切れる人間など、100人に1人もいないだろう。だが、そういう人たちこそが、身の危険を冒してまで、ユダヤ人を救ったのである。

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(ヒトラー暗殺計画に加担して処刑された、プロテスタント神学者のディートリヒ・ボンヘッファー)

言い換えれば、私たちは、そういう「周囲から浮いたキチガイ」になることができるか、その覚悟をしているか、と言うことなのだ。

技術は日々進歩して、一部の隙もなく私たちを取り巻くだろう。そうした過酷な時代状況にあって、それでも「イヤなものはイヤ!」と言い切る、原始的なまでの「肉体性」や「感受性」を保持しないかぎり、私たちはきっと、新たな「ナチ党員」となることだろう。

私たちは、ユダヤ人を救った一握りのヒーローたちよりもずっと、ナチ党員に近いのは、言うまでもないことなのだ。だが、本当にその自覚を持っているだろうか。その恐ろしい現実を自覚できているだろうか。

はたして、本書を読んで、そんな自覚に至れる人が、いったい何人いるのだろうか。

初出:2021年4月23日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月14日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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