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川野芽生『奇病庭園』:〈夢の合理性〉において

書評:川野芽生『奇病庭園』(文藝春秋)

待望の長編幻想小説である。
お話的には「ダークファンタジー」ということになるのかも知れないが、本作は、あくまでも「幻想文学」であって、「ファンタジー」ではない。

「ファンタジー(小説)」というのは、現実世界とは違った「構成要素」を用い、それでいて「合理的でリアルな世界」の構築を目指す作品を言う。
その意味で、魔法が出てこようが、モンスターが出てこようが、それらは、その作品世界における「一貫した合理性」において組み込まれた、パーツでしかない。言い換えれば、それらの構成要素は自体は、いくらでも交換可能なものでしかないのだ。

ところが、「幻想文学」というのは、そういう「現実世界=リアル」における「合理性」とは、「別の合理性」において駆動している世界である。その点で、「幻想文学」は、「リアル」を基本とする「ファンタジー」とは、その本質を異にしている。

たしかに「幻想文学」にも「合理性」と呼んで良いものがあるにはあるのだが、その「合理性」とは、「現実世界における合理性」つまり「整合性としての合理性」ではなく、例えば「眠ってみる夢の合理性」とでもいったものなのだ。

「夢」を見ている時、私たちはその独特に奇妙な世界を、決して「奇妙」だとは思わず、それを自然に受け入れて、その世界の中で生きている。
目覚めたあとで思い返せば「変な夢だった」と感じるのだが、その「変」というのは、例えば「場面のつながりに飛躍があるのに、それを見ている私は、それを自然に受け入れている」といったところに発するものだ。つまり「現実世界の合理性」からすれば、「非合理的」というよりも、いっそ「出鱈目な世界」なのだが、「夢」の中では、その「出鱈目」が「合理的」に感じられるのである。

一方、繰り返しになるが、「ファンタジー」というのは、「構成要素」こそ「非現実的」ではあっても、「世界の構築原理」はきわめて「合理的」であり、言い換えれば「現実的」なのだ。「幻想文学」が描く世界とは違って、そこには「非合理的な飛躍」などはないのである。

これを、さらに平易かつ無粋にいうならば、「現実世界」や「ファンタジー」の世界の「構成原理」とは「形式論理的なロジック」であるのに対し、「幻想文学」の「構成原理」とは「アナロジー(相似性)のロジック」なのだ。
そこでは「Aさんがいて、Bさんがいて、それは別人であるけれども、同時に同一人物でもあり、また、Cさんでもあるし、それは、他ならぬ私のことだ」といったようなロジックなのである。

「現実世界」や「ファンタジー」の構成論理では、AさんはAさん、BさんはBさん、CさんはCさんで、「私」は「私」だと区別(自同律)して、初めて「合理性」を構築することができる。
「相違した側面」において「区別」することで、そうしたパーツを揺るぎなく組み上げていくのだ。
ところが、「夢の論理」あるいは「幻想文学の論理」というのは、「相似的共通性」を基準として構築されるから、目醒めている人間には「奇妙」に感じられる。
だがまた、それは「相似性という、別のロジック」で構成された、その意味においては「合理的な世界」だとも言えるのである。

もちろん、これは、俗に言う「幻想文学」のすべてに当て嵌まるような原理ではない。
「広義の幻想文学」ということで言えば、「ファンタジー」や「SF」だって、それは「幻想文学の一種」と言うことができるし、それはそれで決して間違いではないのだけれども、「幻想文学の幻想文学たるところを体現した幻想文学」とはどういうものなのかといえば、それが上で示したような、現実の合理性とは「異質な合理性」に貫かれた世界を描いた作品、ということになるのである。

したがって、「幻想文学」というのは、構成要素については「非日常・非現実」的なものである必要はない。あくまでも、「幻想文学を幻想文学たらしめているのは、異質な合理性」なのであって、「道具立て」の問題ではない。また、だからこそ「幻想文学」を書くには、独特のセンスが必要となる。

「現実世界の合理性」という強固きわまりない桎梏を逃れるためには、その「欲望」があるというだけでは足りず、それを実現するだけの「非常の力」が、是非とも必要なのだ。
もちろん、「欲望」あっての「力」ではあるのだけれども、しかし両者は決して、同じものではない。いかに「欲望」しても、この「現実世界の桎梏」から逃れられない者の方が、むしろ多い。

なぜなら、「幻想文学の世界」とは、現実世界的な「理性の世界」ではなく、「合理的理性」が「保障」を与えてくれる世界ではないからだ。
そうした分かりやすい保障を捨てて、あえてその外へを踏み外すことを恐れないほどの、何かを感じる者のための世界。その人にとっては、そこがそれほどの「希求の世界」であり「祈りの世界」でなくてはならない。
だから、そんな非常の覚悟がないかぎり、言い換えれば、「この世」との繋がりを担保する「命綱」を捨てるだけの覚悟がないかぎり、「あちらの世界」へは踏み込めない、ということなのだ。

また、だからこそ、理屈でそう理解していても、普通の者(例えば、私など)には、到底それが叶わない場所であり、脚がすくんで踏み出せない、その先にある世界こそが、「幻想文学」の世界である。
だからこそ、それはもはや「娯楽」にはならず、今どきは流行らないのであろう。

しかしながら、川野芽生は、そんな、今どき流行らない世界の血をひく、「幻想文学」の正統なる申し子だと言えるだろう。川野芽生には、正統嫡流の「呪われた血」が流れている。
望むまでもなく川野芽生は、あちら側からの「流刑者」であり、川野の紡ぐ物語は、あちらの世界の「記憶」なのだ。

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したがって、本作の「内容」を要約するのは、いかにも野暮なことであろう。

例えば、「夢」の要約ということを考えてみれば良い。そんなものに、なんの意味があるだろうか? そもそもそんなことが可能なのか?
まあ、普通に考えれば、「夢の要約」など無意味だし、そもそも不可能だろう。それは「幻想文学」たる本作『奇病庭園』についても、まったく同じことなのだ。

本書のAmazonページでは、本作の内容を、次のように紹介している。

『奇病が流行った。ある者は角を失くし、ある者は翼を失くし、ある者は鉤爪を失くし、ある者は尾を失くし、ある者は鱗を失くし、ある者は毛皮を失くし、ある者は魂を失くした。
何千年の何千倍の時が経ち、突如として、失ったものを再び備える者たちが現れた。物語はそこから始まる――

妊婦に翼が生え、あちらこちらに赤子を産み落としていたその時代。森の木の上に産み落とされた赤子は、鉤爪を持つ者たちに助けられ、長じて〈天使総督〉となる。一方、池に落ちた赤子を助けたのは、「有角老女頭部」を抱えて文書館から逃げだした若い写字生だった。文字を読めぬ「文字無シ魚」として文書館に雇われ、腕の血管に金のペン先を突き刺しながら極秘文書を書き写していた写字生は、「有角老女頭部」に血のインクを飛ばしてしまったことから、老女の言葉を感じ取れるようになったのだ。写字生と老女は拾った赤子に金のペン先をくわえさせて養うが、それが「〈金のペン先〉連続殺人事件」の発端だった……』

表面的な「筋」としては、これはこれで間違いではないのだけれど、この紹介文から本書の内容を推察したならば、「誤解」すること間違いなしだ。
この紹介文だけを読めば、何やら「特殊設定ミステリー」の一種ではないか、などと考えてしまうかも知れないが、そういうものでは、まったくない。

この紹介文を書いた人は、もしかすると、読者にわざと「勘違い」させることで、少しでも本書を売ろうとしてのかも知れない。
今どき「正統派の幻想文学」だなどと謳っても、若い読者は見向きもしないだろうから、「特殊設定ミステリー」風に紹介しておけば、勘違いした人が買ってくれるかも知れない。買ってくれ読んでもらえば、その時はこっちのもので、「これはミステリじゃなかった」とは言われるかも知れないが、しかし、結果として「不思議な小説で面白かった。こんなの初めて読んだ」と思ってもらえるはずだと、そう考えたのかも知れない。

しかし、川野芽生ほどの「本物」による「幻想文学」作品は、その程度の小手先芸では韜晦しきれない、独特の「匂い」を持っている。
それが、同類にピンと来るのと同時に、同類ではない「現実人間」たちにも、違った意味で何かを感じさせ、その結果、適切に、そうした人たちを選別して遠ざけてしまうことになるだろう。これは、しかたのないことなのだ。

だから、私は本作を「広く」読んでほしいとは言わない。そう望みたいのは山々なのだが、それは所詮、不可能事なのだ。
ならば、同じ「流刑者」にだけ、「そうです。これがそれなのですよ」とだけ、目配せとともに伝えれば、それで十分なのではないだろうか。

所詮、わからない人にはわからないのだ。「夢」は、要約不能なのである。


(2023年10月7日)

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