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【不条理】1分で分かるカミュ『シーシュポスの神話』 この理解不能な世界で反抗を貫け!

ロッシーです。

カミュの『シーシュポスの神話』を読みました。

本書は、『異邦人』『ペスト』などで有名なアルベール・カミュが不条理について考察した哲学的な論考です。

難解な部分もありますが、人生で一度は読んでおきたい一冊に挙げられると思います。

ただ、忙しい現代人は読む時間がない人もいるでしょう。そんな人のために、ざっくりと要点をまとめました。1分ほどで読めると思います。

以下、ざっくばらんな口語調で書きますのでご了承ください。

※あくまでも私の独断と偏見によるものです

【開始】

まずは「不条理」とは何なのかから始めよう。

カミュのいう不条理というのは、「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態」のことをいう。

なんだか小難しく聞こえるけれど、ざっくり説明していこう。

まず、人類は科学を発達させてきた。でも、いくら科学が発達しても、それに伴ってさらに分からないことが増えていく。まるでマトリョーシカのようにだ。だから、結局この世界はいくら人間が探求しても分からないし、理解を超えている。つまり人間の理性では世界を理解できないということだ。これは分かると思う。

でも、一方で人間というのは、禁断の知恵の木の実を食べてしまったせいか、とにかく「知りたがる」生き物なわけだ。「この世界の全てを理解したい!」という欲望を私達はどうしても抑えきれない

もちろん理性によって分かる範囲があるのも確かだ。そして、先人たちの努力により、その範囲をジリジリと広げてきたのが我々人類の歴史だといってもいい。でも、結局のところ分からないものは分からないのが現実なわけだ。例えば、この宇宙がどうやってできたのか?なんていう疑問に対しては、いくら時間が経っても分かることはないだろう。

こういう「理解不能な世界」と「世界を理解しようとする人間」という二つに引き裂かれた状態を「不条理」と呼ぶわけだ。

そして、あなた自身も不条理を実際に体験しているはずだ。

例えばこんなことはないだろうか?あなたは深夜に布団の中で横になりながらふと思う。「この世界っていったい何なんだ?」「死んだらどうなるんだ?」と。そのとき、地面の底が抜けたような感覚に陥ったことがあるんじゃないだろうか。

そう、その感覚だ。それがまさに不条理だ。いつもは日常に追われて気が付かないけれど、ふとしたときに世界と自分が断絶したような感覚に陥ることがある。でも、たまに気が付くかどうかに関係なく、私達は誰もがこの世界では「異邦人」なのだ(ちなみに英語で言うと”stranger”だ)。少しは不条理についてイメージできただろうか?

さて、あなただったら、そういう不条理な状況でどうする?

なんだかよく分からない状態でこの世界にオギャーと生まれ、子供から大人に、そして老人になり、世界のことは結局分からないまま死ぬ。寿命で死ぬ人もいるが、事故、天災、戦争、病気などで死ぬこともあるだろう。

人格者だろうが、大金持ちだろうが、賢人だろうが、有名人だろうが、バカだろうが、悪人だろうが、結局最後は死ぬ。そして後には何も残らないのだ。

後世に名を残す人もいるじゃないかって?

短期的に見れば確かにそうだろう。でも、1万年後、100万年後にその人の功績が残っているだろうか?その人のことを覚えているだろうか?そんなことはないだろう。

愚者も賢者も関係なく忘却される。つまり永遠なんてないのだ。

あなたも含め、誰もがいつかは死ぬ。ほとんどの人が、毎日起きて通勤して8時間働いて、食って寝て休日を過ごす生活を送る。そのような生活を、今より20年、30年長く続けたからといって、それに何か意味があるのか?
いまここで自分で命を終わらせたとして、何か違いがあるのか?

本書の冒頭で、カミュはこう言う。

「真に重要な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。」

『シーシュポスの神話』新潮文庫

こんな不条理な状況で、生きる意義があるのか?ということをカミュは私達に問うているわけだ。

自殺というのはその人にとって究極の選択だ。自殺をするべきと考えるのであれば、人生とは生きるに値しないということだし、自殺をするべきではないと考えるのであれば、生きるに値する何かがあるということになる。

この根源的な問いに比べたら、他の哲学者が対象にしている分野、例えば「この世界は本当に実在するのか?」とか、「物自体」を人間はきちんと認識できるのか?とか「イデア」がどうしたこうしたなんてことは「ク〇どうでもいい」ことなわけだ。

以前、私はマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』を読んだ(正確には途中で脱落した)けれど、「世界が存在しようがしまいが、そんなことはどうでもいい。So fuXXing what!」と思ってしまったので、カミュのこの意見には非常に賛同できる。

そんなお遊戯哲学よりも、自分の人生が生きるに値するのかのほうがよほど切実な問題だろう。

それにしても冒頭からガツン!とくるこの書き出しは本当にクールだ。若干二十代の青年だったカミュが、ほかの哲学者に対して、「お前らのやってることに意味あんのかよ?」と言ったわけだからね。

さて、話がそれたのでもとに戻そう。この世界で生きるべきか死ぬべきか問題だ。

あのハムレットもこう言っている。

To be, or not to be, that is the question.
生きるかべき、死ぬべきか、それが問題だ。

つまり、選択肢は二つあるわけだ。一つは不条理を生きること。もう一つは不条理な世の中から去ること。つまり自殺だ。

カミュは生きるべきだと考えている。

では、なぜ生きるべきなのか?
それは自殺が逃避だからだ

不条理というのは、最初に説明したとおり「人間 vs. 世界」という対立構造があるからこそ存在する。そりゃそうだ。人間がいなければそもそも不条理なんてないし、世界が理解可能なものなら不条理なんてないからだ。不条理はこの二項の対立により生まれるものであり、片方の項が欠けたら不条理は存在しない。

そして、自殺というのは人間という項を消滅させることだ。つまり「人間 vs. 世界」ということになる。こうなれば、もはや二項対立構造はなくなり、不条理は存在しなくなるだろう。めでたしめでたしだ。

でも、これは「不条理からの逃避でしかない」とカミュは考えているわけだ。いいかえれば、不条理に負けた、不条理を受け入れた、という言い方もできるだろう。だから自殺はしてはいけないのだ。

さて、ここでちょっと注意が必要なのは、自殺は、物理的に死ぬ自殺だけを意味しているわけではない。「哲学上の自殺」というものもある。これも説明しよう。

哲学上の自殺というのは、簡単にいうと「神を信じる」なんていうのがまさにそれだ。

「この世界は我々の理解を絶している。だから大いなる存在がいるはずだ。それは神だ。神を信じよう。何が起きても、それは神の御心だ。」

別に神でなくてもいいのだ。要するに、何らかの「上位概念」をもってくることで、世界をすんなりと説明可能なものにすることが、哲学上の自殺なのだ。

上位概念をもってくることで、世界は理解可能なものに変容する。つまり「人間 vs. 世界」となり、もはやあの理解を絶していた世界はなくなるのだ。これにより二項対立は消滅し、同時に不条理も存在しなくなる。

でもこれも結局は逃避でしかない。世界は理解不能なのに、「理解したい!」という人間の欲望にあわせて、無理やり世界の解釈を変えただけに過ぎないからだ。

確かに人は弱いものだ。宗教でもなんでも、神のような上位概念を持ち出したくなるのも分からなくはない。世界をクリアカットに説明できればこんなに楽なことはないからだ。

そして、そういう上位概念は、何が正しく、何が間違っているかを示してくれるし、あなたにとっての「人生の意味」についても教えてくれるだろう

しかし、カミュはそういう上位概念の存在を決して受け入れない。それは『異邦人』や『ペスト』における神父など神に関わる人物の描き方を見ても良く分かるだろう。

では、カミュの考えはどうなのか?

カミュは、不条理から逃避するのではなく「反抗」を貫かなければならないと考える。つまり、不条理な生の中で抗い続けるということだ。

人は皆いつか死ぬ。
永遠の生命などない。
人生に意味はない。

まさにこれらを緊張感をもって注視し続けるのが人生なのだ。(どこかの国の政治家が使うと陳腐に聞こえるが)。

ただ、別にそうしたからといって、何かが抜本的に変わったり解決するわけではない。「反抗」を貫いたとしても、不条理がなくなるわけではない。だって不条理というものは「人間 vs. 世界」の対立構造がある限り存在するからだ。

しかし、映画『マトリックス』で目覚めた人間のように、不条理に自覚的となった人間は、醒めた状態で日常に戻って生きることになるだろう。そして、不条理への反抗がその人の祖国になるはずだ。

たいていの人は、不条理を忘却して、まるで「永遠に生きるかのように」日常生活を送っている。しかし、当たり前だがそんなことはない。逃げようが、見てみないふりをしようが不条理は消えないし、いつかはあなたの前に姿を現すからだ。古い友達のように(そしてペストのように)。

この記事をいま読んでいる人も、この私もいつか死ぬ。この世がなんなのかも理解できずに死ぬだろう。

でも、そのことから目を背けずに、どのような運命であっても、それを自分自身の責任として受け止め、抗いつづけながら(反抗し続けながら)、最後には死ぬ。

そういうスタンスが反抗的な人生ということだ。

「え?結局どう生きればいいの?」

と思うかもしれない。

でも、そうやって自分の外部に解決策を求める姿勢は、カミュの主張している「反抗」とは異なる。

神だろうが、偉人だろうが、インフルエンサーだろうと何でもいいが、上位概念をもってきて、生きる意味をそれに委ねることは、反抗を貫く姿勢とは対極的なものだからだ。

反抗を貫くというのは、不条理から目をそらさない緊張感を強いられる。それがいやなら、そんなものを忘れ、明日がまた来ることを当たり前のものとして生活すればいいだろう。でも、それも不条理からの逃避のひとつでしかない。

人は皆いつか死ぬとしても
永遠の生命などないとしても
人生に意味はないとしても

それだからこそ人は幸福足りえる、というのがカミュのメッセージだ。

私自身、なぜそれが幸福足りえるのかについては理解できていない。

いつかそのうち分かるのかもしれない。

気になる人は本書をぜひ読んでいただきたい。

【終了】

本書は、もっと他にも沢山の内容が詰まっています。
特に、タイトルと同じ「シーシュポスの神話」は文庫で8ページほどですので、ぜひ一度は読んでほしいです。

そして、本書を読んでから『異邦人』や『ペスト』を読むと、さらに理解しやすくなるでしょう。カミュの哲学がストーリーになったものがこれらの作品なのですから。

最後にカミュからの言葉をひとつ。

人間が唯一偉大であるのは、自分を越えるものと闘うからである。
by  アルベール・カミュ

最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!

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