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脱学校的人間(新編集版)〈60〉

 一般に職業というものは、「それに就いている者自身の、社会的な身分を証明するもの」であるというようにも考えられていることだろう。ここで言われているような意味としての「身分」とは、その者自身の「社会的有用性を証明するもの」であるというように、これもまた誰しも普通に、何らの疑問を抱くことなく信じられているところの観念なのだろう。
 しかし今さら言うまでもないことなのだが、そもそも「身分」と呼ばれているものとは、その本来的な意味においては職業と全く異なり、それぞれ個人が自由に選択できるものではないのである。「その身分にある者」は、否でも応でもほとんど生涯にわたってその身分のままに置かれ、その身分から離れることもそれを変更することもできない。そして自分の思うがままに、都合よくあちらの身分になったりこちらの身分になったりするなどというようなことは、本来けっしてできないことなのである。
 また、身分とは職業のように「その職務に就いているときにだけ、その立場にある」というものでもない。たとえば奴隷がなぜ職業ではなく「身分」であるのか?奴隷とは、「労役に就いている間だけ奴隷」というようなものではなく、「飯を食っているときも寝ているときも、はたまた遊んでいるときでさえ奴隷」なのである。すなわち「人格まるごとその立場に置かれている」からこそ、それは「身分」なのだ。

 しかし、それでも職業と身分がしばしば混同されることがあるというのは、やはり確かなことなのではある。それは一体なぜかと考えるに、「それ以外に自分自身を社会的に証明するものがないから」なのだろうと思われる。
 たとえば、長時間残業などの過重労働が「奴隷的だと感じられる」のは、その生活全体において「そのような労働の仕方によってでしか、自分自身がこの社会に存在しえないものであるかのように、自分自身として労働せざるをえないから」であり、あるいは「他の仕方において自分自身であることが不可能な状態で労働せざるをえないから」だと言える。要するに「人格まるごとで働かざるをえないから」なのであって、実際そのように「意識がある時間のほとんど全てを働くことに費やしている」のだとしたら、たしかにそのような生活は「奴隷的」だと言わざるをえないだろう。
 しかしそれは別に「一部のブラック企業だからそうなる」というわけではなく、「職業において社会的に証明されている人格」とは、何かしらそのような要素が含まれるものなのではないか。「人格」とは「社会的に見られる対象」であり、「その人をまるごと社会的に代表するもの」でもある。だから「職業において代表される人格」にもとづいて社会的に生活しているという限りでは、人は結局「人格まるごとで労働することで、その人格が社会的に自己自身を代表しているものと見なされる」わけである。そしてそのようなときにこそ「職業は、あたかも身分であるかのように混同されることになる」というわけだ。

 あらためて問い直してみよう。労働とは何か。職業とは何か。
 まず、ある一つの職業に就いた者は、その職業の名で表象される一連の労働作業に従事することになる。そしてその職業の名は、それに就いている者の「身分=人格」を表象するものであるというようにも一般にとらえられている。
 ゆえに労働は、結果的に労働する者が「人格まるごと」で労働しなければならなくなるのみならず、労働する者の集団が「一つの人格」として労働しなければならなくなるような事態にもいたる。なぜなら、その「職業の名が表象するもの」は、「その職業に従事する者の全面的な人格」であり、その職業に従事する者全員の人格が、その職業の名によって表象されているならば、その職業に従事する者全員の人格は「同一である」と見なすことができるからである。
 そのような人間の「全人格的行為としての労働」が、社会的な富の増大という合理的かつ功利的な一つの目的を持った社会的生産活動のために、その生産手段として一手の下に集合させられる。その集合が、当の社会的生産活動に携わる全ての人間を「一つの全人格的集団」へと変貌させ、その一つになった全人格的人間集団が結果として「一つの人格として労働することになる」わけである。

〈つづく〉


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