可能なるコモンウェルス〈79〉

 個々に出現した実際の政治体として評議会は、その出現の度毎に「それまで全くなかったものであるかのようにして出現」(※1)してくることとなる。つまり少しその言い方を変えるなら、個々の実際の評議会は、その出現の度毎に「それまでになかった全く新しい政治体」として出現してくることとなるわけである。だが人々はなぜか、それが実際に出現してくる度毎に、その政治体を「ある一定の形式において見出す」こととなり、なおかつ「ある一定の意味づけをして、歴史の一幕に組み入れる」こととなる。これもまた、これまで人間が繰り返してきた「倒錯の形式」として、あまりにも典型的な病なのである。

 ここで注意しておかなければならないのは、評議会という政治体の、その「出現の新しさ」とは、その出現の「形態の新しさ」によって示されるのではなく、あるいはその出現によって実現される「結果の新しさ」において示されているものでもない、ということだ。評議会のような「自発的な人間集団」は、実際のところその出現自体としては、取り立てて珍しいものだということでは全くない。むしろ人間集団というものは、その「始まり」においては大体、それなりに「自発的」なものとして生じてくるのである。
 また一方で、そうして実際に形成された人間集団のその形態や、人間が集団化されたことによって生じた実際の状況変化がもたらした結果などの、その「個々個別の内容」が、「評議会という組織体のみにおいて、何か他の人間集団と比べて目新しいところがある」ということでもないのだ。むしろそれらは「結果として、それぞれ互いに極めて似通い合っていたり、あるいは、もはやほぼ同じであったりすることさえある」のだろう。少なくとも、それらが「人間集団という形態」の現象として帰結するものである限りは。
 だからわれわれがここで見るべきなのは、評議会という政治体が出現する、その事象の帰結でも結果でもない。そうではなく、評議会の出現の、その「出現そのもの」あるいは「始まりそのもの」が、「それは、それまでには全くなかったものであった」ということを宣明しながら出現しつつ始まる、「そのこと自体の新しさ」に対して、われわれはここで、思いあらためてそのこと自体に刮目するべきなのである。

 評議会の出現の「この新しさ」とはまさしく、「この現実の歴史性」に根差す出現であり始まりなのだという意味で、「それまでにおいては全くなかった新しさ」として現れるものである。つまりそれは、「この現実とは常に、それ以前にはなかった現実なのである」という意味合いにおいて出現し、なおかつ始まる現実だからこそ、「この現実は、その出現と始まりの度毎に、常に全く新しい現実なのである」ということを、その出現と始まりの度毎に明らかにしているという意味で「全く新しい」出現なのであり、「それまでになかった」始まりなのである。評議会という政治体とはまさに、そのような「現実の新しさ」を人々に思い出させるように、なぜかいつも「自然発生的=普遍的に出現し始まる」ものなのだ。
 とすれば、それは本来必ずしも、「革命や反乱をその発生条件とする」ものというわけではないはずなのではないだろうか。またそれは、「ヨーロッパという限定された領域」においてのみ見出されるべきものでもないはずであろう。だから一般に評議会と呼ばれる政治体の発生が、そのように「ある限られた状況の中で、際立って出現している」かのように見えるというのは、むしろただ単に、「これまででたまたま形になったものが、たまたま際立って見えているだけ」のことであるのにすぎないだろう。実際、「日常的で普遍的な活動、すなわち生活そのもの」とは、いつでもどこでもさして際立った形にまとまることもなしに、いずれ少しの時を置けば、誰の意識からも全く忘れ去られてしまうようなものなのだ。しかしそれでも「その時の、その現実の生活」は、たしかにいつでもそこにあったのである。われわれはいつでもどこでも、「その時、その現実の生活を、たしかに生きた」はずなのだ。「日常」とはまさしくそのようなものなのであり、もし「政治とは日常である」というのなら、「政治」もまたやはりそのようなものであるはずなのであって、ゆえに評議会と呼ばれる政治体が、「いつでもどこでも自然発生的=普遍的に出現する日常性」を有しているというのであれば、この評議会と呼ばれる政治体もまたやはり、「そのようなものなのだ」と言いうるはずである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「暴力について」

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