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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈13〉

 『ペスト』本編を主として構成するものとなっている、リウーの手になるその手記によれば、オランの町を襲ったペストの病禍は、だいたい以下のようなあらましとして要約される。

 四月の半ば、医師ベルナール・リウーが自宅アパート玄関前で瀕死の鼠を発見して以来、アルジェリアの植民商業都市オランにおいてその発生が認識されるところとなったペストは、五月に入る頃になると、もはや誰の目にも明らかなほどに猛威を振るい始めた。日毎逼迫する事態に当局は、とうとう市の閉鎖に踏み切らねばならない状況に至る。
 市民は突然の災禍に狼狽し、何とか正常だった頃の自分たちの生活に、繋ぎ止めていられるものをその周囲に求めた。人々はまだそのときにおいては、この状況はきっと一時的なもので、いずれ遠からず平穏な元通りの日々が戻ってくるものと考えていた。
 外界との行き来は直ちに断たれたが、地域内部においてはまだ、街中でも通常のような市民同士の交流が、それなりに維持することができていた。人々は以前と変わらず街角の店を巡り、カフェで酒を酌み交わし、映画館などの遊興施設で娯楽に興じていた。しかし時が経つにつれて、そういった街の店々は次第に閉じられていき、カフェの客入りも疎らとなっていくばかり、映画館に至っては、新しいフィルムが入手できないせいで同じプログラムを繰り返し上映するより他なくなっていった。
 市門の封鎖により、通行はおろか手紙などの連絡手段さえも絶たれて、その頃たまたま出かけたきりとなり、外の世界から戻れなくなった人と、逆にオラン内部に取り残され、閉じ込められてしまった人たちとの間においては、もはや時は前に進むばかりのものとはならなくなっていた。その日まで彼らが築き上げてきた互いの親密な関係性などは、今やこの先に何の発展も望めないまま、ただそれぞれ心の内にある追憶が反芻されるのみとなり、その中でかろうじて生き長らえているばかりのものになっていた。
 そんな停滞し閉塞した生活を送るオラン市民たちの頭上を、五月を過ぎてペストはさらに大いなる猛威をふるい呑み込んでいった。死者数はうなぎ上りに増加し、数え上げればすでに数百人を超えるようにまでなっていた。しかしその非常なるアナウンスに対して、市民らの反応は今一つピンとくるものではなかった。そもそも彼らは、正常時における死者数など知りもしなかったのである。

 六月の終わり。激しい熱風と、それに運ばれた乾いた大気と共に、オランに夏がやってきた。暑さにつれてなのか、ペストによる死者数は、もはや爆発的増大の様相を呈していた。
 一方で、強硬に市外へ脱出しようと試みる一部の人々と憲兵との間で起こった小競り合いをきっかけに、当局の取り締まりはさらに一層強化され、ついには投獄処罰も辞さない強硬姿勢を見せるようになっていった。
 また保健担当部局により、ペストを媒介する蚤を撒き散らすとみられた野良の犬猫を駆除する作業も徹底されていき、そういった動物たちは街角からその姿を消した。
 例年ならば海水浴に興じる若者で溢れる頃になっていた海岸も、今や寒々しいまでに閑散としていた。オランの町は季節というものをまるきり失っていった。

 八月半ばになると、いよいよペストはオランの町のいっさいを覆い尽くしていく。病疫は、人口の密集した下町のみならず、市の中心部や上級住宅地などへとその触手を伸ばしていた。こうした被害の「水平化状態」が顕著となる中、人心の荒み具合も刺々しく顕わになってきていた。市門周辺の小競り合いはさらに激しくなり、一方市中では一部の人がその精神的混乱のあまりに、自らの家に放火するような事件までが相次いで発生していた。その夏、オランの町において正気を保てていられる人間は、一人としていないようにさえ思われた。

 ペストは、その犠牲者たちの葬送についても大きな影響を及ぼしていた。感染拡大防止のため、通常の慣習に基づいた葬儀が執り行えなくなったばかりでなく、逼迫した墓地不足により、死者をそれぞれ個別に埋葬することさえ困難となっていった。
 最初はまだしも男女の別には分けて、それぞれをまとめて埋葬するなど、ギリキリの範囲でなされていた配慮も、やがてはおざなりとなっていき、しまいにはすでに埋葬されていた遺体を掘り起こして火葬にし、何とかしてそのスペースを空けるということまでしなければならなくなった。
 火葬場に送られる遺体は無人の列車に積み込まれ、その遺体の焼かれる煙は途絶える暇を持たなかった。この一連の措置は当局によって厳に秘されてはいたが、やがて市民の気づくところとなり、その凄惨さを嘆く声もあったにせよ、むしろ市民たちはその火葬による煙の拡散が、さらにペスト菌を拡げることになるのではないかという恐怖に怯えた。
 リウーは、最終的には死者を海に投げるところまで行き着いてしまうことを懸念していたが、そこに至る前に、何とか病疫のピークが過ぎ去ったことはせめてものことだったと、その記録に記している。

 続く九月十月の間、ペストは猛威をふるったままオランの町に停滞した。リウーはじめ保健隊の面々は、すでに疲労しきって自らの感染予防もおざなりになるくらい、病気に対する感覚が次第に麻痺しつつあった。病と共に人の心もまたこの時期、重苦しく見通しもないまま停滞していたのだと言えよう。
 十一月に入ってからもやはり、ペストはいわば高止まりの状態で推移していた。この頃になると、食糧などの生活必需品の供給が、さらに乏しさを増してきていた。市場価格は跳ね上がり、そのことが貧困層の生活を直撃していたが、一方で富裕層は何の不自由もなくそれらの品々を安々と手に入れることができていた。ペストという病が公平に襲いかかることで、市民間の平等性が現われてくるのかと思いきや、逆に経済的な不公平感は、ますます先鋭化するばかりだった。
 この時期、隔離収容所となっていた市内のスタジアムには、身近に感染者が出たため予防的に隔離されることを余儀なくされた人々が次々と収容されていた。同様の施設は市内各所にいくつも作られた。
 競技場のスタンドやフィールドは、どこを見渡しても収容された人で溢れて鈴なりのような状況だった。彼らはそこで日々何もなすことなく、また何も考えることなく、ただ漠然とその定められた収容期間が過ぎるのを待つばかりの時を過ごしていた。彼らはたしかに「まだ」ペスト患者ではなかったのだが、しかしすでに「健康」と呼べるものをいっさい喪失していた。それはもちろん、オランの町そのものもまた同じような状況なのではあった。

 その後もペストは年末にかけて、リウーたち医師の想定を超えた変異を重ねながら、なおもその勢力を進行させた。
 しかし年が明けてほどなくすると、病禍は「不可解な」退潮の気配を見せはじめ、二月にはその衰減傾向が、より顕著かつ確かなものとなっていった。どうやらペストは、現れたときと同じように、突如としてオランの町から去って行こうとしているようだった。
 そして早春の頃。当局に発出された終息宣言により、長らく閉ざされていた市の門がついに開かれた。外の世界との交流も復活し、ここで市民たちはようやく、この疫病の悪夢から解放されることとなった。

〈つづく〉

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