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日本の限られた国土と、日本人の適応能力の関係

地理を学ぶこととは、単に、主要な都市や島を暗記することではない。

『Geography for Life』が、1994年に、全米地理教育評議会、ナショナル・ジオグラフィック協会、アメリカ地理学者協会、アメリカ地理協会の地理教育実施プロジェクトにより、出版された。(2012年に改訂)

地理で探求すべき18個の基礎知識が、6つのグループに分類されている。

・空間用語における世界
・場所と地域
・物理的システム
・人間システム
・環境と社会
・地理の用途

4年生まで・8年生まで・12年生までと、何をどのくらいの年に学ぶと適切かのガイドラインも、示されている。

米国各州で、この『Geography for Life』にもとづいて、地理のカリキュラムが教えられている。

日本は、もうちょっと真剣に、カリキュラム内容を作った方がいいと思う。


17)地理に詳しい人は、過去を解釈するために地理を適用する方法を知っており、理解している。

18)地理に詳しい人は、現在を解釈し、将来の計画を立てるために地理をどのように応用すればよいかを知り、理解している。

すなわち。過去を知り現在に活かす、現在を知り未来に活かす。

私はこの概念に広く賛成だ。

1つの結論的なものはない文章なのだが。
今回は、地理的な側面から見た日本の歴史。


1億2500万人以上の人口を抱える日本の国土面積は、人口約3100万人のカリフォルニア州よりも、わずかに小さい。

耕作可能な土地は、日本の国土の15%ほどか。必然的に、資源の効率的な利用が求められる。

やや関連のある回。よかったら後でどうぞ。


西洋の文化が入ってくるまで、日本には、家具という発想がほとんどなかった。

江戸時代の終わり頃、桐のたんすが使用されたが、日本の生活様式に密着した家具だった。

総桐箪笥(そう きりだんす)
「箪笥の松本」。松本朝之助氏 (4代目) が四ツ谷に開業した店。彼は、商売人である前に凄腕のたんす職人だった。たんすの神様と呼ばれていた。

昔のたんすは、サオを通して持ち運べるように、棒通しという金具が横側についていた。移動させることが前提の家具だったのだ。

火事の時にもち出して逃げるためーーと、よくいわれているが。もっと、根源的な理由があるのではないか。


日本人は、そもそも、物を押入れにしまう。

天袋と地袋
天袋と地袋の呼び名も知らない大人が増えている。

ふろしきのように袋と呼ぶ。

かわいい
かわいい
結局のところ折り紙に似ている。アイディア無限大。

いざ食事をする時に、箱膳などを出していた。寝る前に布団を敷いて、起きたら片付けるのと同じだ。


日本の伝統的な家は欧米のそれと違い、寝室や居間や客間といった、部屋の明確な区別がない。間仕切りが、ふすまでなされている。

ふすまは軽い。現代では、ふすまを外したりはめたりしたことがない人も、多いのかもしれないが。女性1人で、物によっては何枚も重ねて運べるほど、軽い。

こういうことが、当時のたんすのつくりにも、通じているといえるだろう。


伝統的な草履や下駄には、左右の区別がない。

はいている内に鼻緒が伸びて、左右の足に、別々にあうようになるからだ。

サイズは足より小さく。
小指やかかとがはみ出してるのが正式。

甲州印伝の特徴は、鹿革に漆で模様を付ける伝統技法にある。

鹿革は、手に馴染む柔軟性と強度と軽さを備えていることから、武具にも使われていた。経年で光沢が増す。

武田信玄
紗綾型の花弁バージョン
紗綾型は卍の連続。石器時代のインドにて卍は太陽が光を放つ様子。

日本の伝統的な衣服は、変化に1着で対応できるように、設計されている。サステイナブルだ。

着物は平面で仕立てられている。体型が多少変化しても、着方で調整できる。縦も。身長プラマイ5cmまで全てジャスト・サイズ。=差10cmは差にならない。

体格のかなり違う人が着るというのであれば、仕立て直せばよい(立体裁断の服より断然に容易)。

また、1枚の反物に戻すことも可能。長方形に裁断された、8枚のパーツでできているため。衣服としての役目を終えても、さまざまな活用法がある。

『この世界の片隅に』
着物をもんぺに直すヒロイン。とろい子などではない。

戦争反対。


徳川時代。日本の都市における公衆衛生システムは、発展途上でありながらも、西洋のそれと比較して良好であった。

関連話を書いた回。よかったら後でどうぞ。

18世紀初頭には、江戸の人口は、100万人近くに達していた。

都市が多くの人口を抱えれるように発展すると、人が密集して、流行病や疫病が蔓延する可能性が上がる。衛生環境が悪くはなかった日本でも。そのあたりはジレンマである。


日本人は、限られた国土の中で、うまく適応してきた。逆に言うと。国土が限られているからこそ、解決策や打開策を考え出し、日本人の適応能力は上がっていった。


日本は、少なくとも紀元5世紀以降、アジア大陸と交易をしてきた。いつはじまったのか、特定するのは難しい。

中国や韓国の文化は、何百年もの間、日本に深い影響を与えてきた。文字や宗教。


日本が島国であることは、13世紀に、モンゴルの占領を防ぐのに大いに役立った。

ハンは、日本が従属に抵抗したことに激怒し、1274年と1281年の2度、日本を占領しようとした。

長くなりすぎるため、この辺りは、別の機会に。

その2度とも台風が襲来。攻撃者を撃退。

ATフィールド全開。

普段いまいましい台風にも、俄然、守り神感を感じてくる。天然のシールド。


1543年のポルトガル船の来航は、ヨーロッパ人の日本への関心が高まる、重要な時代の幕開けとなった。

イギリスの東インド会社は、徳川幕府の寵愛を受けたウィリアム・アダムス(日本名:三浦 按針
)によって、設立された。三角貿易。

サムライの称号を得た最初の外国人だった。
大河ドラマが放送されたのだよね?
観ていなくて申し訳ない。役者さんの画像だけ。

その後、ヨーロッパ諸国との接触は少なくなったが、日本は外界と完全に遮断されたわけではなかった。

中国や朝鮮半島との貿易はあったし、言わずと知れた長崎港・出島で、オランダとの貿易も継続された。

西側の技術は知らされ続けていた。


中世の日本人による日本地図は、北海道の全部または大部分が、除外されていた。(一部か全てかわからない。ただのリサーチ不足。申し訳ない)

萱野茂氏の著書に、日本本土が北海道への関心を高めていたことについて、書かれている。

〜日本人が海峡をわたって、アイヌの国土にいたったのは、何百年も前のこと。だが、侵略をはじめたのは、明治初期だった。旧北海道原住民保護法のような法律は、アイヌの狩猟民族としての自由を制限した。日本が “提供” する土地で、農業への従事を要求した。〜

アイヌの経験は、北米先住民族やオーストラリアのアボリジニの経験と、類似性がある。

これもおもしろかったな。

飛鳥時代(552~710年)以前は、新しい天皇が誕生するたびに、新しい場所へ遷都していた。

784年に、奈良から都を移そうとした要因は、天皇の死ではなかった。ますます力を増していた仏教僧院の影響から、政府を遠ざけようとしたためだった。

平安は都として長く続いたため、「京都」として知られるようになった。

平安京の再現模型

戦国時代(1467~1600年)には、権力は、実質的な領地をもつ20人ほどの大名に握られた。

徳川家康(1542~1616年)の天下統一により、江戸に新たな幕府が作られた。一方、天皇は京都にとどまった。

明治天皇の即位により、皇位は東京に移り、現在にいたる。