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〈ポール・オースター(Paul Auster)×柴田元幸×タダジュン〉によるクリスマス・ストーリー絵本

〈ポール・オースター(Paul Auster)×柴田元幸×タダジュン〉が生み出した、小さな、でも、とてつもなく美しい作品「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」

但し、

「「クリスマス・ストーリー」という言葉そのものが不快な連想を伴っている。お涙頂戴の、甘ったるい、嘘でかためた代物があふれ出てくる感じ。どんなによくできた作品でも、クリスマス・ストーリーとはしょせん、願望充足の絵空事、大人のためのおとぎ話にすぎない。」(「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」P26より引用)

と、作中の作家である〈私〉に、ニューヨーク・タイムズのクリスマスの朝刊に載せる短編の依頼を受けてしまった際に言わせてしまうのだから、ハートフルで感動的な大人のクリスマス・ストーリーを期待してはいけない。

何と言っても、                          〈ポール・オースター(Paul Auster)×柴田元幸×タダジュン〉     なのだから。

でも、その飛び切りの美しさは保証する。あれこれ言葉を弄して無様な有様を見せたくないので、少しだけ、この本の美しさについての話と、感動的であることの愚かさについての話を書きたいと思う。

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No1:ポール・オースター(Paul Auster)の言葉の美しさのために、あるいは、それに相反するものたちのために

しかし、私が書く「感動的であることの愚かさについての話」は、或る意味、ポール・オースターの分身でもある作中の作家である〈私〉の思いを代弁するということではない。ポール・オースターの思い描く美しさというものが如何なるものなのかは、彼の作品のひとつでも読んでみれば直ちに解る。その精緻に作り上げられた幾何学的迷路性と音楽性(偶然性)。それが「願望充足の絵空事の、お涙頂戴の、甘ったるい、嘘でかためた代物」ではないことは確かだ。もちろん、この小さな作品にもそれが刻印されている。ポール・オースターの分身でもある作中の作家である〈私〉の思いは、この小さな本の中に結実している。言うまでもなく、ポール・オースターはプロフェッショナルの小説家なのだ。

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私が書く短い「感動的であることの愚かさについての話」は、この小さな、でも、とてつもなく美しい本と相反するように、世界に氾濫する願望充足のための自堕落な言葉の垂れ流しに、抗うためのメモ書きに過ぎない。それは、この小さな作品「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を含めてポール・オースターの作品の美しさを美しさとして受け入れることのない人には、全く意味をなさないだろう。さらに、感動的であることと涙の溢れ出る量が物事の価値と美しさと善さを決めると思っている人には、ひたすら腹立たしいものかもしれない。

No2:世界の迷路性の純粋な美しさ、あるいは、柴田元幸経由ポール・オースターの日本語

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縦15.5cm×横13cm、厚さ1cmの、全63ページの、とても、小さな絵本。 発行はスイッチ・パブリッシング。

世界の迷路性が純粋な形で提示される。世界の本質が迷路性であること。ただ、それだけのシンプルなものでしかないのだが、それが喩えようもなく、美しい。

ポール・オースターの言葉が柴田元幸を通過して日本語になる。その硬質でありながらしなやかな日本語の美しさ。タダジュンの黒と白の色彩と線と形。その滲み出る闇のような黒と引っ掻き傷のような線が描き出す不安定な形。それらが、柴田元幸経由ポール・オースターの日本語の精密さの間に挟み込まれ、迷路を編み上げる。〈ポール・オースター(Paul Auster)×柴田元幸×タダジュン〉としか表現することができない「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」が出現する。

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内心に秘めた頑迷さを隠すために幾重にも透明性を被った雰囲気だけで構成された中身の決定的に空虚な言葉、頭の悪さを、懸命に披露される頭の良さが露呈してしまうことになる言葉、部分の鮮明さと詳細さの接合が建築を形成することなく、その全体が自家撞着的建築的残骸の集積物でしかない巨大な言葉の破片。そうした日本語ばかりに取り囲まれ、頭の中が埋め尽くされ占領されてしまった者にとって、柴田元幸経由ポール・オースターの日本語は、これが同じ日本語なのかと驚愕してしまうことになるほど、異なったものとして、現れる。

そして、深呼吸する。柴田元幸経由ポール・オースターの日本語、そこに当たり前の日本語が存在していることに、深く息をする。目を閉じて、耳を澄まして、その日本語の立てる意味と音と色彩を、沈黙の中で聴き取る。

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No3:感動的であることの愚かさについての話、あるいは、嘘でかためた絵空事に抗うための短いメモ書き

感動的な物語の多くが、嘘でかためた絵空事でしかないという事実。それは誰もが知っているけれど、言ってはいけない、言ってしまっては身も蓋もない事実のひとつなのかもしれない。いいじゃないか、嘘でかためた絵空事であっても、クリスマス・ストーリーとして、一時の間、何もかも忘れて夢を見れば。全く、その通りだと思う。嘘でかためた絵空事としての感動的な物語。何の罪もないすぐに消えてしまう泡のような物語。全然、悪いことなんかじゃない。お涙頂戴の甘いクリスマス・ストーリー、悪くなんかない(かもしれない)。

それらの感動的な物語がもたらす酩酊の罪深さについて語るのは、後になる。その前に、少しだけ、その酩酊の効能について。

感動的な物語に酩酊し、全てを忘れること。それは人にとって必要なことだ。不可欠なことと言ってもいいかもしれない。その酩酊は、光と闇の交錯する人生という時間の中で、その困難を乗り越えるための一時的な避難場所として存在し、それは人間が人生という時間を生き延びるために必要なツールとして存在している。人は一時的な酩酊を必要とし、そのためには感動的な物語が必要不可欠なのだ。

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だが、しかし、その酩酊は目覚めるための、覚醒するためのものであることは言うまでもない。それは酩酊のための酩酊ではない。

その酩酊は、人生という時間の中の、一滴の水も存在しない、乾き切った凍て付いた極寒の夜の砂漠の中で立ち尽くす者に、一時の暖かさと水滴として、あるいは、漆黒の森の迷宮の中で道を失い、苔に覆われた巨木の根元で茨に切り裂かれた血だらけの足を抱きかかえ蹲る者に、一時の眩い光として、存在する。彼ら、彼女らが向かうべき方向を指し示す天空に輝く北極星を、厚く覆われた灰色の雨雲の僅かな隙間から、見つけ出すためにその陶酔は存在している。

覚醒のための酩酊。忘却のためではなく、逃避のためでもなく。

仮に、その酩酊が、全てを忘れそのどろりとした陶酔の液体の中に全身を埋没させ溺れることであり、現実を永遠に忘却するための、現実の光と闇のその双方を明晰に見つめることを放棄するための逃避であるのならば、あるいは、「見たいものしか見ることなく、聞きたいことしか聞かない」現実から逃避し現実から目を背ける者たちに与えられる、現実からの御褒美の餌であるのならば、その酩酊はもはや悪でしかない。

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ここでようやく、嘘でかためた絵空事としての感動的な物語が引き起こす酩酊の罪深さを知ることになる。感動的な物語の酩酊は、言わば、浴びるように飲み干した安酒に酔い痴れた後の酷い二日酔いに似たものとなる。あれほど高揚した気分は消え失せ、鏡に映った自分の姿は、頭痛と吐き気に歪んだ醜い現実のものでしかない。当然のことながら、感動的な物語の酩酊は何一つ現実を変更することはない。その酩酊の後、わたしたちは何一つ変わることのない冷酷で残忍な現実の中に取り残されることになる。

感動的であることは、そうした意味において、愚かなことなのだ。

嘘でかためた絵空事に抗うための短いメモ書き。〈ポール・オースター(Paul Auster)×柴田元幸×タダジュン〉の「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」のその静かな美しさを讃えるために。

「そんな話を自分が書くなんて、冗談じゃない。」(「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」P26より引用)

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No4:映画「スモーク」の原作でもある「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」

「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」は、ウェイン・ワン監督の映画「スモーク」の原作でもある。私は、ポール・オースターによる脚本も読んでいるのに、なぜか、残念ながらこの映画とすれ違いが続き、未だに観損じてしまっている。まるで、すれ違うように組み込まれたかのような映画と私の間に存在するポール・オースター的偶然性。

追伸:真摯であればイノセンス(無罪)である、とは限らない。

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真摯であること、誠実であること。そのことの意味と価値を傷付けるつもりはない。しかし、それでも、真摯であればイノセンス(無罪)である、とは限らない。

「No3:感動的であることの愚かさについての話、あるいは、嘘でかためた絵空事に抗うための短いメモ書き」に対する補足としての追伸。

時折り、見かけることなのだが、物事を真摯に行えば、それが間違ったことであっても、イノセンス(無罪)であるかのように捉えている者たちを。真摯であることを誠実であること、あるいは、善良な意図と置き換えても事態は同じである。

真摯であろうが、なかろうが、それが間違ったことであり、酷い誤りであることには変わりはない。真摯であることはその誤りを何一つ修正してはくれない。真摯になされた誤りほど手に負えないものはない。真摯であることを言い訳にしてはいけない。それが酷く間違ったことであっても、真摯であればその誤りが許されるなどと思ってはいけない。誠実であれば許してもらえるのは子供の話にすぎない。真摯に誠実に善良な意図で行われた凄惨な暴力による血みどろの虐殺が、人間の歴史を形作っているということなど、今更、繰り返すまでもない。小さなことから大きなことまで、真摯であれば、その真摯さによって、誤りが誤りでなくなることなど、ありはしない。

そんなこと、当たり前だよね。

「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」には、そんなイノセンスなど何処にも存在していない。これは、人生という時間の迷路の中で彷徨う大人たちの物語なのだ。

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