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A Course in Miracles について

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『A Course in Miracles』(奇跡のコース/奇跡講座)とはどういうものなのか?についてもりGの経験的な視点からみたnoteコラム
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私たちはどのようにして本当の喜びを見つけられるのでしょう

私たちはどのようにして本当の喜びを見つけられるのでしょう

喜びのない場所コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は私たちに何を教えてくれているのか?

というなら、

この世界には喜びも幸せも希望もないということ、
そして、
本当の喜びや幸せはどこにあるのか?

ということについて教えてくれていると言うことができます。

例えば、コースのテキストでは、この世界について「喜びのない場所」というふうに表現しています。

それと同時に、そこで述べられているの

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逃亡者となってしまっている私たち

逃亡者となってしまっている私たち

この逃亡者のストーリーは、この世界に居る私たちに共通する神話だといえましょう。

逃亡劇のストーリー自分が神を殺害した張本人であるにもかかわらず、
つまり、殺害者であるにもかかわらず、
その罪から逃れるために、
私たちは、さまざまな工作をすることになったのです。

その工作とは、
自分こそが被害者となり替わって、
自分以外のものに罪を擦(なす)りつけるというものです。

さらには、
自分は卑小な者

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「幸せ」への入り口は何処にあるのか?というなら、それは「いま」です

「幸せ」への入り口は何処にあるのか?というなら、それは「いま」です


私たちは「本当の幸せ」を忘れて知らないこの世界の中には自分を幸せにしてくれるものや自分を満たしてくれるものがたくさんあるかのように見えます。

ただし、そのどれもが、所詮、仮の、一時的な、代用、代替にしかすぎないといえます。

それが、非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティが教えていることです。

ノンデュアリティのスピリチュアリティを探究していくのであるならば、当然、そういうことを理解

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コースは学ばなければならないものなのでしょうか?

コースは学ばなければならないものなのでしょうか?

死によってではなく真理によってこの世を去るコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は学ばなければならないものなのでしょうか?

というならば、それはNOです。

コースを学ばなければならないということはまったくありません。

それは義務(必修科目)ではありません、ということです。

たしかに、コースには「必修科目である」(T-in.1:2)というふうに述べてありますが、そのメッセージはコースを口

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私たちがしていく実践は、神、愛、光、喜び、平安、静けさにフォーカスしていくというものではない

私たちがしていく実践は、神、愛、光、喜び、平安、静けさにフォーカスしていくというものではない


コースという霊性の道の特徴的なところコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいく上で、私たちが知っておかなければならないのは、コースは非二元の霊性の道ではありますが、愛や真理について学んでいくようなスピリチュアリティではないということです。

そのことについては、コースのテキストの序文ではっきりと述べられています。

それはどういうことかというなら、私たちがしていく実践は、いわゆる、神

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「奇跡」によってもたらされる知覚とはどのようなものなのか

「奇跡」によってもたらされる知覚とはどのようなものなのか

「奇跡に難しさの序列はない」についてコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の中で奇跡の第一原理として示されている概念が、「奇跡に難しさの序列はない」というものです。

この概念は、コースを実践していくうえで、もっとも理解しておくべき重要な考え方です。

というよりも、私たちがこの世界の夢から自由になっていくために必ず修得しなければならない考え方であるということを知っておきましょう。

むしろ、

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二元性を超えた世界を知覚し始めて分かってくるもの

二元性を超えた世界を知覚し始めて分かってくるもの

コースの内容がさまざまに解釈されていることについて私自身、その学びは今も尚、深化し続けていると言うことができます。

ただ、この私にとって、その学びがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)というスピリチュアリティの枠組みに限定することができなくなっているというのが正直なところです。

それというのも、コースに対する認識が少しばかり変わってきていて、『ア・コース・イン・ミラクルズ』というもの自体

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見ないかぎり、直視しないかぎり、取り消しはなされない

見ないかぎり、直視しないかぎり、取り消しはなされない


私たちがしなければならいのは「見る」ことコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践で私たちがしていかなければならないのは、「見る」ことをしていくということです。

何を見るのか?というなら、内側にあるものを見ていくということです。

逆に、「見る」ことをしないとき、それを「否認、抑圧、隠蔽」と呼び、私たちは見ないことによって実在しない幻想を保持し続けていると言うことができます。

コースで

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私たちが見ている世界について、私たちは何も分かっていない

私たちが見ている世界について、私たちは何も分かっていない

この世界は夢は夢でも悪夢なのだということコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びを通して、私たちは何を学んでいくのでしょう?

もちろん、「この世界は幻想である」「この世界は夢である」という概念がその中心的な教えであるわけです。

ただ、その教えは、非二元(ノンデュアリティ)を少しでもかじったことのある人であるならば誰だって知っていることだといえましょう。

「この世界は幻想(夢)である」

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夢から目覚めるのは誰なのか?

夢から目覚めるのは誰なのか?

自分と思っているこの「自分」が目覚めるのではないコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)はこの世界の夢から目覚めることを最終的な目的としています。

ただし、私たちが勘違いしがちなのが、自分と思っているこの「自分」が目覚めるのだと思っているということです。

そうではありません。

この「自分」が目覚めるのではありません。

この「自分」が完璧になるのではありません。

この「自分(=私)」は実

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ノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティに迷走する者たち

ノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティに迷走する者たち

目覚め、悟り、非二元って何だ?コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は、「目覚め」「悟り」「非二元」「真理」へと至るためのスピリチュアリティであることは周知のとおりです。

それゆえ、最近では、ノンデュアリティのスピリチュアリストたちの中でもコースに関心を抱いている方々も少なくはありません。

ただし、そこで言えるのが、

そもそも、目覚め、悟り、非二元とは、いったいどういうものなのか?

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孤独感、絶望感、疎外感、恐れといったものはどこからやってくるのか?そしてどのように対処すればいいのか?

孤独感、絶望感、疎外感、恐れといったものはどこからやってくるのか?そしてどのように対処すればいいのか?

分離を強めるとは分離が強まれば強まるほど、孤独感、絶望感、疎外感、恐れといったものが増大していくことになります。

なので、分離感が強い人ほど、そうのようになりがちだといえます。

ちなみに、「分離を強める」とは、他者との分離を強めるという意味ではありません。

というのも、そもそも他者などいません。

「分離を強める」というその意味は、真の自己(本当の自分)との分離を強めるということです。

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コースは従来のスピリチュアルとは一線を画するものである

コースは従来のスピリチュアルとは一線を画するものである

コースは心理学であるコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は純粋な非二元あるいは一元論のスピリチュアリティであるわけですが、そのようなスピリチュアリティは特に東洋に多く見受けることができます。

それらのスピリチュアリティと比べてコースは何がどうちがうのか?というならば、そのもっとも特徴的といえるのが、コースは心理学的な側面から述べられているということが挙げられます。

コースが教えていること

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「赦しの視点」とは、つまりそれは、「悟りの視点」である

「赦しの視点」とは、つまりそれは、「悟りの視点」である


自分が「悟り」に到達するのではない非二元の霊性の道を歩んでいく上で私たちがよく勘違いをしてしまうのは、自分が目覚めるのだと思ってしまうということです。

自分と思っている自分が「悟り」に到達するのだと思ってしまうわけです。

「目覚め」「悟り」とは、まったくそういうものではないということを知っておくとよいでしょう。

「目覚め」「悟り」とは、むしろ、その自分こそが非実在なのだと受け入れたそこにあ

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