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本能寺の変1582 第92話 13上総介信長 1信秀の死 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第92話 13上総介信長 1信秀の死 

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信長は、弟信勝に末盛城を与えた。

 信勝は、すぐ下の弟。
 母は、正室の土田氏。
 信長と同じ。 
 その子が織田信澄。
 光秀の娘婿である。

  一、末盛の城、勘十郎公へ参り、
    柴田権六・佐久間次右衛門、此の外、歴々相添へ御譲りなり。

信長の織田氏は、求心力を失った。

 戦国時代の真っ只中。
 当主が死に、・・・。
 後継者は、十九歳の「大うつけ」。
 となれば、当然、そうなる。

鳴海の山口教継、謀叛。

 同、四月。
 信秀の死から、わずか一ヶ月。
 「謀叛」
 山口父子が見限った。

  天文弐十弐年(二十一年の誤り)癸丑(みずのとうし)四月十七日、
  織田上総介信長公、十九の御年の事に侯。

  鳴海の城主、山口左馬助、子息九郎二郎、廿(はたち)の年、
  父子、織田備後守殿、御目を懸けられ侯ところ、
  御遷化(せんげ)侯へば、程なく、謀叛を企て、

背後に、今川義元あり。

 義元は、尾張を狙っていた。

  駿河衆(今川勢)を引き入れ、尾州の内へ乱入、
  沙汰の限り(以ての外)の次第なり。

  一、鳴海の城には、子息山口九郎二郎を入れ置く。
  一、笠寺に、取出・要害を構へ、
    かづら山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎、
    五人在城なり。
  一、中村の在所を拵(こしら)へ、父山口左馬助、楯籠(たてこも)る。

赤塚の合戦 。

 信長の軍勢は、「八百計り」。
 これがスタートラインである。
 出陣。 

  か様に侯ところ、
  四月十七日、
  一、織田上総介信長公、十九の御年、人数八百計りにて御発足、
    中根村をかけ通り、小鳴海へ移られ、
    三の山へ御あがり侯のところ、

 対する山口勢は、千五百。
 ほぼ倍の兵数。
 決戦の場は、鳴海の北、「赤塚の郷」(愛知県名古屋市緑区鳴海町赤塚)。

  一、御敵山口九郎二郎は、廿の年。
    三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、
    なるみより十五、六町あり。

    九郎二郎、人数千五百計りにて、赤塚へかけ出で侯。
    先手あし軽、
    清水又十郎・柘植宗十郎・中村与八郎・萩原助十郎・成田弥六・
    成田助四郎・芝山甚太郎・中島又二郎・祖父江久介・横江孫八・
    あら川又蔵、是れらを先として、赤塚へ移り侯。

信長の、最初の合戦である。

 信長にとっては、家督を継いで初めての戦い。
 負けるわけにはいかない。

  一、上総介信長、三の山より、此のよしを御覧じ、
    則ち、あか塚へ御人数よせられ侯。

    御さき手あしがる衆、
    あら川与十郎・あら川喜右衛門・蜂屋般若介・長谷川挨介・
    内藤勝介・青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞。


 戦いは、巳の刻(午前10時頃)から始まった。

  敵あひ(=敵との間合いが)五間、六けん隔て侯時、
  究竟の射手共、互いに矢をはなつところ、
  あら川与十郎、見上げ(眉庇まびさし)の下を、
  箆(の)ぶかに(=深々と)射られて、
  落馬したるところを、かかり来つて、

  敵がたへ、
  すね(脛)を取りて引くもあり、のし付のつかのかたを引くもあり、
  又、こなたより、
  かしらと筒躰(どうたい=胴体)引き合ふ。

  其の時、与十郎さしたるのし付、長さ一間、ひろ(広)さは五、六寸
  侯ひつる由なり。
  さやのかたをこなたへ引き、
  終に、のし付・頸・筒躰、共に引き勝つなり。

初めての合戦は、引き分けに終わった。 

 結局、この戦は、勝敗がつかなかった。
 「引き分け」、である。

  巳の刻より午の刻(12時頃)まで、みだれあひて、
  扣(たた)き合ひては退く。
  又、まけじおとらじと、かゝつては扣き合ひ、かゝつては扣き合ひ、
  鎗下にて、敵方討死、
  萩原助十郎・中島又二郎・祖父江久介・横江孫八・水越助十郎。
  あまり手近く侯間、頸は互に取り侯はず。

  一、上総介信長公衆、討死三十騎に及ぶなり。
  一、あら川又蔵、こなたへ生捕る。
  一、赤川平七、敵がたへ生捕り侯ひしなり。

信長は、この戦いから、多くのことを学んだ。 

 織田勢は、倍する敵を相手に奮戦した。
 小勢ながら、勝たぬまでも、負けなかった。 

  入り乱れて、火花をちらし相戦ひ、
  四間、五間をへだて、折り敷いて、数刻の戦に、
  九郎二郎は、うわやり(上鎗)なり。

  其の比(ころ)、うわやり、下鎗と云ふ事あり。
  いづれも、みしりかへし(=顔見知り)の事なれば、
  互に、たるみはなかりけり。

  折り(降り)立て(=下馬して)の事にて、馬共は、皆敵陣へかけ入る
  なり。
  是れ又、少しもちがひなく、かへ(返)し進上侯なり。
  いけどりも、かへかへ(=交換)なり。
  さて、其の日、御帰陣侯なり。
                          (『信長公記』)

「鉄炮*」について、記述なし。

 最新兵器である。
 その有無については、まだわからない。

 *鉄炮伝来。『鉄炮記』
  【参照】第83話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代
  この頃、鉄砲が普及し始めていた。「言継卿記」
  【参照】第90話 12光秀と斎藤道三 5光秀の三十代



 ⇒ 次へつづく 第93話 13上総介信長 1信秀の死 


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