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岸本佐知子 『なんらかの事情』 : 常識的思考パターンからの自由

書評:岸本佐知子『なんらかの事情』(ちくま文庫)

2012年刊行の、岸本佐知子第3エッセイ集である。
私の場合は、第2エッセイ集『ねにもつタイプ』につづく2冊目ということになる。『ねにもつタイプ』があまりに面白かったので、期待はいや増して抑えようもない。

では、結果としてどうだったかというと、相変わらず上手いのだけれど、少々物足りないと感じるものも、無いではなかった。
これは、岸本のエッセイに対する「耐性がついた(馴れ)」とか期待水準の高まり故に相対的に評価が辛くなったとかいった、読者である私の側の事情によるものなのか、それとも、徐々にではあれ「ネタ切れ」的な部分で無理が生じたといった、著者である岸本の側の事情によるものなのか?

当然のことながら、どちらか一方ではなく、両方ともあるのだろうが、そこに「なんらかの事情」が働いているというのは間違いないはずだ。

一一という具合に「なんらかの事情」という言葉は「決まり文句」的に使われるのだが、実際のところは「理由がよくわからない」というだけの話である。
ただ「今のところよくわかりません」と言うよりも「なんらかの事情があるものとして、鋭意事情聴取を進めている」とか言う方が「前向き」に聞こえる、というだけの話である。
そりゃあ、なんらかの「事情」や「理由」はあるだろう。それが合理的なものかそうでないのかは別にして、まったく何も無いなんてことはあり得ない。例えば、それが「太陽がまぶしかったから」といったことであったとしてもだ。

ともあれ、こんな具合で(?)岸本佐知子のエッセイの特徴とは、私たちが常日頃から便利に利用している「パターン認識」から、見事に「外れてみせる」というところにある。
「これはこれだ。あれはあれに決まっている」というのが、私たちの「思考パターン」であり、こうしたことはすべての「認識」にわたっている。つまり、「視覚」も「聴覚」も「味覚」も「嗅覚」も「触覚」ですら、そこからの入力情報を「脳」で処理する際に、すでに持っている「認識パターン」の篩にかけることで情報処理を効率化して、情報処理のスピードを高めている。

例えば、「哲学」でよく例示されるように「目の前のテーブルの上に、赤いリンゴが1個置かれている様子を、私は見ている」という状況について、私たちは、その目の前のものを「リンゴ」だと認識するけれども、それが「リンゴ」であるという確証はどこにもない、といったような話だ。

「それ」は、「リンゴ」ではなく、「リンゴの模型」かもしれないし、そもそも「目の前のテーブルの上に、赤いリンゴが1個置かれている様子を、私は見ている」というイメージ自体が「妄想」かもしれず、「リンゴ」が存在していないだけではなく、「テーブル」も存在していないかもしれない。当然、私は「そこ」にいて、そうした風景を見ているわけではなく、病院のベッドで眠っているのかもしれない。一一つまり、あなたは今、私が書いたこの文章を読んでいるつもりかもしれないけれど、実のところ、あなたは夢の中でこれを読んでいるのかもしれない。当然、この文章の書き手である私は存在せず、あなたの脳内存在(幻想)でしかないのかもしれない。

と、こんな具合に疑うことは「可能」なのだが、実際問題として、見るもの聞くもの感じるもののすべてを疑っていたのでは生きていけないので、そこは「いつものパターン」で「これは、ほぼ間違いなくこれ。あれは、ほぼ間違いなくあれ」だということで、生活しているのである。
そしてそのために、日頃、便利に使っているのが、「常識」という名の「思考の篩=思考の省略パターン」なのだが、私たちはついついその存在を忘れてしまいがちで、だからこそ私たちは、各種の「偏見」にとらわれてもしまいがちなのだ。

なぜ、近代の合理主義哲学が、デカルトの「われ思う故にわれあり」から始まったのかといえば、この脳みそにこびり付いている「思考の篩=思考の省略パターン」を可能なかぎり外して、疑い得ない前提にまで立ち戻ってから、物事をひとつひとつ確実に、「ありのまま」に見ようとしたからである。要は「偏見」にとらわれてはいけないということだ。

例えば、「聖書」に「神がこの世界を造った」と書いてあるからといって、それを鵜呑みにしてはいけない。実際に作ったのは「神」ではなく、「神のごとき力を持つクラゲ型宇宙人」かもしれないではないか。違うという「証拠」がどこにある?
いや、そもそも「この世界」って、どこまでのことを言っているんだろうか? 少なくとも、聖書が書かれた時代には「地球」という認識すらなく、「世界」は極めて狭かったはずだ。まして「銀河系」だの「外宇宙」だのは知られておらず、「この世界」が意味するのは「この宇宙」と同じではなかったはずだ。

いや、そもそも「神がこの世界を造った」と書いた人は、何の証拠があって、そんなことを断言しているのだろう。今だって「宇宙の成り立ち」なんてことはわかっていないのに、7000年以上も前の人が、それを正確に知っていたわけがない。「いや、神からの啓示があったからだよ。この宇宙を創造したのは私だ、と。ただ、その啓示を受けた人には、時代的制約だけではなく、そもそも人間存在であるという制約において、神の啓示を完全なかたちで翻訳することができなかっただけで、そこに書かれていることは真実なんだ」と言うかもしれないけれど、そもそも、その話は「神は存在する」というのが前提になっているよね? 一一というような話なのだ。

そんなこんなで、「神の存在を本気で信じている人」ばかりではなく、私たちは例外なく、何かを「認識の前提」として信じており、それに依拠した「思考の篩=思考の省略パターン」を駆使して、無限の情報が常に充満しているこの世界を、「要領よく」生きている。

また、だから「神の存在を本気で信じている人」からは「あなた方だって、すべてを疑って生きているわけではないでしょう。それなら、神を信じるのだって不合理ではありません」などと言われたりもするのだが、それは「程度もの」なのだ。
例えば、「クマに襲われることはあっても、蝶々に襲われることは、まずない。そんな人喰い蝶なんてものは『怪奇大作戦』の中なんかでしか、たぶん存在しない」というのと同じことである(『怪奇大作戦』に登場するのは、「人喰い蝶」ではなく、「人喰い蛾」だが)。

(『怪奇大作戦』第2話「人喰い蛾」より)

言い換えれば「なんらかの宇宙人が存在するとしても、やはり神が存在する蓋然性はきわめて低い。神が存在するのなら、ウルトラマンバルタン星人が実在しても何ら不思議はないのだけれど、それを本気で訴え出したら、たぶん隔離病棟に入れられてしまうだろう」といった話なのだ。

したがって、「便法」として「思考の篩=思考の省略パターン」を駆使するのは、いっこうにかまわないのだけれど、しかし、それを使っていることを忘れてしまうと、時に重大な差し障りが発生したりする。
眩しい時にサングラスを掛けるのは大いに結構なのだが、そのことを忘れて「この世の中、真っ暗ですよ。だから、ぶっ潰します」とか言われても、それは違うし、困るのだ。

しかしながら、私たちは、そんな「サングラス」ならぬ、各種の「偏向グラス(色眼鏡)」を常用しているために、ついつい、それを掛けていることを忘れてしまい、「世の中、真っ暗ですよ」とか「この世の中は光輝いていて、一点の曇りもない」とか「世界は、真っ赤だ」とか「世界は真っ青だ」とか「いや、世界は黄緑色だ」などと本気で訴えだすことになるのである。

ともあれ、「本当の世界」というのは、たしかに認識しがたいものなのだけれど、しかし、だからといって「神は存在する」とか「バルタン星人が近所を歩いていた」とか「あなたは存在しない。私の妄想なのだ」とか言われても困る。

したがって私たちは、適切に「常識的認識を疑う習慣」を持たなくてはならないのであり、その「面白おかしい哲学的実践報告」が、岸本佐知子のエッセイなのだ。だからこそ、私たちはそれを「変わっていて、おかしい」と感じるのである。

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『 物を言う物

 このあいだ、デパートのトイレに入ったら便器がしゃべった。
「このトイレは、自動水洗です」
 驚いた。便器に話しかけられることは、まったく想定していなかった。この先、さらに何か言うつもりだろうか。いろいろ指図したり感想を述べたりするのだろうか。そう考えだすと恐ろしくなり、何もしないで出てきてしまった。
 その数日後、車を運転していたら、今度は車がしゃべった。
「ガソリンが、なくなりそうです」
 また驚いた。数年間の付き合いで一度も口をきいたことがなかったので、そういうものとばかり思っていた。電信柱にぶつけたときも、ドアミラーをこすったときも、友達の家に忘れて電車で帰ってしまったときも何も言わなかったのに、もしかしたら今までずっと何か言いたいのをこらえていたのだろうか。
 さらに意外だったのは、この車が女であったことだ。何となく男、それもくたびれた中年男のような気がしていた。そういえば、便器も女だった。実家では冷蔵庫がしゃべる。
「ドアが開いています」「ドアが開いています」「ドアが開いています」と、いつまででも言いつづける。あの冷蔵庫も女だ。
 なぜみんな女なのか。似たような、やけに落ちついた感じの成人女性ばかりというのも気になる。その物のキャラに応じて、若者とか幼児とか老婆だったりしてもよさそうなものだ。それに、状況しだいで切羽詰まっていたり懇願するようだったり厳しく咎めだてする等の調子がこもっていたほうが、訴求度も高い気がする。

「ガソリン・・・・・・が、ガソリンを・・・・・・」

 いや、しかしそれ以前に、それは本当に言う必要があることなのか、という問題がある。ガソリンがなくなりかけていることぐらいこちらもとうに気づいていたのであって、改めて言われると少しむっとする。「このトイレは、自動水洗です」だからどうだというのか。勝手に水を流すなということか。それとも単なる自慢か。
 それよりも、口をきいてほしい物は他にある。たとえば目覚まし時計。肝心なときにかぎって電池が切れる。予告なしに切れる。電池がなくなる少し前に知らせてくれれば。あるいは、パソコン。もしも具合が悪いなら、そしてこのままいけば何もかもが無に帰す恐れがあるなら、事前にひと言そう言ってほしい。ついでにどうしてほしいかも教えてほしい。
 臓器なんかも、しゃべったらいいんじゃないかと思う。たとえば肝臓。“物言わぬ臓器”などと言われ、病気が見つかったときには手遅れであることが多い。そうなる前に警告を発してもらう。たぶん初老の、訥々とした職人気質の男の声だと思う。

「もう、堪忍してください」

 その調子で、いろんな臓器がそれぞれにコンディションを訴えかける。人々はそれに耳を傾ける。みんな無茶をしなくなる。病気が減る。
 でも満員電車はうるさくて仕方がないだろう。

「胃に穴が開いています」「腸にポリープができています」「動脈が硬いです」「尿道に石があります」「肺が真っ黒です」「頭がおかしいです」「虫歯があります」「頭がおかしいです」 』

(P27〜30、「物を言う物」全文)

この短いエッセイの中でも、私たちが日頃、考えないで済ませていること、つまり「思考の省略」の事実が、面白おかしくも、たくさん描き出されている。

(1)水洗便所には、なぜ自己紹介する必要があったのか?
(2)自己紹介するくらいなら、他のことまで話しかけてきてもおかしくないのではないか?
(3)なぜ、最近の自動車は「ガソリンが無くなりそうです」とは言っても、他のことまでは教えてくれないのか?
(4)なぜ、機械ものの音声は女性のものなのか?
(5)なぜ、そうした音声は必ず平静なもの言いであり、切羽詰まって危機感を煽るような声音にしたりしないのか?
(6)他にも、口を聞いてほしいものはいろいろあるのに、どうしてそうしたものをしゃべるようにしないのか?

そんなことである。

こうした「疑問」に対して、適切な回答を与えるのは、わりと容易であろう。
それぞれへの回答は、例えば次のようなものである。

(1)目の不自由な人のため。
(2)必要のない音声は、迷惑な騒音にしかならないから。
(3)センサーがそこまで発達していない(いなかった)から。
(4)優しく聞こえて耳障りにならないから。
(5)過剰に感情を煽る音声は、かえって人の判断を誤らせることにもなりかねないので、フラットな表現にしている。
(6)システムが高価、あるいは一定の大きさを必要とするので、安い商品や小さい商品には取り付けられないため。

といったことになるだろう。
つまり、「普通の人」は、そうした「なんらかの事情」をうすうす察して、とくだん疑問に思ったり、深く考えたりはしないのである。

だが、例えば、(4)の機械ものの音声が「女性」ばかりである理由が「優しく聞こえるから」なのだとしたら、それは女性に対する「紋切り型の偏見」だということになって、声の太い女性から「差別的だ」と批判されるかもしれない。それに、声優さんの「甘いイケボ(イケメンボイス)」なら、男性の声でも良いではないかという議論にもなるだろう。
また、そもそも、「優しい声」の方が価値が高いという評価自体が、多数派の趣味に偏していて「偏見的」でもあれば「差別的」だという議論にもなりかねない。中には「私は、冷たいお姉さんボイスで、命じられる方が好きです」という人もいれば、当然のことながら「熟女が好き」とか「ロリ声に限る。お客への呼称は、お兄ちゃんにしてくれ」とかいう人もいるから、差別なく少数意見まで尊重するとなれば、機械用の音声もいろいろと取り揃えて「選択方式」にでもしないといけなくなるかもしれない。
しかし、トイレに入るたびに、いちいち音声選択をしなければならないのは、困りものである。そんなことをしていては、ちびってしまうかもしれないからだ。
それで、横着してそのまま入ったら、ドスの効いた男性の声で「このトイレは、自動水洗です」と言われて、つい「すみません。間違えました」といって、トイレから逃げ出してしまい、結果としてちびってしまうことにもなりかねない。
また、自分の好みを登録したデータチップを常時携帯して、それに機械が自動的に反応するようにしておけば、そうした手間も省けるわけだが、そうした場合、データチップにハッキングされて、恥ずかしい性癖がバレバレになってしまうかもしれない。
そもそも、あまりにも個人的な趣味に合わせすぎると、トイレからなかなか出てこない人も出てきて、それが問題になるかも知れない。これは、じつに難問なのである。

「HAL 9000」

(5)についても、時と場合によっては、あえて「焦らせるような声」にする必要があるだろう。先般の地震の際、テレビのアナウンサーが、明らかに意識的に、切羽詰まったような声で「直ちに避難をしてください! 津波の恐れがあります。直ちに高台へと移動して、決して戻ろうとしたりしないでください!」というようなアナウンスを繰り返していたのが、とても印象的だった。
したがって、防災放送なんかでも、千篇一律に「○○警報が発令されました。直ちに避難してください」ではなく、もっと強い言葉で、具体的な指示をするようなものもあって良いと思う。

(6)や(3)の場合は、たしかに、今は技術では無理なのかも知れないが、しかし、そこで諦めて思考停止してしまっては、技術は進歩しない。
人が「まだ無理なんだろうな」と思っている時に「いや、本当にそうだろうか?」と思える人が、他に先んじて、新しい技術を開発できるのである。

そんなわけで、このエッセイに限らず、岸本佐知子はほとんどのエッセイで「ボケまくっている」けれども、これはもちろん自覚的にやっている「芸」であり、この「芸」の素晴らしさは、笑わせなから「思考の凝りを解きほぐす」点にある、と言うよりは「思考の凝りを、暗に指摘する」点にあると言えよう。『マクベス』の魔女ではないけど「ふざけているは真面目。真面目はふざけている」のである。

天才と呼ばれる人が、人とは違ったことができるのは、「既成の型」に問わられない才能の持ち主だからではないだろうか。
例えば「真面目な内容の評論に、ふざけたことを書いてはいけない。内容には統一感を与えなければならない」というのは、基本的な考えとしては正しいけれども、そこに止まることしかできない人は、私の「好きな」蓮實重彦なんかから「凡庸」呼ばわりされるしかないだろう。私が、いま思いついた格言では「天才とは変態である」ということにもなるのだ。

例えば、上に引用したの岸本のエッセイの最後の部分。

『「胃に穴が開いています」「腸にポリープができています」「動脈が硬いです」「尿道に石があります」「肺が真っ黒です」「頭がおかしいです」「虫歯があります」「頭がおかしいです」』

ここで、「頭がおかしいです」だけが二度登場していることに、読者の多くは「おかしさ」を感じて笑ってしまうだろう。

だが、この「おかしさ」が重要なのだ。一一なぜ、他と同じように1回だけ使うことにしなかったのか。つまり、「頭がおかしいです」を、オチとして最後に一度だけ使うというのが、通常のパターンだろう。普通の人は、そう考えてしまう、ということだ。

だが、どうして、すべて1回ずつにして形式を整えるのが「当たり前」なのだろうか? そもそも、そんなルールなんかないだろう? と、こういう「常識(思考の枠)への懐疑」が「頭がおかしいです」の(掟破りめいた)2回使用にはあるのだ。だからこそ、「常識の枠」を外れることもできるし、そのおかげで「おかしい」ことも出来るのである。

だが、言い換えれば、多くの人には、ここで「頭がおかしいです」だけを2回使うという発想など出てこないはずだ。
誰にでも浮かぶアイデアなら、それは少しも「おかしい」ものではないからであり、そこには当然「おかしみ」も生まれない。

つまり、この意図的な「破調のおかしさ」の中にこそ、「常識の枠」「思考のパターン」から逃れていく、岸本佐知子の「天才」性があるのであり、それはそのまま、「常識(固定観念)による束縛」への秘められた「批評(批判)」にもなっているのである。

そんなわけで、「おかしい」奴は侮りがたく、岸本佐知子のエッセイだって、ただ笑って済ませていては、こちらが笑って済ませられることになるかも知れないのだ。
「面白くもおかしくもない、無難にまとまった」存在として。

『「………かどうかは読書の想像にお任せしよう」』

(P228、「おめでとう、元気で」より)


(2024年2月6日)

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