マガジンのカバー画像

ほぼ毎日エッセイ

21
ほぼ毎日(と言いながら4日に1回)書いているエッセイです。ふと考えたことを勢いで書く。1000文字未満を努力する。
運営しているクリエイター

記事一覧

【エッセイ】春、遠からじ。されど僕は憂う。

【エッセイ】春、遠からじ。されど僕は憂う。

ベランダにアウトドアチェアを出して、僕は手に持ったマグカップの置き場を思案した。開いたドアの向こう側、部屋の奥からオペラ歌劇が聞こえる。ホフマン物語、第2幕オリンピア。主人公の詩人ホフマンが過去の失恋話を語り、ついには現在の恋にも破れる物語。第2幕オリンピアでは、精巧な自動人形オリンピアにホフマンは恋する。それがロボットだとも気づかずに。ドイツ出身のスロバキア人歌手パトリツィア・ヤネチコヴァのソプ

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay20「音」

ほぼ毎日エッセイDay20「音」

この部屋は、地上15メートルくらいだろう。
空気が澄んでいる。と言いながらも実は排気ガスや黄砂がいくらか含まれているのかもしれない。しかし僕にはそういうのは1つも分からない。開いた窓から風が忍び込んでくるのが分かる。テーブルに投げ出した脚をひんやりとなぜるからだ。一対の大きな耳は集音マイクでも搭載したかのように色んな音を拾う。色んな環境音が耳元で鳴る。姿かたちの見えない何かが何も考えずに吐き捨てた

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay19「色塗り問題」

ほぼ毎日エッセイDay19「色塗り問題」

70色入りのマーカーペンが届いたというのに使いこなせない自分がいた。自分の意見や立場が、押しなべてふらふらしているせいだ。
○や△や□の連なりや組み合わせを丁寧に結び、あるいは慎重に消し、そうして描き上げた下絵を前に僕は腕を組んで、じっと睨んだ。

昔から色塗りは上手くはなかった。配色のチョイスは一見したところ悪くはないように思える。ところが、ペン先が紙に触れインクが染み込んでしまった束の間の後で

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay18「アフロディーテのうそ」

ほぼ毎日エッセイDay18「アフロディーテのうそ」

「実は、あなたのことが好きではなかった」と彼女は電話口で告げた。「申し訳ないけれど」と言う。そのまま電話は切れた。その時僕は柔軟剤入り洗剤を目盛りで測ろうとしていて、カップを左手で握った状態だった。電話の不通音は、開いた窓から忍び込む秋の虫の鳴き声に驚くほど馴染んでいた。

二年後。
「君のことが本当は好きではなかったんだ」と、僕は別の彼女に言った。「申し訳ないけれど」と間を置いて付け足した。「い

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay17「死にたい夜に」

ほぼ毎日エッセイDay17「死にたい夜に」

今でも時々、あの頃を思い出す。順調に思われた2015年は徐々に悪化の一途をたどり、年を跨ぎ、春を迎える頃最悪を迎えていた。

どうして眠れないのかわからないくらい眠れない日があった。
みな寝静まっている。誰もこんな時間に連絡を寄越してくれないから、もちろんスマホも揺れるはずもない。時折、大きなトラックがアパートの前の道路を、息切れした老犬みたいに走り去っていくときだけ静かにベッドが振動した。
深夜

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay16「僕がランチ時に思い出したこと」

ほぼ毎日エッセイDay16「僕がランチ時に思い出したこと」

先輩なら全然いいよ。
と、ファミレスで長い間手を繋いだことがある。どういう経緯で手を繋ぐことになったのかはちょっと思い出せない。向かい合って座る若い男女が手を握るその姿は、はたから見ても、恋人同士のふれあいというよりはむしろ拮抗した腕相撲の仕合みたいに見えたかもしれない。
夜の7時を過ぎたくらい。コートを着なくても夜道を歩けるくらいの気温。国道沿いで、車の出入りの難しいところに立地するファミレスだ

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay15「マジおすすめだから、見て!」

ほぼ毎日エッセイDay15「マジおすすめだから、見て!」

人からおすすめをされることがあまり得意ではないんだな自分、と思う瞬間がこれまでにも何度かあった。どうして得意ではないんだろうと考えてみた。ひとつに、そういう素晴らしい作品との出会いは自分のなにかしら運命的な力によってもたらされたいという天邪鬼な理由があるんだと思う。朝、パンを咥えたまま街角でぶつかった相手が実は隣の席の転校生だとか、落とした書類を拾い集めていると、ふと指と指とが触れ合ってしまい、そ

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay14「Off The Wall/第四の壁/宇宙の端っこ」

ほぼ毎日エッセイDay14「Off The Wall/第四の壁/宇宙の端っこ」

「結局、自分は物語の主人公にはなれへん」
線形代数学の教室の隅の方で友人は嘆いた。何かしら、クラスの方向性や雰囲気を担っている中心的なグループの方を見ながら。僕なんかは、結局それは主人公色の強い他人の物語に依存していて、あるいは自己愛の強い傲慢な生き方なんじゃないかと密かに思った。とは言え、彼は彼なりに努力はしていた。自ら中心的なグループに近づき、その一部になろうとし、そのグループの求心力を掴みと

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay13「人生がミュージカルならば」

ほぼ毎日エッセイDay13「人生がミュージカルならば」

まな板の上でトマトを切っている時、自分が鼻唄を奏でていることに気づいた。これ、何のメロディだっけと思う。トマトを、へたを下にして切る。旬の野菜でもないから実が硬い。それでもしっかりと赤いエキスが白いまな板の上に流れた。メロディはまだ流れている。キュウリを薄く切り、レタスをむしり、ベーコンを炒め、チーズを剥がし、それらをまとめてパンに挟んでいる時にもメロディは流れていた。

ふんふっふふふん♪ さら

もっとみる

ほぼ毎日エッセイDay12「ちいさな花を咲かそう」

故人の死化粧は美しく、手の触れられない位置にあった。こんなご時世だけど、さいごにお別れを言いたくて斎場に赴いた。悲しいと思うより先に涙が出て、淋しいと感じるより先に身体が震えた。何年も会っていなかったクラスメイトが入口に顔を出すと、手を少し挙げて、自分たちのところへ手招いた。次々とクラスメイトがやってきて、少しずつ僕らのかたまりは大きくなっていった。そういうかたまりが斎場の至る所であって、それぞれ

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay11「写真立てと表面張力」

ほぼ毎日エッセイDay11「写真立てと表面張力」

写真をいつのまにか飾ることをやめてしまった。目の前に立ち塞がる世界や悩みは大抵いつも変わらないというのに、過ぎ去っていく時間の中で見た目も思考も随分と変わってしまった自分が、写真の中に窮屈にとらわれているのを見るのが辛いからだ。それでも、どういうわけか写真立てだけは、テレビの横に置いてある。剝き出しのコルクの背板が、形而上学的な問いを投げかけてきそうだ。

目の前で踏切が降りてきてカンカンカンと音

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay10「七綻び八重紡ぎ」

ほぼ毎日エッセイDay10「七綻び八重紡ぎ」

人の悪口を言い続けた時期が僕にはあった。悪口や不平不満を唱え続けなければ、自分の輪郭を保てないんじゃないかと半ば本気で思っていた。「なぁ、そう思わないか?」と他人に同意を求め、「そうだな」と同意を得られれば、自分が正当性をもって認められた気がした。わるくない、と。輪郭を縁取る糸が、するりするりほどけて、ほころびが拡がってしまう。そうなる前にせっせと不格好に紡ぎ直す。

悪口は、よくどこか適当な掃き

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay9「天気頭痛の子」

ほぼ毎日エッセイDay9「天気頭痛の子」

「何かに押し潰されそうな感覚があって、それに必死で抵抗しようとする圧力が頭の内側にもあるのよ。私は頼んでもいないのに。外側からも内側からも圧迫されて、私はその真ん中の薄い膜みたいなところでしか呼吸ができない。そういうのが天気が悪い間ずっと続くんだよ」

その日初めて会った僕らは、品川方面へ向かうりんかい線の車両の中にいた。動体視力を試すといった感じで、窓の外の駅看板の文字が引き伸ばされたり、押し潰

もっとみる
ほぼ毎日エッセイDay8「深夜ラジオの親切なDJ」

ほぼ毎日エッセイDay8「深夜ラジオの親切なDJ」

「最近、怒りって感情湧かないんだよね。そう言えば涙を流した覚えも、本気で笑った手応えも感じないや」と友人は言った。「あぁ今が楽しくないってことじゃないよ、悪しからず」と断る。ホールケーキに縦横無尽にフォークを刺していき、人数分に切り分けていきながら彼女はそう言ったのだった。スーパーモデルのキャットウォークみたいにスタイリッシュな切り分け方だった。僕は僕で、右手の感情線を左指でなぞっていた。

それ

もっとみる