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女性である私が「フェミニズム」を嫌っていた理由

ジャーナリストの中野円佳さんが執筆した「『育休世代』のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか?」を読んだ。

この本は、大手企業で総合職として勤務しながら結婚・出産を経験した著者が、育休中に大学院に入学し、そこで修士論文として提出したものを一般向けに再構成、加筆・修正をして発行されたものだ。小説でも、エッセイでもなく、ひとつのれっきとした修士論文だ。それを読み、私は涙した。紛れもなく、感動したのだと思う。「良い話だねぇ~」という感動ではない。失われた感情や、探し続けていた言葉がそこには存在し、それが「自分だけのものではなかったのか」と感じることができたからだと思う。

中野さんの経歴には到底及ばないが、私もいわゆる「キャリアウーマン」「バリキャリ」と呼ばれる経歴を歩んできた女性の1人だったと思う。中高は女子校で過ごし、驚くほど優秀な友人に囲まれて育った。「誰かに負けたくない」というプライドは、そのころからまったくなかった。あまりにも周囲が優秀だったからだと思う。比べても意味がなかった。自分は自分の持つ基準で、自分が「悔しい」と涙しなくて済むレベルの努力をして、自分と向き合いながら成長した。

誰だったか忘れたけれど、高校の卒業式を迎えるころ、私たちを指導してくれた先生に言われた言葉が今でも脳内をよぎることがある。

「私の夢は、日本で初めての女性総理大臣が、この学校から輩出されることです」

嫌味に聞こえる人もいることだろうと思う。でも私はこの文章を、嫌味を込めて書いていることは一切ない。18歳の私は、この言葉をまさにキラキラした目で聞き、何の疑問も抱かなかったのだ。何の疑いもなく、「そんな日も来るだろうなぁ、私たちが大人になるころには」と思っていた。その言葉に「女性」というキーワードが含まれていることにも、もはや気付いてすらいなかった。女性が総理大臣になるどころか、普通に一般企業で管理職になることすら、こんなにも難しく、多くの自己犠牲や葛藤を伴うものだとは、思いもしなかった。

就活をしているころから、なんとなく社会の違和感は感じ始めた。希望した業界で女性が総合職として採用される枠があまりにも少ないことに驚愕した。これまで一緒に勉強していた男子たちと、ここで突然区別されるのか、と驚いた。周囲の優秀な女友達が、最終的に有名企業の一般職として就職すると決めたと聞いたとき、どうしてこうなるんだろう、とも思った。彼女は「長く働けると聞いたから」と言っていた。就活中という時期柄、深くは聞けなかったけれど、本人も、どこかで満足して、どこかで満足していなかったように感じた。

そんな私は、なんとか総合職として入社できる会社を見つけた。就活を通じて「女性が長く働くこと」「男性と同等に働くこと」のハードルの高さを見せつけられた気がしていた私は、とにかく「私を採用したこと」を後悔させないようにと必死で働いた。「女性はこれからの時代優遇されるから」という男性社員や上司の発言を笑顔で受け止めながら心で涙を流し、振り払うように働いていたように思う。

「これだから女は」という言葉を同じ「女」の前で平気で口にする男性もいた(私のことを「女」ではなく一種の「男性」として見ていたからだ、とも思う)。いったい男性は「女」のどういうところが気に食わないのか観察し、その反対の態度をとった。どんなに悔しいことや辛いことがあっても、絶対に職場で泣かなかった。感情的に言い返すことはしなかった。良い返事を心掛けた。笑顔を絶やさないようにした。年齢相応に、ハツラツとした態度をとった。呼ばれればいつでも飲み会に駆け付けた。「男の世界だ」と察するところには、首をつっこまなかった。ときどき、程よく男性社員に甘えるようにした。
今思えば、女性であるという個性から自分を遠ざける演出をし、いわゆる「名誉男性」として生きることを決めていたのだと思う。

「女が女の武器を使うのは卑怯だ」と、女性からも男性からも言われたりする。これまで「女の武器」を使った気はさらさらないけれど、「女の武器」を使うことのなにが悪いのか、とも思うこともある。生物として、男性の方が体力で勝っているのだとしたら、体力のない私は何で追いつけばいいのか、と必死で考えた。「その辺の男子」よりずっと努力した自負があった。力半分で働いて、「あと40年もこんな風に毎日働くのかぁ」と愚痴る男性社員が許せなかった。「女」である私には、そんな悠長なことを言っている暇はなかった。

いま思うと、そんなことを考えないといけない競争社会が、人を「許せない」と思ってしまうほど心の余裕をなくしてしまうほどの競争社会が、心底くだらなくて、みんなを苦しめていると思う。きっと、苦しんでいるのは女性だけではない。男性も、そうでない人も、みんな一緒だ。

競争から降りたくない、という気持ちと同じくらい、結婚や妊娠・出産の希望もあった。妙齢が近づくにつれて、たとえ恋人がいない時期であっても、海外赴任の打診を断るようにしていた。今海外に数年間行ってしまったら、妊娠できないかもしれない、と本気で悩んだ。もちろん、海外赴任が、しかも「数少ない女性総合職による」海外赴任が、出世に良い影響を及ぼすことは明白だった。それをわかっていて、捨てられない想いと葛藤しながら、判断を下していた。どうして何かを犠牲にする前提で考えなければいけないのだろうか、という悔しさだけが残った。

「結婚」「妊娠・出産」「育児」を、「女性の幸せ」として捉える人がいるけれど、それらは「女性の幸せ」の一言で片づけられるようなことではない。全て相手がいることであり、「家庭を築きたい」「子供がほしい」と思う男性の夢や願いを叶えることでもあり、新しい命が誕生するという奇跡のような出来事でもあり、社会を発展に導く光でもある。これは、結婚しない女性や、子供を産まない女性(そもそもそういう括りが嫌いだけれど)を非難しているのではない。結婚すること・子供を産むことを当たり前に思い、なおかつそれをあたかも「ぬるいこと」「ゆるいこと」のような口調で一方的にジャッジする人を、非難したいのだ。

結局私は、体調を崩して休職している。ある種、強制終了させられる結果になったけれども、私はこの結果に深く納得しているところがある。無理があったのだ。全てのことに対抗するにも、全ての環境に自分を適応させることにも、全ての期待に応えることにも。最初から、こうなることが決まっていた、と、今なら思う。

この休職は、降りたくても降りられなかった競争社会から降りることができたきっかけになった。おそらく、もうその競争に戻れることはないだろう。だって、競争だから。早いもの順だから。犠牲にしたものが多ければ多いほど「勝てる」仕組みになっているから。自己犠牲の精神の上に成り立つものだから。

上手くいかない原因は、「女性の甘え」でもなければ、「男性による差別」のような、個人の意識の問題でもない。そういう発想が生まれたり、男性も女性もそうせざるを得ない環境に立たされてしまう「社会構造」が問題なのだ。そのことを、この本はしっかりとしたエビデンスを元に、証明してくれた。そして私は、そういった社会構造の上に成り立つ、いや、そういった社会構造の上でしか成り立たないような「競争社会」から降りることが出来たことを、心から喜び、感謝している。

いわゆる女性活用に関する講演会のようなものに行くと、必ずと言っていいほど「今の環境を変えるには、女性が立ち上がるしかないのです」とか「自分がパイオニアになるつもりで」とか「自信がなくても、手を挙げましょう」という講演内容を聞かされる。でも私は、自分より下の世代の子たちに「手を挙げたほうがいいよ」とは決して言えない。私自身も、手を挙げる気にならない。その大変さを、それが意味することが何かを、身に染みて知っているから。

どうせ競争するのなら、どうせ闘うのなら、それが幸せに導かれるものであってほしい。自分の望むものへ、たどり着くための闘いであってほしい。それが、いまの社会構造の上に成り立つものであるとは、到底思えない。

「これだから女は」「これからは女性の時代だから」「女性総合職の星として期待しているよ」「やっぱり30歳までに結婚したいよね」「時短だと、やっぱり職場の理解がないと」「別居婚なんてありえないでしょ」「旦那さんの面倒もちゃんとみなさい」「つまんない仕事でもいいから、働いてる方がましかな」「離婚リスクを考えると、専業主婦は無理だよね」「保活のこと考えると、●月に子作りかな」

いろんな矛盾を孕む言葉を散々聞いて、辟易とした気持ちを持ちつつも、その言葉一つ一つに対して対抗できるロジックも、適切な言葉も見つからなかった。あまりにも複雑な問題で、それを説明する体力も気力も、なかった。今もそういう思いをしている人は、この本を差し出して「読んで」の三文字だけ言えばいいと思う。

「フェミニズム」の「フ」の字を出しただけで嫌そうな顔をする男性には社会のことをもっと勉強してほしいと思うし(なぜならこれは女性の問題ではないから)、その嫌そうな顔が、女性をより一層生きにくい方向に向かわせ、そしてそれがしっぺ返しとなって男性が苦しむことになることをわかってほしいと思う。自分の愛する女性が「仕事がしたいから、子供は欲しくない」と言ったら、あなたは何て返しますか?

勝手ながら、中野さんの本から魂を感じて、その魂のバトンをつながなければ、という思いで、この記事を書いている。私たちが変えたいのは、変えなければいけないのは、女性でもなくて、男性でもなくて、社会構造である。その大きな答えを、考えるきっかけをくれたこの修士論文と中野さんに感謝したいと思う。

この記事は、私の気持ちを存分に込めて書いた。私の現職場(休職中だが)の人がどれくらい読んでいるのかは知らないけれど、一種のレジスタンスだと思っている。私を批判する人もいるのかもしれないけれど、批判する場合は中野さんの本を読んでからにしてほしい。そして、できることならば、競争から降りた私の今の気持ちとして受け止めて、応援してほしいと思う。

休職して、体調が少し落ち着いてから久しぶりに会った友人が口々に発した言葉は「柔らかくなったね」「肩の力が抜けた感じがするね」「表情が明るくなったね」「前はもっと怖い人だと思ってた」というポジティブなものばかりだった。たぶんそれが、本来の私だ。無意味な競争から降りて正解だった、と心から思う。とても辛く苦しいものだったけれど、調子を崩してくれた自分の身体に感謝している。自分の大切な一度しかない人生は、本来の自分で生きていきたい。そう気づかせてくれた自分の身体と、大切な家族や友人たちに心から感謝している。

無意味な競争にはもう参加しないけれど、意味のある議論には積極的に参加する気持ちでいる。いまは、そのための準備をしているつもりだ。身体の意味でも、心の意味でも。

恵まれた環境からとか、上から目線で書いたつもりはないけれど、そう感じた人がいたならば申し訳ない。そして、この記事における「女性」「男性」という区分けについて、LGBTQの人の立場を便宜上無視してしまったことについて、申し訳ないと思っています。

Sae

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