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脱学校的人間(新編集版)〈57〉

 「個性的で稀少な仕事に従事することで自己実現を達成したい」と夢見る若者たちにとって、内田樹が形容するところの「青い鳥仕事」(※1)なるものは、まさしくそういった若者たちの欲求する夢にもマッチするような、いかにも「クリエイティヴでイノベーティブ」なものであるかのように一般的には思われているものなのであろう。しかしそのような判断というものは、むしろ一方でこれまた内田の名づけているところの「雪かき仕事」なるものが、いかにも「地味で退屈で目立つところの全くないような冴えない仕事であるかのように世間一般から思われている」からこそ、可能なこととなるのではないだろうか。さらにまた一方で、逆に「雪かき仕事」の方が、目立たないけれど周囲のために地道に貢献する大切な仕事であるかのように思われているのは、その反対に「青い鳥仕事」がチャラチャラと浮ついた、自己本位で気ままな稼業のように見られているおかげなのだとも言えるわけだ。
 というより何より、そもそも「雪かき仕事」が「青い鳥仕事」のことを、必ずしも常に一方的な羨望のまなざしで見ているのだと、一体どこの誰が断言できるものなのだろうか?むしろ「雪かき仕事」が「青い鳥仕事」を「嫌悪と軽蔑をもって見ているのかもしれない」ということだって、十分に考えられることなのではないか。ちょうどアリが冬に飢えたキリギリスのことを最終的には手酷く侮辱したように。
 それにあるいはもしかしたら、「雪かき仕事」にしたところで自分たちよりも「下層の仕事」に対しては、たとえば「雪運び仕事」や「雪捨て仕事」などに対しては、それこそ「嫌悪や軽蔑に動機づけて見ている」かもしれないではないか。「そのようなつまらない仕事よりも、雪かきの方がまだしもクリエイティヴだろう」とでもいうようにして。そしてそのような「他を下に見る視線」こそが、世の「上層に位置づけられた仕事」の稀少性や有用性を、よりいっそう「価値化する」ことにつながっているのだ。

 それにしても、たとえどれほど「雪かき仕事」的なものが、誰からも表立って感謝されることがないのだとはいえ、「しかし、自分たちは現にこうして他の者らの誰もやらないような仕事を日々しっかりとやり遂げているのだ」という、自分たちなりの達成感と自己満足くらいは、誰でも人知れずそれなりに、持ち合わせているものなのではないだろうか。たとえいくらその仕事を「自分自身で望んだわけではない」と言っても、しかし少なくともその仕事を実際にしている間くらいは、ただ単に「他人から押しつけられた仕事」というばかりでは、人はけっして自発的になど働けないものなのではないか。「それは単なる『やってる感』にすぎない」とたとえ他人から言われようとも、自分自身でその従事している仕事に対して、プライドなり矜持なりを少なからず持って、それを自分自身がその仕事に従事する「主体的な理由」に転化していくことができているのでなければ、やはり人というものは一時たりとも働けはしないものではないだろうか。
 また「雪かき仕事」であれ何であれ、それを自分自身の仕事としているということは、結果としてそれが「自己の利益につながる」と考えることができているからこそ、その仕事に従事していられるものなのではないのだろうか。そのような自己利益を「自分自身としても欲求しているから」こそできるのが「仕事」というものなのではないのだろうか。
 とは言いながらも、そういった自分自身の仕事に対する矜持や欲求といった「主体的な理由」を根拠づけるものとしては、やはり「他の仕事との対比」から生じるところの「まだしもあのような仕事よりは」といったような心象が、何かしらそこには表れてくるものなのだろう。そして人がそのような心象を抱くことについては、それが「雪かき仕事だから」とか「青い鳥仕事だから」とかいった区別は、おそらく何も関係がない。たとえどのようなタイプの仕事であろうとも、「互いの仕事との対比」において「あの仕事よりは」という比較と差異による動機づけが、自分自身の仕事に対する「主体的な」意欲づけとして、何ら影響を与えてはいないのだとは、どこの誰もけっして言えはしないだろう。

〈つづく〉
 
◎引用・参照
※1 内田樹「下流志向」


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