見出し画像

「排除せよ!」の危険性

痛ましい事件が起こる度「排除しろ!」という声が上がる。

凶悪で凄惨な事件や何らかの重大なトラブルが溢れかえる昨今、思わず言ってしまう気持ちはわかる。一方で「何の疑いも躊躇いもなくそう言えてしまうことの危うさに気付いている人はどのくらいいるんだろう」とも思う。

どんなことについても言える。

「排除する」ことはたしかに手っ取り早く一定の効果があり、取り急ぎであるとか一時的な処置・対処としては使えるだろう。しかし、大本を正さない限り、場所や人が内容が変わるだけで、いずれまた似たようなことが繰り返される。

抑圧では問題は解決しない。

「切り離し」は溝と闇を深くするばかり。社会からの精神的な救済の仕組みが発達しない限り、凄惨な事件は無くならないのだろうと思うと絶望を感じるよ。

そしてまた、一人でニュースを受け止めることもつらいけれど、常識的な意見「らしい」声に触れるのもまた同じようにつらい。一切の迷いなく、加害者を罵倒し声高に糾弾する同僚の言葉に絶句する、その繰り返し。人を殺めたのもまた人である。あなたが虫けらのように悪態をつく、その対象は人である。その繰り返し。

仮にそれが「社会の声」だとするならば、「社会が犯行に走らせた」という側面だって考慮する余地はあるんじゃないか?自分は絶対に間違っていないと綻びのない理由・裏付けとともに断言できるか?誰が正しいとか、そういうことじゃない。悪事は悪事、犯罪は犯罪、それは許されることじゃない。

だけど。

排除されたことが無い人間には想像すらできない世界なのかもしれないけれどね。結果的にその規模や対象が犯罪や反社会的行動に移行しない内容であっただけで、排除や切り離しというのはそこら中に溢れている。切り離された人間のやるせなさを経験していたら……。

少なくとも私は、こういう時にどんな顔をして、どんなことを言えばいいのかがわからない。だから困った顔や動揺や心の痛みをさとられないよう無表情を装いながらただ黙ってしまう。

あなたは今、何を思う。


サポートありがとうございます。いただいたサポートは創作活動にあてさせていただきます。